日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2026年04月27日

仏像の顔を眺めてみよう

3回目。

仏教シリーズ第二弾。

オム・マニ・パドメ・フム」とチベット仏教では、お経を唱えるそうだ。
調べてみると、日本以外は、ちゃんと表記されている。

https://jmedia.wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%89%E3%83%A1%E3%83%95%E3%83%B3/Om_mani_padme_hum(「https://jmedia.wiki/」)

オム・マニ・パドメ・フム」というお経を日本で聞くことはなく、それに対応するのが、「南無妙法蓮華経」である。
この起源をたどると、紀元前のゾロアスター教にまでさかのぼる。
その結果、パドメは、観音菩薩だったのである。
さらに、観音菩薩の正式名称をだどると、ゾロアスター教の主神の娘、アナーヒターへ行き着く。(※1)

なぜ、ここで観音さまがでてくるか?
私の感覚、みんなの感覚では、仏壇に飾ってある像やお寺の像が何なのか、意識した時はないと思う。
隠された歴史」の著者である副島先生は、それを考えることから書き始めた。
阿弥陀如来、観音菩薩、弥勒菩薩は、すべて女なのだそうだ。
観音菩薩については、語源をたどれば、アナーヒターという娘なのだから、女神であるのは確かだ。
私など仏像の性別すら考えたこともなく、しかも、ブッダであるお釈迦さまでさえ、どれがそうなのかわからない。

阿弥陀如来は男でもなく女でもなく中性だ」と坊主たちが言うらしい。
そして、仏壇に飾ってあるのが、お釈迦様なのか?
お釈迦さま、つまり、ブッダの時代には、仏像はない。(※2)
だから、仏像や菩薩像は、後世の仏教僧たちの考えを美術品化したものである。

ブッダが悟りを開いてから、弟子がたくさんできた。
女の弟子もたくさんいた。
その中の一人、マイトレーヤという人が、弥勒菩薩となる。
彼女こそが、仏教での、救済の神様である。(※3)

阿弥陀如来をありがたがる信仰は、古代エジプトに端を発する。
しかも、ユダヤ教に大きく依存する。
「アーメン」とただひたすら唱えよ、という形が、そのまま「弥陀の本願」となり、「南無阿弥陀仏」を唱えればいい、ということになった。(※4)
ただアメン神は、男である。
したがって、阿弥陀如来の性別は順当なら男であるはずなのだが、顔は男にようには見えないようだ。
だから、中性と答えているのかもしれない(笑)。
阿弥陀様のことを唱える場合、「南無阿弥陀仏」だが、日本以外では、「オン・アミダラ・フーム」と唱える。(※5)

男の仏像といえば、奈良の大仏だ。
パンチパーマのような髪をしていて、あんな顔で睨まれたら怖いと思う。
それから比べれば、確かに、観音菩薩、弥勒菩薩は、髪もなだらかで女と像に見える。
あの大仏は、男だからお釈迦様かといえば、そうではない。
大日如来といって、チベット仏教特有の曼荼羅図の真ん中にドカンと載っている。(※6)
もっとその起源をたどれば、ギリシャ神話のゼウスなのだそうだ。
神話の世界の全知全能の神が、世界宗教に影響を及ぼしている。
お釈迦様は、大日如来の横に小さく載っている。
ゼウスの子、という扱いだ。(※7)
私の家の仏壇には、小さい木製の像が何やら座っている。
パンチパーマだから、たぶんゼウスだ。

副島先生は、語源をたどるだけで、これらを考察した。
もちろん、そのようなだけ推定で、事実を確定させるのは難しいだろうが、宗教が「救済」という人間の心理に関係するものであるから、世界的に同じようなものになっても、不思議ではないと思う。

これを読んで、みなさんも、いろいろな仏教美術を見る場合、仏像などがどんな顔をしているのか、興味が湧いてきたのではないか。

仏教美術の大型化は、現代になって凄まじい勢いだ。

https://tabizine.jp/article/638844/(「TABIZINE」)

