日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2017年06月30日

秋田に入る

こんにちは。

数日前から秋田にいる。
新潟で1日皆無の日があり、さらに、その翌日の朝、気分悪いことがあり、新潟を去ることを決意。
秋田沖に来てみたはいいが、船だけはたくさんいるが漁はパッとしない。
漁がパッとしないから、船も解散状態。
休み明けに、どうなることやら。
これは、飛島を北側から写したもの。

飛島.JPG

もし、ダメなら、また移動することになる。
選択肢として、3つある。
北海道積丹半島に向けるか、八戸に向けるか、新潟に戻るか。
このうち、積丹半島案は、船がたくさんいるとのことで却下。
八戸沖は一昨日あたりから気配を見せてきている。
今日でトロールが切り上げだから、漁は上向くと予想される。
漁が出たら、すぐに行くことになるが、それがいつになるか。
新潟沖は、船も少なくなり操業しやすく、漁も復活したようだ。
しかし、漁場が遠くて嫌になる。

今日は休日。
バカは高いところが好きだから、さっそく、港にあるポートタワー展望室へ。
新潟のホテル日航展望室(140m)よりは低く、100mだそうだ。

ポートタワー.JPG

海岸線に沿って風力発電設備がある。

秋田港.JPG

このでかい船は、昼夜クレーンが稼動している。
交代勤務の操業だろう。
30年前に入港した時には、風力発電はなかった。
ポートタワーもあったかどうか、記憶にない。

http://www.selion-akita.com/
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2017年06月20日

安心の証拠

再び。

北朝鮮がいろいろと各国を挑発しているようだが、まだまだ大丈夫だと思う。
なせか?
新潟港には、海上保安庁の大きな船が、悠々と係船されてあるから。

さど.JPG

これは、「さど」であるが、もう1隻、「ひだ」もいる。
何か、ニュースが騒がしくなって、2隻とも港内にいなくなった時こそ、有事であり、危ないのかもしれない。

ケータイによくかかってくるが、「ミサイルに大丈夫当たらないのか?」という心配は、やめてほしい(笑)。今朝など、寝ようと思って、シャツとパンツ1枚になったところ、海上保安庁の若いネーチャンに声を掛けられ、一緒にいた男性署員には、写真を撮られそうになった。
私が「パンツ姿は困ります」言うと、笑いが出るほど新潟はのどかである。
安全操業を促す各船への巡回である。
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「新潟の魚」

こんにちは。

最近の新潟にしては珍しく、天候がよい休日である。
遊びに行けばいいのに、街のネーチャンたちにカネを搾り取られるだけなので、読書ばっかりしている。
先日は、武士道に関する本の2冊目を読み、今日は、「新 治る治療、殺される治療」という本を読んでいる。
著者は、小野寺時夫さんという方で、生まれは、岩手だそうだ。
この本は、津波以前持っていたものを、再度、アマゾン中古で買ったもの。
なぜ再度読む気になったか、というと、ちゃんと、他の医者のことも書いてあるから。
一般人と同じで、医者にも、「良い医者」「ダメ医者」「ずるい医者」がいることを、彼は教えてる。
本来、「ダメ医者」「ずるい医者」は、淘汰される運命にあるのだが、そうではないのは、一般社会と同じであり、受診する側が賢くならなければならないようだ。

沖合いの風が強くて休みの時、地元船の水揚げを少し手伝った。
この時、箱を見て、少し驚いた。
箱に、「新潟の魚」と書いてある。

新潟の魚.JPG

以前、いか釣り船のいか箱にも、「新潟の魚」と刻まれてあったのだが、何せ、新潟産のするめいかは評判が悪く、この箱で他県で水揚げすると、とんでもなく悪く言われる。
だから、いか釣り船の方から、この「新潟の魚」という刻印はやめてくれ、と言われて以来、いか箱には、この刻印はない。
そもそも、なぜ、新潟産のするめいかが評判を落としたか、というと、先日も書いたように、小さいサイズのいかを自分の金儲けのためだけに、平気で大きいサイズのいかとして、水揚げしたからである。
これが最大の原因である。
旅の人間が、旅先の産地市場の混乱を引き起こしたのである。
一方、地元の小型船たちは、健気に、地元産の魚を大切に扱う(いか釣り船ではない。新潟港にはいか釣り船はいない)。
私は、ここにお世話になっている身分だから、乱暴なことはしない。
礼儀として、これは正しいと思う。
新渡戸稲造氏の「武士道」に関する本を読んでから、特に、そう思うようになっている。

