ふたたび。
すでに紹介した「
歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力」という本を読む前に、私は「
隠された歴史」を先に読んだ。
副題が「
そもそも仏教とは何ものか?」というものである。
この中に、「
歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力」を引用する場面があり、それが、仏教の変節を指摘した富永仲基のことを知るきっかけとなった。
彼の思想が、「
日本人の誠実さの起源」である。
葬式仏教について、誰もが思うことがある。
「あの訳のわからないお経は、何を言っているのだろう?」と。
その結果、真面目な若者たちは振り回されて、オウム真理教のようなものにハマってしまう。
仏教界の責任は大きい。
(※1)私は、「
隠された歴史」を読んでから、お寺の坊主たちの、まるで先生みたいな態度を、心の中で否定するようになった。
彼らに、何か、私たち労働者に、教示できるのであろうか。
このような反抗的なことを口に出したのは、「
老害」で書いた時が初めてで、寺の住職への引退勧告である。
その後、その寺の小坊主に、この本をプレゼントしてみたが、読んだかどうか知らない。
今からこの仏教シリーズを書くにあたって、私は2回目を読み、さらに部分部分を何度も読み返している。
そんなに頭が良くないから。
アマゾンなどの書評では、副島先生の本を否定する人の多くは、「誤った記述が多い」という。
部分部分の詳細な事実について、である。
そして、よく「あっただろう」という記述にケチをつけている。
誤った歴史の記述は、後でアップデートすればいい。
歴史というものは過去のものであるから、再現できない。
したがって、推測で歴史を分析する場合、後に出てくる資料ごとに変化してしまうことを念頭におかなければならない。
これは、しかたがないことである。
肯定的な書評は、考え方、捉え方に対して、教えられた、というものである。
読書というのは、その本の主張するものは何か、というのが、もっとも大事だと思う。
これを読解力という。
私も、そのことがわかったのは、たくさんの本を読んでからだ。
若い頃は、書いてある事実のみしか読み取らなかった。
そのためもあるのか、私の大学受験の共通一次試験など、国語の点数は惨めなものだった。
偏差値など20くらいで、日本人ではない、というくらいのものだ。
それでも、理数系と社会が特別によかったから、何とか大学には入った。
その後、漁業をやるようになってから10年くらい経って、読書するようになった。
相変わらず、よくある書評ような読み方をしていたが、だんだんと読解力がついてきて、今は、本全体で何を主張するのかわかるようになった。
逆に言えば、そういう主張をしない本は、マニュアルや図鑑などと同じ種類の本なのであり、読んでも面白くない。
こうこうことがわかってくると、現在の大学センター試験の国語は、100点とれる。
古文、漢文以外だと、本当に100点とれるようになる。
本当だ。
実は、漁業法という法律は、そういう類のものである。
これは、参考書を何冊も読まないとわからない。
それで、大体の法律思想というものがわかってくる。
漁業法は、みんなものである海面を、どうやって争いごとをせずに利用するか、ということを解決した法律である。
この辺は、カテゴリー「
漁業法の理解」を記してある。
本質は、「原住民を大切にしろ!」というものだ。
もっと考え進めれば、世界平和の礎となる。
さて、「
隠された歴史」に戻る。
世界宗教というのは、困った人民の救済のためにある。
救済という目的がなかったら、誰もそれにすがることもなく、流行らない。
この構造を利用したのが、現在のキリスト教や仏教である。
しかし、大元の考えを作ったキリストやブッダは、そういうことを言っていないらしい。
証拠として、中村元さんの著書を紹介してある。
(※2)ブッダの言葉そのものだけが真実であり、それ以上のこと、すわなち、救済について言い出したは、後の仏教を伝来させた人たちである。
救済は、営利目的なのである。
そしてやはり、中村元さん以前の明治時代にも、お釈迦さまが本当にやったことを調べようとした人たちがいた。
そのことを書いた本を読んで、日本の坊主たちは衝撃を受けたりした。
(※3)それでも、寺の営業は変わらない。
日本での営利目的は、何と言っても檀家制度だ。
これは、たまたまキリスト教を恐れたためにできたものであり、後の戸籍や住民票の元になる。
(※4)すでに役目を終えたのだから、なくてもよい。
実際に、寺の坊主を気に食わない檀家は、さっさと寺を変えている。
こんなことをやっていれば、みんなを救済することもできないし、看板倒れである。
「
隠された歴史」の最後では、宗教によって、人類は救済されなかったし、今後も救済されることはないだろう、と結んでいる。