仏教は、観光地として、売り物になっている。
それらを巡るときは、ぜひ顔を見て、性別を推定するのも楽しいかもしれない。



(※1)
 もうひとつの呪文の「ナム(南無)ミョウホウレンゲ(妙法蓮華)キョウ(経)の「妙法蓮華」とは何のことか?岩波文庫『法華経』(全3巻、1962年初版、坂本幸男、岩本裕訳注)ではこれを「正しい教えの白い蓮」と訳している。
 白い蓮とは何か。ズバリと書く「パドメ」のことだ。「オン・マニ・パドメ・フーム」と唱える。インドやネパール、タイ、チベット、モンゴルで唱える。私はこのことをそれぞれの現地で自分の耳で確かめた。この「オン・マニ・パドメ・フーム」が日本では「ナムミョウホウレンゲキョウ」になったのだ。
(「隠された歴史」p16)
サンスクリット語で原典では「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(saddharma puNDariika-suutra)」である。それぞれの意味は、サッダ(sad)=「正しい」「不思議な」「優れた」など、ダルマ(dharma)=「教え」「真理」、プンダリーカ(puNDariika)=「因果倶時・清浄な白蓮華」、スートラ(suutra)=「仏の説いた経典」である。
 そしてこの「プンダリーカ」が「パドメ」(padme)である。パドメは、「赤い蓮」や野山の「れんげ(蓮華)草」のことも指す。そして、このパドメこそは、古い観世音菩薩(観音さま)という女神なのである。
 私は「オン・マニ・パドメ・フーム」(On-ma-ni-padme-fum)というお経をヒンドゥー大学の学僧たちが、私たち観光客を相手にずっと唱えるのを、インドのヴァラナシー(ベレナス)で聴いた。5年前の2007年のことだ。そのとき以来、この真言(マントラ、真理のコトバ)が、ずっと耳から離れない。延々と2時間ぐらい、こおn「オン・マニ・パドメ・フーム」を学僧たちが読誦)(声に出してお経を読むこと)、合唱して、ずっと繰り返すのを聴いた。ガンジス河(ガンガー)の船の上から岸辺(ガート)の学僧たちを見ていた。夜でかがり火もたくさんかざして、学僧たちがそれを手でぐるぐる回すものだから妙な興奮を覚えてきた。観光客の中から「もう帰ろ、帰ろう。これ以上、聴いていたら、引き込まれて頭がヘンになってしまう」と言い出す者が出てきた。
 この「オン・マニ・パドメ・フーム」、「蓮華の宝珠よ、幸いあれ」という読経がずっと唱名されていた、これは確かにヒンドゥー教なのだが、「拝火教」でもあると、とそのとき私は強く感じた。拝火教、そう、ゾロアスター教(Zoroastrianism ドイツ語=西洋ラテン語なら、ツァラトゥストラ、ザラスストラ Zarathustra)なのだ。開祖ゾロアスターは紀元前7世紀後半(紀元前680年頃)のペルシャ高原の宗教家で、77裁で死んだとされる。彼が説いた、善と悪、光と闇の二元論(dualism)の宗教が世界中の大宗教に大きな影響を与えた。西の方へ行ってユダヤ教、キリスト教に、東の方へ行ってヒンドゥー教の原型であるバラモン教(ウパニシャッド思想)に強い影響を与えた。
 ゾロアスター教の100年後に、ブッダが出現している。私の考えでは、ブッダの思想はヒンドゥー教の中に入ったゾロアスター教(拝火教)であろう。善神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)が悪神アフリマン(Ahriman)と戦って、アフリマンが敗れて、本領である暗闇の中に追いやられる、という教義をゾロアスターは宣言した。
 そして観世音菩薩(観音さま)の正式名であるアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokitesvara)は、このゾロアスター教の主神(善神)であるアフラ・マズダの長女で、人気のある女神のアナーヒターだというのである。この観世音菩薩=アナーヒター説は、世界中の仏教学の辞書に書かれている。
(「隠された歴史」p186)

(※2)
 ガンダーラ美術(仏像)はインドの北の方、今のパキスタンの北(ペシャワール、イスラマバードのあたり)であるガンダーラで生まれた。ギリシャ、ローマの影響を受けている。だからギリシャ彫刻のような西洋人と混ざった顔をしている。このことを日本人は小学校の社会科で習う。このガンダーラ仏像が南下して釈迦が生きていたインド東武のビハール州の方にも伝わって、そこでも作られるようになった。特筆すべきはガンダーラには阿弥陀如来などの像はない。ブッダの像だけである。
 偶像を拝むという思想は釈迦の周辺にはなかった。これはギリシャ、ローマ文明の影響である。3世紀以降仏像(主に石仏、磨崖仏)が崇拝されるようになって、釈迦の姿を描いたものが中国までやって来た。英語では仏像を Buddha image「ブッダズ・イメージ」と言う。だから仏像という以上、「仏」の「像」だからブッダその人の姿形でなければいけない。絶対にそうなのだ。ところが、この「仏」をどんどんいい加減に広げていって「他の仏様」たちが出現したのだ。
 私は再度、ここで問う。@阿弥陀如来は、一体、何者なのか。A観世音菩薩(観音様)は何者なのか。B弥勒菩薩は何者なのか。➁観世音菩薩もB弥勒菩薩も立像が多く、乳房があり、腰がくびれており、全体が女性の像である。誰がどう見ても女である。全身に飾りをつけ、髪も豪華に結っている。これらは釈迦の像とは絶対に異なる。
 この当たり前の一点を仏教学者、仏僧たちがはっきりと言おうとしない。京都に行くと、必ずどの宗派の坊主も「阿弥陀如来は男でもなく女でもなく中性だ」と言う。おかしな話だ。
(前掲書p46)