この前の土曜日、ちょっとしたことでいか釣り船の船頭たちと飲む機会があったが、その時、話題になったことを記述する。
新潟産するめいかの評判を著しく落とした原因は、旅のいか釣り船だけにあるわけではない。
新潟の仲買人にも責任はある。
故意に小さくいかを並べている箱を、安く買わないから、こうなってしまったのだ。
高値から安値まで300円程度しか差をつけず、しかし、25入れと30入れの価格差は1000円も違う。
だから、30入れサイズのいかを25尾並べて、25入れとして水揚げしたほうが、平均単価は上がるし、水揚げ箱数も増える。
頭の良い商売人なら、わかるだろう。
簡単な話だ。

このブログで以前にも記述したことがあるが、これを解決する手段は、25入れの安値より、30入れの高値を高くすること。
これで仲買人が損することはない。
30入れサイズが25尾入っている箱より、30いれサイズが正直に30尾入っているほうが、歩留まりは大きいから。
これをちゃんと消費者に示すことにより、新潟産のするめいかは、評判を回復することができる。
それから、販売方法として、「せり」だけではなく、「入札」もやるべきである。
このことは、試験的にやってみてはどうか、と新潟漁協の理事さんに提案したこともあるが、却下されたらしい。

私が岩手県いか釣り部会の宮古地区の役員をやっている頃は、宮古魚市場や仲買人に、「ダメないか箱は、買い叩いていいんだ。それが産地市場の評判を良くする」と言っていた。
事実、あの頃、秋いかが獲れて、宮古産のするめいかは、引き合いが強かったらしい。
買いが強い時は、函館からも買いが入ったと聞く。

旅歩きして水揚げする人たちは、地元でないために、その産地の評判を気にすることが少ない。
しかし、立場を逆に置き換えて考えれば、こういう行動はよくないとわかるだろう。
自分の地元に旅の船が来て、乱暴なふるまいをすれば、地元船は、怒る。
そういう理解が必要である。
行き過ぎは、何でもよくない、ということは、ある年齢になるとわかることなのだ。
わかっていながらやる、ということは、卑怯な人間である。

私は、独行船で旅歩きする人間だが、人情のある人からは、声を掛けられたりする。
もちろん、私がどういう人間であるか、ということを前提に声を掛けてくるのだろう。
だから、話やすい場合が多い。
そういう人たちから、このいか釣り業界の裏話を教えられると、びっくりするのだ。
人は見かけによらないし、大漁するからといって、人間性が豊かとは限らない。
もうこの年になると、大漁するしないにかかわらず、自分だけのことしか考えない卑怯な人間とは付き合いたくない。
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2017年06月08日

200円カレー

こんにちは。

天候悪く、今朝の水揚げが終わって、もしかしたら、3連休。
まだ水温が低いせいか、するめいかもまだ小さく、40入れやバラが主体であり、30入れは、いつも一桁。
「休めば、いかが大きくなる」とプラス思考で、一杯やっか。

今朝、久しぶりに、漁協のネーチャンに話をしに行ったが、その時、「鮮イカ相場表」というものをもらってきた。
18隻で3114箱。
平均173箱。
私は146箱。
まあ、こんなもの。
最初から、船の塊にめがけていけばいいのに、反対方向も調査してみようか、ということで、反対へ行ったら、何もいなかった。
戻って行ったら、よく調査する船も行ったり来たりしていて、もう終わってる感じ。
あとは、ヤケクソ。
最後に、底反応ばっかりになり、太平洋モードで少し挽回。
最近、こんなパターンが多いから、あきらめモード。
逆に、ツボにはまると、とんでもなく漁に当たる。

「鮮イカ相場表」を見て驚くのが、30入れが多いこと。
総数3114箱のうち、30入れが1074箱もあるから、つまり、3割。
まあ、そんなものだろう。
勝手にやればいい。
こういうことをする人たちは、信用を大切にする商売には向いてない。
そうまでしなくても、十分やっていけるのに。