したがって、法事などで先祖を拝む場合、親類や世話になった者どうしでやる、というのが本筋である。
坊主のアホンダラ経は、二の次だ。
酒席でもいい。何でもいい。
「みんなで仲良く」という目的が、自然にできあがったものだと思う。
(※1)
お坊様たちの仏教の教えは偉いものだというけれども、再び書くが、お経というのは、例の難しい漢文で書かれた、いったい、何を言っているのか今の私たちにさえ全く分からない理屈です。仏僧たちは、あの中味を分かりやすく信者や檀家たちに説明しない。これは大きな間違いだ。
葬式(法事)とかでお経を唱えた後の法話の時間に、僧侶が有り難いお話をするというけれど、今の坊主たちの話なんかたいして優れてない。そこら凡人の話だ。仏教の教理を自分たち僧侶だけで被疑秘伝で職業として伝えているだけだ。だから、江戸時代にはもう、お坊様のお経はアホダラ経と呼ばれていた。何を言っているかまったく意味が分からない。それなのに、「ありがたい、ありがたい」と言わせて、法事があるごとに毎週のように三時間も五時間もお経を聞かなければいけなかった民衆の苦しみを今の私たちはわからなければいけない。今の日本の各宗派の仏教教団自身にもその責任がある。だから真剣に宗教(信仰)を目指す真剣な若者たちの一部が、オウム真理教のような邪宗にのめりこんだのだ。責任は今の宗教界にある。
(「歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力」p111)
(※2)
ブッダその人のコトバ、すなわち、本当の仏教学の本物の経典は、(東京大学のインド哲学仏教学教授で仏教学者の中村元(なかむらはじめ、1912〜1999)が和訳した)『ダンマパタ』(その一部が法句経〈Dhammapada〉として中国語仏典となり日本にまで伝わった)と、『スッタニパータ』(SuttaNipata)の2つだけである。普通、原始仏典という言い方で呼ばれるのがこの2つである。『ダンマパタ』は、『ブッダのの真理のことば』(岩波文庫の『ブッダの真理のことば 感興のことば』所収)と訳されている。2冊とも改訂されて岩波文庫で今もよく売れている。『スッタニパータ』の方は漢訳仏典として中国にも伝来していないようだ。
(「隠された歴史」p157)
(※3)
本当のお釈迦様がやった修行の内容と、本当にお釈迦様がしゃべったことに、自分たちは戻ろうという動きが、日本でも仏僧の間で明治時代から始まった。「一体、本当のお釈迦様の教えはどうだったのだろう」と、海外渡航できるようになってからインドの釈迦の生地や聖地に行った。からなずそういう僧侶たちが出てくる。そして真実を知った。日本僧・河口慧海がインドからネパールそしてチベットにまで踏み入って『西藏旅行記』という本を1904年に書いて、明治の日本の仏教信者たちに衝撃を与えたりもした。
(「歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力」p166)
(※4)
檀家制度というのは、キリスト教(耶蘇教)を恐れて、これを日本国内で禁圧して根絶するために生まれた制度だ。全ての国民が必ずどれかの宗派のお寺に信徒として登録されなければならなくしたのである。だから僧侶階級が、大変威張っていた。その陰湿な威張り方は今の日本の官僚たちとそっくりだっただろう。
大きなお寺のお坊様というのは、高学歴で難しい漢文(お経)が読めた偉い人たちだった。今でも日本全国のあちこちに立派なお寺がある。あの立派なお寺を建設して維持していくには相当のお金がかかったはずだ。そのお金を町人や武士も含めて民衆、農民たちが負担させられたということだ。
坊主たちは「宗旨人別帳」というものを握っていた。今の戸籍制度や住民票による管理につながった基である。江戸幕府公認の仕事だ。すべての武士も町人も百姓もどこかのお寺の檀家になって、その名簿に載らなければいけなかった。もし宗旨人別帳から削除され排除されると、それは、「無宿者」「非人」となって、犯罪者扱いだった。明治時代に今の私たちの戸籍になった。
宗旨人別帳を握っていたから、お坊様というのは檀家に対してものすごく強かった。先祖のお墓参りをするためには、どうしてもお寺の坊主に頭を下げなければならない。先祖崇拝と仏教は実は何の関係もないのです。葬式というものと仏教(釈迦の教え)は全く関係ないのだ。お釈迦様(仏陀)本人は、「人間の死に関わるな。葬式に関わるな」とはっきり言っている。それなのに葬式を全てお坊様が取り仕切るようになった。お墓はお寺にある。だからあれは人質と同じ、墓質だ。このようにして江戸時代には、仏僧たちは民衆にひどく嫌われる存在になっていたようだ。ただし、僧侶は漢文(中国語)が読める秀才人間たちだと考えられていた。
(前掲書p84)