(※3)
 ゴータマ・シッダルタが悟りを開いた後(36歳)、徐々に評判が立って彼の元に集まって帰依して多くの者が信者となった。女たちもいた。この話は、妙法蓮華経(=法華経)の歓持品第十三(第13章の意味)の中に出てくる。女の弟子たちの名前は、マイトレーヤ、ヤショダラ、マカ・ハジャハダイらである。50人ぐらいの比丘尼(尼さん)が、ブッダ教団に参加して暮らしていたようだ。この女たちのうちのマイトレーヤが弥勒菩薩である。
 だが、この弥勒菩薩は、どんどん神格化が進んで「天から降りてきて一切衆生(この世のすべての人間)を救済する女神」のこととなる。だから、弥勒菩薩は、キリスト教におけるメシア(救世主)の役割と同じ女神である。
(前掲書p18)

(※4)
 阿弥陀如来は早くも3世紀には中国に到来している。だから、4、5世紀の中国では阿弥陀如来信仰、すなわち西方浄土の浄土思想が成立している。西方とは、ずっと西の方のことでエルサレムである。だから浄土思想は、エルサレムの方を拝むという思想だ。これが、「ただひたすら神の名を唱えよ」という「アーメン(アミダ)を唱えよ」という思想として中国に伝わったのだ。「アーメン」とは「まことに、確かに、そうなりますように」という意味であるとされる。が、実はチラリと前述した「アメン神」のことである。古代エジプトでアマルナ改革(紀元前1350年頃)という宗教改革があった。このアマルナ革命のときに現れた神で、アメン神の他にアテン神を作った。古代エジプト王朝の王(ファラオ)のアメンホテプ(トゥト・アク・アメン)4世が従来のアメンをやめてアテンという神を作って崇拝した。新しい神を作ったために、神官たちと10年間ぐらい激しい戦いになった。そのときアメンホテプ4世によってアマルナという新しい都市が作られたのだが、すべて消滅して再び、昔の都に戻った。
 預言者モーセが現れたのは紀元前1250年頃とハッキリしている。モーセも、どうやらこのアメン神の信者であり、モーセを指導した神というのは、どうやらアメンホテプ王と対立した実在の神官たちである。ユダヤ教の経典の中心は『出エジプト記』(エクソダス Exodus)であるが、この『出エジプト記』自体は、モーセという男の行動記録である。モーセ五書Toraとは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書である。その創世記(ジャネシス(Genesis)の天地創造に「はじめに光ありき」で、「はじめに神は天と地とを創造された」とある。神が天であり、1週間でこの世界がつくられて、最後に人間をつくったとする。この話は、モーセの行動のずっと後に生まれた話である。あくまで、ユダヤ教の原点は、モーセの行動の記録、すなわち『出エジプト記』だ。
 だから、アメン神をただひたすら唱えればいいという、このアーメンという思想が仏教の中で阿弥陀様になっている。阿弥陀信仰もただひたすら「弥陀の本願」と言って、「阿弥陀様の名前を唱えさえすればいい」という思想になった。これが「南無阿弥陀仏」という呪文になっている。
(前掲書p61)

(※5)
「オン・アミダラ・フーム」(南無阿弥陀仏)という呪文も、アジア各国で唱えられていることもほぼ確認した。
(前掲書p197)

(※6)
 ところで、このパンチパーマの奈良の大仏様(大きな仏様)というのは、お釈迦様(ブッダ)か。というとこれも違うのだ。これは盧遮那仏と言って、「大日如来」なのである。大日如来とお釈迦様がどう違うかもまた、真剣に考えたことのある日本人もいない。どっちでもいいじゃないか。大きい方と小さい方、ぐらいにしか、どうせ思っていない。大日如来をサンスクリット語ではマハー・ヴァイローチャナ mahaavairocana と言う。大日如来は、チベット仏教から来たものだ。チベット仏教は、例のあの「曼荼羅図」という仏教界の世界図式を描いたものを持っている。曼荼羅図の中心に大きく座っているのが、大日如来である。それではお釈迦様(ブッダ)はどこへ行ったのか。大日如来の横に小さく描かれているのがお釈迦様だ。
(前掲書p21)

(※7)
曼荼羅図の真ん中の大日如来とは、だから実は、ギリシャ神話の主神であるゼウス(デウス Zeus)のことである。この「ゼウス」という言葉が、キリスト教どころか、他のいろいろな宗教で最高の神のことを指す。曼荼羅図ではこのゼウス(大日如来)の脇の小さいな丸の中に釈迦如来(お釈迦様)が描かれているのである。チベット仏教の曼荼羅図を博物館で見たことのある人は、このことに奇妙さを感じなかったのか。これはまさしく「神と子と精霊」の三位一体(トリニティ)の思想である。神とはゼウス(天)であり、その子がイエス・キリスト=ブッダであり、それ以外が精霊(Holy Spirit ホウリー・スピリット)である。
(前掲書p24)



posted by T.Sasaki at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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