そんなことはどうでもいいことで、主題は、カレーの話。

今日、昼に起きてから、船体に塗るペンキを買いに、パワーコメリという所まで自転車で行ってきた。
その途中に、原価率研究所というカレー屋さんがある。
200円のカレーライスで、味はまあまあ。
学生時代の学生協のカレーに味は似ている(かなり昔だから今は知らない)。
200円という安さにはビックリするが、それでもちゃんと儲けているのだそうだ。
これは、何を示しているか、というと、困っている人たちにも提供できる、ということ。
実際に、東日本大震災でも、このカレーを被災者にご馳走している。
詳しくは、こちら。
新潟発の事業で、1000店舗が目標だとか。

http://genkaritsu.jp/

ただ、感心しないのが、容器の使い捨て。
このことを店員さんに指摘したら、「もったいないですよね」と言っていたけれど、洗う手間、つまり人件費より、容器の使い捨てのほうが安いとのこと。
これがカレーの原価を下げる一つの方法なのだろう。
「洗うのを機械化したら、どうなの?」「社長さんに言ってみたら」と提案してきた。

こういう飲食店業界の儲ける秘訣は、サービス内容とシステムのバランスを考え、原価を必要最小限に抑えること。

あとは、度胸があるかないか。
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2017年06月06日

漁船漁業と養殖漁業は兼業すべきでない

こんにちは。

「GDP4%の日本農業は自動車産業を超える」を読んで、いつも私が思っていたことを、吐き出すことにする。
この本には、日本農業の潜在能力の高さが書かれてあり、今まで、農林水産省とその族議員、そして、農協であるJAが、日本農業の進歩を妨げてきた、としている。
農家の数が多ければ、日本の狭い耕作地を分け合うのだから、一人あたりの耕作面積は少なくなる。
本来、そこに税金を使った保護策がなければ、中途半端な兼業農家は消滅し、やる気のある専業農家が伸びるはずだった。
したがって、規模の農業が、日本でもできるはずだったのである。

兼業農家にも専業農家と同じ、偏らない補助金を配られたために、いずれ消えるはずの兼業農家は、今まで生き残ってきた。
その結果、一人当たりの農家の取り分が、多くなるわけがない。
農家が減れば、誰が困るか?
その既得権益を離したくない、農林水産層と族議員、JAが、困るのである。
だから、このように、税金が使われてきた。

それが、ここ数年のうちに、農家の高齢化で、一気に耕作放棄地が多くなるのだという。
これにより、その農地を引き受け、大規模化と効率化を兼ねた、世界の農家と渡り合えるような農家が誕生することになるそうだ。
日本の米でさえ、国内価格が下落したため、経費節減などの努力により、すでに輸出できるほどになっている(何と!韓国産の米より日本米のほうが安く、食味はもちろん日本米が良い)。
だから、もう、TPPでも何でもオッケー。
従来の日本人の気質、武士道気質がある限り、農業だって、ちゃんと国際競争力をつけることができるだろう。

さて、この話が、私のやっている小型漁船漁業と、どんな関わりがあるか、というと、漁船の数と魚類資源の数についてである。
以前、地区の先輩から、岩手沖合い海面の漁業許可について、「1隻あたりの持つことのできる許可数を制限すべきだ」と言われたことがある。
たぶん、以前の漁運丸みたいに、たくさんの許可を持って、いろいろなことをやっていることに不満もあったのかもしれないし、純粋に魚類資源に関することを考えていたかもしれない。
魚類資源や漁船経営に関して言えば、彼の言うことは正しい。
漁船の数が多くなり、そのすべてが操業すればするほど、魚類資源は少なくなり、1隻あたりの収入も減るだろう。
だから、1隻あたりの持つ漁業許可数を減らせば、それなりに、資源も増え、1隻あたりの収入も増える。
確かに論理である。
これは、先程の農家の数と耕作面積の話と同じ話である。
しかし、私は、「その前にやることがある」と反発した。

現在、漁船漁業と養殖漁業は、平行してできる。
つまり、これも、漁業許可をたくさん持っているのに等しい。
1隻あたりの許可数を制限する前に、まず、漁船漁業と養殖漁業の兼業をやめるべきだと思う。

漁船漁業は、この通り、魚類資源減少から、経営が厳しくなっている。
すでに、中途半端な兼業で船を動かしている人たちは、その事業単体では、漁船漁業の経費を払えない事態になっているであろう。
彼らは、養殖漁業で儲けたカネで、その経費を賄っている。
漁船の経費というのは、単年度で言っているのではない。
消耗するエンジンなどの、いずれ交換しなければならないようなすべてを考えての経費である。

漁船漁業と養殖漁業の兼業をやめただけでも、漁場の窮屈性などが少なくなり、1隻あたりの収入は増えるだろう。
また、魚類資源も少しは改善される。
1隻あたりの持てる許可数の制限は、それからやるべき案件である。
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2017年06月04日

諦める、ということ

こんにちは。

今年の日本海は、非常に天候が悪く、そして、寒い。
例年より休みが多く、今日で3連休。
先日も3連休した。

あまりに暇なので、本屋さんで物色し、新書を6冊も買ってしまった。
今まで近くの紀伊国屋書店に行っていたが、他の船に乗っている友だちが、「大きな本屋があるから一緒に行こう」という催促に応じ、行ってビックリ。
ジュンク堂書店というのだが、各社の新書版が、ほぼ揃っているのだ。
だから、注文する、ということが必要ない。
新書版だけだと思うが、それほどの蔵書だから、逆に探すのが大変だった。
目がおかしくなる。

私の友だちは、最近年寄りくさい趣味を持つようになった。
いろいろな木を庭に植え、その成長を喜んでいる。
こうやって旅歩きしている間に、それらを盗む人が来ないことを祈っているが、もし、無くなっていたら、その落胆を大きいと思う。
その友と本を探していると、「GDP4%の日本農業は自動車産業を超える」というのがあり、これを買って私が読み、「内容を教えろ」ときたもんだ。
まあ、面白そうだから、買ってしまった。
これを今から読もうと思う。
「農業やって、二人で儲けっか!」

曽野綾子さんの「人間にとって成熟とは何か」。
これには少しいいことが書いてあった。
もちろん、「違うなあ」という記述もある。
しかし、いつものように、良いところだけを取る。

人権を強調する人たちは、特に、「格差」について、非常に問題視することがある。
格差があるからといって、貧困ではない。
所得が小さいからといっても、ちゃんと生活している。

 私は25年間くらいアフリカの貧しい土地だけに度々行っているせいか、本当の貧困というものを、何度もはっきりと見せられてきた。いつも言うことだが、貧困の条件はたった一つしかない。貧困とは「今夜食べるものがない」ことを言う。その条件に当てはまる人は間違いなく「貧しい人」である。
 しかしそれ以外の、家のローンが払えない、子供を大学にやる費用の捻出がむずかしい、新車を買えない、などという理由は、世界的に見て全く貧困の条件にはならない。
 貧困の苦悩はもっと「積極的」なものである。何々ができない、という形は取らない。屋根が穴だらけなので濡れて寝ている。一度お腹いっぱい食べてみたい。医者にかかる金がなくて死んだ家族がいる。埋葬の費用がないので家族の遺体を引き取りに行かなかった。そんな理由がまかり通っている社会を貧困社会と言うのである。
(「人間にとって成熟とは何か」p217)


はっきりいって、人権主義の人たちは、ずるい部分を多く持ち合わせている。
例えば、先程の引用文にあるアフリカの話を持ち出すならば、日本の格差より、アフリカの貧しい人々のほうが、ずっと問題なのだ。
「格差」を声高に叫ぶ人たちは、曽野さんのようにアフリカでいろいろ経験すべきである。

漁業の世界は、格差社会である。
腕のいい人や頑張る人は、所得も上位に位置するし、船頭として能力の劣る、あるいは、能力のない人は、淘汰される。
こんなことは、当たり前の話である。
それを漁師たちは、「格差」といって非難することはない。
まっとうな漁師たちが非難するのは、ずるい人間である。

私も淘汰される側の船頭になりつつあると最近思う。
絶望の資源管理の現場を見せられたり、やることの結果が裏目になったりするが何年も続くと、漁に対する情熱のほうが冷めてしまう。
ほどほどになったら、あきらめることを考えるようになっている。
そのことに関し、曽野さんは、良いことを書いている。
引用する。

できるだけは、頑張る。しかし諦めポイントを見つけるのも、大人の知恵だ。
(中略)
 諦めることも一つの成熟なのだとこの頃になって思う。しかしその場合も、充分に爽やかに諦めることができた、という自覚は必要だ。つまりそれまで、自分なりに考え、努力し、もうぎりぎりの線までやりましたという自分への報告書はあった方がいいだろう。そうすればずっと後になって、自分の死の時、あの時点で諦めて捨てるほかはなかったという自覚が、苦い後悔の思いもさしてなく、残されるだろう。
(前掲書p138)


そして、次の言葉で救われる思いがした。

 人間にとって大切な一つの知恵は、諦めることでもあるのだ。諦めがつけば、人の心にはしばしば思いもしなかった平安が訪れる。
(同頁)


だから、自分が船をやめる時、が訪れても、落胆することもない。
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2017年05月23日

絶望感が消える

再び。

絶望感が大きく、ブログ更新をする気も起きなかったのは事実である。
しかし、ただ何もしないで生活したわけではない。
今後を考えて、いろいろなものをやったし、いろいろなものを作ったりした。
成果のあるものもあるが、もうここでは報告しない。
くたびれた、というのが本音である。

その後、絶望感はなくなった。
良い乗組員に恵まれたからだ。
私より10歳上である。
今のところ漁の調子は悪いが、今まで背負ってきたハンデから比べれば、気持ちの面で気分いい。
その乗組員には、「漁をしないのに、気分がいいのか?頭おかしいんじゃないのか」と言われるが、それだけ、今までのハンデが、自分的に大きかった。
若い人たちに期待していたこともあり、このブログも書いてきたが、裏切られ続け、本当にくたびれた。

「自分だけよければいい」という態度でやっていくなら、非常に楽である。
もう私もいい年なのだから、そのほうがいいのかもしれない。
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昨年とは違う「大不漁」

久しぶりに、こんにちは。

前沖の資源管理に絶望感を感じたので、いつもより早く日本海へいか釣りに来ている。
日本海長期予報では、大不漁の昨年並みとされているが、いかのサイズがまだ小さいので、昨年とは違うのではないかと思っている。
私のいる新潟は、まだ漁が少ないが、先行する石川県では、何日か1万箱超えを記録している。
これは、昨年ではなかったことだ。
以前、大漁だった頃は、小さいいかから、大きくいかへと漁獲が変化していったものだ。
昨年の場合、最初から30入れ主体であり、心配していたら、案の定、すぐに漁が切れ、私は6月中旬過ぎには、逃げるように誰もいない八戸へ回航した。
結果的に、それは悪くはなかったが。

今年の場合、新潟沖ではまだバラいか主体だから、7月までここにいそうな気がする。
どっちみち、太平洋の漁は期待薄だし、少々漁がなくても、我慢する覚悟でいる。
八戸沖のトロールが獲るバラいかは、昨年より極端に少ないらしく、太平洋ローカル群は危機的である。
あとは、太平洋各地の定置網に入るバラいかの全体量がどれほどになるのか、それ次第だと思う。


以前の太平洋するめいかは、秋から冬にかけて、定置網に入網していたから、成熟群は、オカ寄りで産卵していただろう。
それが、近年、秋から冬にかけて、太平洋のするめいかは沖寄りに分布し、そこで産卵しているものと考えられる。
前述の通り、それを根こそぎ、2そう曳きが獲るものだから、ローカル群の再生産など期待できない。
私の父の時代の小型するめいか漁業は、ローカル群だけでも、十分に飯が食えていたのだ。
ローカル群の再生を期待したいが、それを阻む人たちがいるから無理かもしれない。
絶望の資源管理である。

私は、昨年に続き、太平洋のするめいかは、大不漁ではないかと思っている。
もっと大不漁かもしれない。
ローカル群の再生産はこの通りのありさまだし、東シナ海や九州西部の冬季発生群の少なさから、すでに太平洋回りのするめいかは苦戦するのではないか、と予測もある。

しかし、大不漁の予測が外れる可能性もないわけではない。
日本海回りの秋季発生群も少なかったから、大不漁予測がなされたが、もし、このままで、大漁群が成長しながら北上すれば、日本海はそれほど悪いわけではないだろう。
北上したするめいかが津軽海峡を通過し、太平洋へたくさん抜ければ、少しは好転するかもしれない。
また、前述、ある水産会社の重役さんだった人の説、日本大回遊説をとれば、日本海からオホーツクに入り、羅臼に入らないで、そのまま太平洋へ抜ければ、これは、秋季から冬季にかけて、太平洋を南下するかもしれない。
もう一つ、冬季発生群の少なさから、太平洋するめいかは、悪かった昨年並みの予想も、はずれるかもしれない。
なぜなら、現在の日本海するめいかは、今のところ、昨年よりは悪くはないからだ。
したがって、太平洋の予測も外れる可能性もある。
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2017年04月12日

野球好きの人が読む本

再び。

暇なので、「兵隊になった沢村栄治」という本を読んだ。
沢村栄治といえば、沢村賞の沢村である。
これは野球の話である。

私は、ある年齢になって、巨人の振る舞いが嫌いになった。
カネで強くなろうとするからだ。
子どもみたいだと思われるだろうが、性格だからしかたがない。
再三、ここでも書いているが、私学中心の高校野球にもげんなりしているから、野球自体にも興味がなくなった。

しかし、沢村栄治は別である。
彼は、日本プロ野球の創生期に、来日したアメリカの選手をきりきり舞いにした投手であり、戦死した人間だからである。

この本を読む前、沢村栄治のイメージとしては、せっかくそんな良い選手を戦争がつぶしたのだから、戦争がなかったら、もっとすごい選手だったのだろう、である。
もちろん、戦争がなかったら、もっと活躍しただろう。
しかし、最後は、もう使えなくなり、巨人を放り出され、最後に戦死した、というのが、本当である。
がっかりしたか、と言えば、そうではなく、生身の人間である沢村栄治が、そこにはいた。

沢村栄治は、3回も出征し、3度目で死んだ。
戦争は人を変える。

 前回の出征で、比島へ向かった沢村はミンダナオ島に上陸すると、現地にいた日本人小学生に持っていた菓子をすべて差し出すなど心やさしく接した。しかし、戦火が激しくなるとそうした心の余裕はなくなり、目も血走っていく。
 沢村はマニラの市街に突入すると、あるホテルの厨房で日本人が惨殺された光景を目の当たりにした。さらに、日本人女性への強姦事件が多発しているのを知ると、再び鬼と化した。犯人をみつけるやいなや、「金網をまるめた棒切れで叩きのめし」たのだと、青田に話したのだった。
(「兵隊になった沢村栄治」p229)


沢村栄治やその他の選手の話も感動するが、権力からの独立を目指した野球連盟理事たちの奮闘も感動する。
権力から独立して、プロ野球(職業野球)を興行しようとした努力は、読んでいて居心地がいい。
ましてや、相手は、戦時中の強大な権力である。

昔のプロ野球の功労者といえば、正力松太郎が有名である。
読売新聞初代社長である。
しかし、日本プロ野球創生期を描いたこの本では、たまにしか出てこない。
この当時から、巨人は傲慢だった。
その傲慢さと軍の無理な要求の狭間の中でプロ野球を守ったのは、鈴木龍二と赤嶺昌志らであり、読売巨人とは、全く別である。
野球好きならば、外せない本だと思う。



今、東芝が窮地に陥っている。
戦時中、選手たちを戦地へ送り込まない方法として、軍の工場で働かせる、という手段を、野球連盟は選び、東京の選手たちは、東京芝浦電気にお世話になった。
原発メーカーだった東芝の不買を私は書いたこともあり、そういう人間がこういうことを書くのもおかしな話だが、プロ野球、特に読売巨人は、その恩返しに、一肌脱いでもいいような気がする。

それにしても、私はバカだ。
「原発推進=東芝=読売新聞」なのを知っていて、こんなことを書くのだから。
「助けるのが当たり前だろ」と言えなくもない。
原発連合だもの。
posted by T.Sasaki at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本の裁判の大きな欠点

こんばんは。

鮭の刺し網裁判について」で、「裁判の秘密」という本を持ち出したが、これは、ずっと前、「漁師のつぶやき保存版」で紹介している。

http://milky.geocities.jp/umaimono_tabetai_hito/tubuyaki-kansoubun11.html

私がこれを書いたのが2003年だから、14年前のことである。
最初の「裁判の秘密」の出版は1997年で、それが「新版 裁判の秘密」となって再発行されのが2003年。
その文庫化されたものが、私の手元にある。
したがって、文庫本には、「あとがき」が3つ記してある。

単行本「新版 裁判の秘密」は、最初ものから6年目で出版されたが、その「あとがき」について、少し触れる。
6年の間、司法試験合格者を6倍に増やす、という改革が議論された。
これは、日本のどこの誰も要求していない。
要求したのはアメリカである。
アメリカとは、そういう国だ。
そこで日本の裁判環境が変わっても良さそうなのだが、「しかし本書の中で描かれた数々の旧弊の法曹慣行は現に行われており、一部を除いて変更や改善点はない」と書かれてある。
文庫化は2008年で今から9年前である。

一昨年、新潟の紀伊國屋書店で本を物色していたら、「絶望の裁判所」が目に留まった。
これは2014年発行の比較的新しい本である。
これを読んで唖然とした。
やめた裁判官自身が書いた本である。
「第5章 こころのゆがんだ人々」を読むだけでいい。
裁判官が、どういう性質の人間であるか、読むのが嫌になるくらい記してある。

「新版 裁判の秘密」は、自分自身、もしかして裁判に関わることがあるかもしれない、ということから、津波で流失したものを買い戻したものだ。
これにも「第13章 裁判官とはこんな人種だ」にも、同じようなことが書かれてある。
だから、およそ9年経っても、変わっていないことになる。

全くこのような分野の本を読んだことのない人が、この2冊のうち、どちらを読んだらいいのか、というと、「新版 裁判の秘密」のほうに軍配をあげる。
身近な裁判実務を、比較的やさしく説明しているからだ。
著者は、わかりやすい文章を書く副島先生であり、また、弁護士の実務にかかわっているのが、山口宏さんである。

2点、少し長文引用するが、法律や規則を作るとき(もちろん、身近なものも含めて)、どういう考えでやったらいいのか、ということを、これから汲み取ってほしいと思う。

 通常の、平均的な裁判官僚を考えてみると、この業界にはさしあたって学閥はない。しかし現実に裁判官になるのはやはり東大出が多いから、まず東大に入るのに勉強をする。少なくとも、暴走族をやりながらは入れないと思う。法学部に入るとすぐに司法試験の勉強を始める。つまり、法律学だけをやるわけだ。
 実際に、現役だ、卒一だ、卒二だというきわめて若い年齢で司法試験に受かるためには、本人たちはカッコつけて「僕はあんまり勉強しなかった」などと言っているが、それなりに猛勉強している。それで受かって、司法研修所に入ると、今度は裁判官になるために努力する。裁判官になるためには一生懸命、いい点数が取れる模擬判決などを書かなければならない。
 弁護士志望の者たちはこの研修期間の間タラタラ遊んでいるのだが、裁判官志望となると遊べない。これで、晴れて任官して裁判官の世界に入れば入ったでまたしぼられる。こういう事情を考えてみると、彼らにとって楽しい青春なんてものはありえない。
 結局、この人たちは、独自の判断というものができないのではないか。
 私は、社会のルールなるものをきちんと習得している人びとが独自の判断をもって正義判断するということが最も望ましいと思っている。ところが、この秀才たちは、日本社会を真に規律しているものが何なのか知らない、習わない。教える者がいない。いや法律があるではないかと言ったって、これまでに何度も説いたように、現に存在する法律などというものが、何かを判断するときの根拠になるわけがないのである。「人様から金を借りたら返しなさい」という判断はあるのだが、これはなにも、法律がそれを要求しているからそれが正しいのではない。それは世間のルールだからだ。
(「新版 裁判の秘密」p297)

 日本における真の法とは何か。日本の社会を真に規律している本物のルールとは何か。それは、塩月弥栄子女史の往年のベストセラー『冠婚葬祭入門』(光文社)であり、旧大名華族である前田家出身の酒井美意子女史の「図解・マナー全科」(家の光協会)なのである。私たち日本人は日頃、互いにどのようにご挨拶をし合っているか、どのような人間関係をとり結んでいるか。それらは、端的には日本の冠婚葬祭の礼儀のなかにこそ見られるものである。日本人のまごころをうつ、本当の法やキマリとは、まさしく、私たちの日々の礼儀作法と行動様式のなかにあるのであって、あの「六法全書」の法律のなかにあるのではない。
 現行の日本国憲法を無闇にありがたる、勘ちがい人間たちが今でも国民の圧倒的多数だが、あれは、占領軍であったマッカーサーGHQ(本当はSCAF)司令部のなかのアメリカ人の法務将校たちが九日間の突貫作業で作文して、日本国民に与えた英文であり、その翻訳文である。だから、何十回読んでもじつのところ少しも私たちの琴線には触れないし実感に迫らない。
 現在の民法典も商法典も刑法典も、十九世紀のドイツ法典を富井政章と梅謙二郎がほとんど正確に一条ずつ翻訳しただけの代物である。当時、無理やりにでも一気に近代国家の仲間入りをせねば格好がつかないと思った国家指導者たちが明治二十年代に行ったやっつけ仕事である。
 だから、日本社会の地面から生え出たような、私たちの体をさし貫く本当の規範を、私たち日本国民は自分たちの手でさぐりあててゆく作業を、今からでも始めなければならないだろう。日本の法律家(法曹)はこの輸入品の法体系を取り扱うことを自明の職業にする人びとである。この舶来輸入品そのままの洋服(六法全書)を着せられてその服を取り扱うことを自分の一生の仕事にしているものだから、どうしても、その服(六法全書)が体に合わずしっくりこなくて気分が悪いのだ、ということに各種法律を生業にしている人びと全員に早く気づいていただきたい。そこには、内閣法制局の法律条文作成官僚たちや大学法学部の法学者たちも含まれる。
 山口氏の説く、日本の世間なるものから自然に流れ出てくる日本国の真の法を私たちは見つけてゆく作業をこれから敢然と行ってゆくべきだ。だからここで、日本の真の法のその最高法規は、じつは日本の冠婚葬祭の儀礼のなかにこそあると鋭く発見し提起した山口宏弁護士こそは、もしかしたら現在、日本最高の法学者・法思想家なのではないか、と私は長く考えてきた。今のこの考えに変わりはない。
(前掲書p334)


私たちの善悪の判断、やって良いこと、やって悪いことの判断は、法律群から学んだことではなく、オギャーと生まれたときから、親にしつけされ、その後、友だちと遊んだり学校へ入ったりして、社会生活を経験し、学ぶものである。
「誰かが一生懸命やっていることを、横取りしてはならない。ただし、その誰かの許可を得るならば、その限りでない」という価値判断は、私は正しいと思う。
漁船漁業の漁師は、回遊魚を「流れモノ」というが、調査中に「流れモノ」の魚群を発見した人は、どこでも尊重される。
その模様を感じ取って後から来た漁師が、最初に発見した人の前で乱暴な振る舞いをすれば、それは非難される。
これは暗黙の了解事項となっている。
水産六法に、こんな規定はあるわけではない。
以上のことから「鮭の刺し網裁判について」で、私は、バッサリと断定的に書いた。
最後に、なぜ、鮭放流河川の流域住民への余計な配慮が出てきたかというと、引用文の「世間なるもの」を考えた場合の価値判断が働いたからである。

さて、あることをやって、訴えられたらどうしようか、と考えることがあるが、もう開き直って、素直に訴えられる覚悟である。
やるかやらないかは別にして。
「こうことがあって、こうだ。これはおかしいと思わないか」と10人に聞いて、10人が「おかしい」という類のものである。
しかし、日本の裁判は、簡単に、それが正しい、とは言わない。
「新版 裁判の秘密」を読んで、それがわかった。

疲れる話である。
posted by T.Sasaki at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする