日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2016年05月25日

ストレスが寿命を決める

みなさん、こんにちは。
今日1日暇なので、珍しく登場です。

「進化論の現在 DARWINISM TODAY」シリーズの最後の本「寿命を決める社会のオキテ」について、少々。
これは、ストレスが寿命を縮める、という話です。
ストレスは、社会生活に人間が参加しているからには、必ず私たちにつきまとうもの。
貧富の差、そして、それを嫌なものと思ってしまう屈辱心、つまりは自尊心が、ストレスの源。
もちろん、ストレスの原因には、個人差がありますから、貧富の差以外にも、さまざまなものがあります。
この本の最終的な提言としては、人間社会のあらゆる格差を縮める方向へと導けば、きっと寿命は伸びるであろう、としています。
でも、そんな夢みたいな話は誰も信じないだろうし、すべて平等になったら、ずるい人間がいて、必ず仕事をサボり始める。
行く末は、ソ連崩壊と同じ。

コルチゾールという物質は、体内の副腎という臓器から、ストレスホルモンとして分泌されます。
短期的な分泌は、自分の体を守るという防御機能の一つです。
ところが、ストレスが長く続くと、コルチゾールが多くなり、これは、免疫系などの機能低下をもたらします。
その結果、どうしても病気などになりやすくなり、平均的に寿命が縮まる。

その意外なる証拠が、ちゃんとあるので、引用します。
何と、鮭が産卵してから死んでしまう原因は、コルチゾールにあるらしい。

 サケのメスが卵を産むと、オスが放精する。すると、どちらもすぐに死んでしまう。この場合はどうだろうか。実はこの死に至る生物学的メカニズムには、非常に高濃度のコルチゾールが絡んでいるのだ。サポルスキーが言うところによれば、産卵・放精後のサケを捕まえてみると「副腎がとても大きく、胃や十二指腸に潰瘍があり、腎臓には傷が見られる。免疫系は壊滅状態で、寄生虫や感染症に冒されている」のである。どうやらコルチゾールを制御するシステムが産卵と放精に伴って壊れるらしく、それがためにコルチゾール濃度が極度に高まるのだ。しかし、この病的な状態は本当にコルチゾールの増加だけが原因となって起こっているのだろうか?それが、どうおそうらしいのだ。産卵と放精後に副腎を取り除きコルチゾール濃度が上がらないようにすると、彼らは死なないのである。このメカニズムは五種類のサケで見つかるに留まっているわけではない。オーストラリアのフクロネズミの仲間の何種類かでも別個に進化していて、オスが交尾後ただちに死ぬのである。この場合にも同じメカニズムが働いている。副腎を除去すれば、やはり死なないのだ。
(「寿命を決める社会のオキテ」p86)


サケだけかなあ、と思ったら、人間でも、副腎が重要!

二十世紀の初めの頃、医学生が解剖実習するとしたら、それは貧しい人の体で、医学生はその際、かなり大きいサイズの副腎を見ることに慣れていたのだが、中産階級の人々が医学の教育の研究のために献体するようになると、解剖学者はずっと小さい副腎を見ることになったのである。小さい方には何かおかしなところがあるのだろうと考えた彼らはこの不思議な状態に対し、「特発性副腎萎縮症」なる名をつけた。異常なのは貧しい人々の物の方で、それはおそらく貧しい生活に伴う慢性的なストレスの結果なのだろうとわかったのは後のことである。
(前掲書p87)


ということで、寿命は、ストレスをためない気持ちの持ち方が、大きく左右するんですね。
社会を変えるより、自分を変えるほうが、ずっと簡単で速い。

金持ちじゃなくても、常にゴキゲンであれ!

新潟に来てから、もう少しで1週間になります。
大不漁は続く!
日本海するめいかのこんな大不漁を私は知らない。
いや、私がかしぎで乗って3年目くらいかな?その時も大不漁で、日本海沖合いにある大和堆に通ったことがあります。
あの時も、岸寄りは今年と同じような状態だったような気がする。
昔と違って、今や、赤い色をしたするめいかでないと、値段がとれない。

ストレスがたまる〜。

本当は、この本の紹介をするつもりはなかったのですが、ストレスで健康を害しそうなので(もちろん暇だと理由もあります)、あえてアップしました。

出港直前にブリッジにした歯が取れてしまい、かかりつけの歯医者の先生には、新潟にもちゃんとした歯医者がいっぱいあるから、そっちで直しなさい、と言われました。
でも、もう八戸に帰りたくなっていますから、歯を作っても、居なくなりそう。

かわいそう!

でも、一杯やって、ゴキゲンに。
私の場合、酒は、ゴキゲンの材料の一つなのです(笑)。
posted by T.Sasaki at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ダーウィニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月15日

フェミニストの居場所がなくなる?

再び、こんばんは。

それでは、フェミニストが、顔を引きつらせそうな文章を紹介します。

 男と女が仕事か家庭かを選ぶ際、もしその選択に一貫した違いがないのなら、仕事に対してより多くの時間とエネルギーを投入する者が多くの報酬を得ても何ら問題はない。仕事に対して投入するエネルギー量が違うのに同じだけの報酬を要求されたとしたら、ほとんどの人はショックを受けるに違いない。ところが、フェミニストの多くが言っているには他でもない、そういうことなのである。献身的に働かなければ高い報酬を得られないというのでは女に不利だ、という理屈で労働市場は批判されているのだが、不利になるのは誰であろう、献身的に働くことを選択しなかった個々の女なのである。その事情は個々の男でも同じことなのだ。
(「女より男の給料が高いわけ」p94)

「その事情は個々の男でも同じことなのだ」とは、全くその通り!
真面目に仕事をしようとしない人たちへ、この引用文を贈ります(要らないでしょうけれど。笑)。

女の人が働いているいろいろな局面で、「この女はできる」「きっと出世するだろう」と思うのは、よくありますが、本当のところ、出世できているかはわかりません。
能力のある人なら、それは、仕事に対するエネルギー投入量と同じ見方で、男であろうと女であろうと、高い報酬をもらうべき。
そのようにならないから、フェミニストの攻撃を受けるのです。
私の職場には、女はいませんからわかりませんが、実のところ、どうなのでしょう。
生まれ変わったら、たくさんの女がいる職場を目指します(笑)。

「パラダイムの変換」が必要だというフェミニストもいて、社会は「主夫」をもっと認めるくらい広い視野をもつべきだという。社会がお墨付きを与えさせすれば、稼ぎ頭の半分は女で、家事をする者の半分は男になるだろうと言うのである。
 進化心理学でわかったことからすると、多くの家庭がそういう道を選ぶだろうとは、とても考えられない。それはあまりにも無邪気で世間知らずというものだろう。男が地位を望み、目に見える形の報酬を欲しがるのは持って生まれたものであって、ただの社会の「パラダイム」よりもずっと深いところで作用している。それは女が地位の高い男を好むのと同じことである。地位が高い、あるいは専門職にある女の多くが家庭に入って子どもの世話をする男を好んで夫にするなどという話は、空想の中にしかありえない。成功している女は夫が働くことを望むだけでなく、同じように成功している男と結婚したいと思っており、その思いの丈は男よりもずっと高いのだ。家庭に入って子どもと過ごし、長期にわたって妻に養われたいという男は滅多にいないだろうが、そういう男を喜んで養い、男として魅力があると感じる女はもっと少ない。「男こそ変わるべき」と言うのは「女こそ変わるべき」と言うのと同じくらい実りがないし、妥当なことでもない。
(前掲書p95)


これなどを読めば、フェミニストたちは、きっと泡を噴いて倒れる(笑)。
基本的に、女の要求は、凄い!かも?

 男と女は同じであるという信仰のために、賢明とは言えず、その効果のほども疑わしい政策がいくつも生まれてきている。経営者は生産性を犠牲にしてまでも、労働力に占める男女の比率の格差をなくすようにという圧力を受けている。学校は男女は同じだというプロパガンダの機関に成り果てており、子どもたち自身の経験とはまったく相容れないことを言って学校及び教師の信用を失墜するかもしれないということなどまるで気がついていない。軍備の面でも、大勢に従って女をほとんどすべてのポジションに採用しなければならず、またその目標を成し遂げるために必要な基準も変えなければならない。事態は深刻なのである。
 これまでとは違う、もっと実りのある水準で議論できるよう我々が変わるべき時が来ている。生物学的な見方は、現状の変化が適当かどうかとか、望ましい変化が起こるにはどういう政策をとったらいいかとかいうことを指図しているのではない。そういう問題の存在を告げているのである。政策を決定する立場からすれば、人間の本性に沿っても、またそれに反しても物事をすすめることができるだろう。だが、人間を取り巻く環境を人間の本性に沿って手直しする方が、本性そのものを変えるなどという土台無理なことをしようとするよりも、ずっといい解決に至るのではないだろうか。そう私は考えている。
(前掲書p108)


この「女より男の給料が高いわけ」の著者は、キングズレー・ブラウンというアメリカ人であり、これら「進化論の現在 DARWINISM TODAY」シリーズは、イギリス発です。
「日本の経営体では、女性のトップ採用が少ないから、欧米を真似しなさい」とはいうものの、欧米の論文がこれに反旗を翻しており、それも反論できないほどの内容です。
「日本人って、やっぱり模倣民族の代表?」と言われそう。

最後の引用は、安倍首相に贈ります。
女性票にしっぽばっかり振っていないで、この本を読んでください。

税金の無駄遣いはよくない。
posted by T.Sasaki at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ダーウィニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

読解力のない人たちへ

みなさん、こんばんは。

先日、「私の夢」で、「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」という本から引用しましたが、これは、「進化論の現在 DARWINISM TODAY」シリーズの中の1冊であり、全部で7冊、新潮社から出版されました。
しかし、これらはすでに絶版になっています。

生物は体のかたちを自分で決める(SHAPING LIFE)
シンデレラがいじめられるほんとうの理由(THE TRUTH ABOUT CINDERELLA)
農業は人類の原罪である(NEANDERTHALS,BANDITS AND FARMERS)
女より男の給料が高いわけ(DIVIDED LABOURS)
現実的な左翼に進化する(A DARWINIAN LEFT)
女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密(WARRIOR LOVERS)
寿命を決める社会のオキテ(MIND THE GAP)

このうち、「農業は人類の原罪である」は、すでに紹介しています。
「シンデレラ〜」「農業は〜」と「女より男の〜」は、比較的読みやすく、他は慣れていないと非常に読みにくい。

「女より男の給料が高いわけ」は、フェミニストが読めば、卒倒しかねない代物で、卒倒しなくても、顔が引きつるでしょう。
これは、あとで紹介します。

「女だけが楽しむポルノの秘密」は、題名だけで男は興味深々、という感じですが、中身は、女と男の配偶心理に関すること。
男は、やればそれで済み、やる数が命。
しかし、女は、出産そのものが命がけだから、男と違い、結婚後、出産後のサクセスストーリーを求める。
という話です。

この「進化論の現在 DARWINISM TODAY」シリーズを翻訳した竹内久美子さんは、英語を得意としているわけでもないようで、巻末の解説で次のようにお詫びしています。

 私はただでさえ英語は苦手である。もちろん何人もの方(それも英語のつわものとでも言うべき方々)に、お知恵を拝借した。それでも、残念ながらこの本から不明瞭な点を払拭することはできなかった。読み進めるうちに、わかりにくい箇所があったかもしれないが、こういう事情があるのだ。ご勘弁願いたい。
(「寿命を決める社会のオキテ」p118)


実は、「生物と無生物のあいだ」を書いた福岡伸一さんが、同書で、彼女の「そんなバカな!」の“直訳”をやんわりと批判しています(p123)。
だから、英語のできる人は、原版を読むほうがもっとおもしろいかも。

さらに、「そんなバカな!」は、彼女のオリジナル著作だけれども、あまり評判がよくない。
amazonで検索していると、カスタマーレビューで、「誤解が多すぎる」「ドーキンスにタダ乗りしたトンデモ本」などなど。
しかし、「誤解が多すぎる」と感じるのは、読解力のなさを露呈しているようなものだと、私は思います。
ちゃんと読めば、進化論の考え方を、面白く紹介しているのだなあ、と。
そういう考えで読まないと、「ドーキンスにタダ乗りしたトンデモ本」というひがみっぽいレビューも登場するのです。

そして、伊藤嘉昭さん(おそらくは第一線の研究者なのだろう)は、教科書みたいな本「新版 動物の社会」で、何と、第9章のセクション2で、わざわざ「竹内久美子による社会生物学の人間社会への悪用」と題して、批判している。
読んでみると、「ん〜、もうちょっと大人になったら〜」と思わずにいられません。

同書で、「男と女の進化論」も批判の俎上にあげていますが、皮肉にも、「男と女の進化論」の巻末で、林望(はやしのぞむ)さんという方が、「実証と解釈―解説に代えて」と題し、次のように書いています。
ちょっと長くなりますが、御免ください。

 世の中に、学問ということのわかっていない人が多いことは、これは仕方のない事実かも知れないけれど、なかでも、いちばん分かっていないところは、学問というものが、なにか「真実」を解きあかす魔法の鍵であるかのような幻想を抱いている人が(学者の中にさえ)多いことである。
 絶対の真実、なんてそんなものは、この矛盾に満ちた現実の世界に在るはずはないのである。
(中略)
一つの社会に共通する行動の様式を、よく観察分析して、いくつかの要素に分け、それをつかさどる原理を推量して、「もしかして、これはこういう訳ではないかしら」と一つの「仮説」を作る。それを、社会学的に構築する場合もあるだろうし、医学的衛生学的に考えることも可能だろう。または、そのよって来たる歴史に思いを致す人もあるやもしれぬし、民族宗教的な意味付けをしたいというむきもあるに相違ない。つまり同じ現象を前にして、そこに想定される仮説は決して一つだけではないのである。
 ともあれ、これを、まず実証のための目標と定めるのであって、こういうのを「作業仮説」という。
 かくして、仮説ができたら、次の手順は、その仮説がどんな場合も正しいのかどうか、ということの「確かめ」をしなければならない。
 これを「検証」といい、この仮説通りに事実が説明できたとき、それを「実証」というのである(ということは、同じ現象を前にして「実証」されることがらもまた一つではないということである)。
(中略)
 この実証ということを注意深く眺めてみると、そもそも、無数に存在し、しかも連続的に変異する現実の事象についての「一つの解釈」が「仮説」なのであり、その仮説で現実を説明するのが「検証」なのであり、その例外をどう考えるかということもまた、明確に「解釈」なのだと断定してよろしい。
 以上のごとく、結局、現実に対する、「観察」と「解釈」の総合として、「実証」があるということになるのである。それは「絶対の真実」の発見ということではない。
(中略)
 学問的に正しい、ということはつまり叙上の手続きを経て「実証」され得たということの謂いであるが、それはどこまで行っても「解釈」であることを免れないのだから、あとはすべて、いかにたくさんの周到な実例を用意して、わかりやすい言葉で人を説得するか、ということにかかっている(むずかしげな分かりにくい言葉で言うのが学問的だと思っている人が少なくないのだが、それは一種の小児病的態度であると言ってよい)。極端な話、読んだ人が「ははぁ、なるほどなぁ」「ウーム、そのとおりだなぁ」と思ってしまえば、それは立派に「実証された」ということになるのである。おわかりだろうか。
 私は、遺伝子の学問をよく承知していない。しかし、自分の子どもをつぶさに観察しながら、あたかも一人一人の子どもたちが、すべて私と妻との遺伝子をモザイクのように組み合わせて持っていることを実感する。そして、そのモザイクはまた、私と妻のそれぞれの両親の遺伝子のモザイクである。そしてさらに、その私たちの両親のモザイクは、そのまた両親たちの遺伝子のモザイクである。・・・・という風に思いを先祖に致す時に、私は、自分の存在というものが、とりも直さず先祖の意志の遺伝であることを思わずにはいられない。こうして、私には一見個人的素質や努力の総和のように見える現実のさまざまは、もしかしてすべてが先祖からの遺伝ではなかろうかというように見えてくるのである。
 それを、私は「御先祖主義」という原始民族宗教的なタームズにおいて解釈する。
 しかしそれは、竹内さんのような動物行動学者からすれば、「利己的な遺伝子」の意志であると、このように解釈されるであろう。
 つまりどちらでもよろしいのである。
 私自身、竹内さんの著書を何冊か読んで、たぐいまれな面白い本であると思った。いくらなんでもそれは穿ちすぎじゃないかと思うことも絶無ではないけれど、そんなことはすこしも問題ではない。なにしろ、これは複雑怪奇なる現実に対する、動物行動学的な「一つの解釈」である限りにおいてすでに十分実証的なのであり、その論述に「こりゃぁ、面白い。目から鱗だ」と思わされてしまったからには、それが学問的真実だと言って一向にさしつかえないのである。
 それを、くだくだと詰まらぬ反証を上げて、大人げなく批判したりするのは、実のところ間違っている。
(「男と女の進化論」p217〜p225)

これって、もしかして、伊藤嘉昭さんへ向けた言葉?と思ったら、出版順序が逆でした(笑)。

林望さんに同感で、私に言わせれば、「彼女の著作は、ダーウィンの進化論とは何か、ということを面白く説明している。ダーウィニズムを日本の一般読者層に広めたのは、彼女の功績である」となります(実のところ、「新版 動物の社会」は、ぜんぜん面白くなく、一般読者向けではない。これではダーウィニズムは広がらない)。
感想に個人差があると思いますが、まあ、読んでみてもいいんじゃないですか(決して「読め」ではありませんからね。責任逃れ。笑)
posted by T.Sasaki at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ダーウィニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

「農業は人類の原罪である」

みなさん、こんばんは。
宮古は、久しぶりの雨でした。
しかたがないので、エンジンルームの中に入り、いろいろな保守作業をやりました。
明日も雨が降ったら、休もうかなあ。
そうだ!
髪の毛が伸びたから、床屋へ行ってこよう!



さて、今日で、何日連続なんだろう?
何と!4月29日から、連続して更新。
かなり暇な証拠。
今日で、たぶん切れる。
はい、いきます。

人間は、Hが大好きだ!」。
そして、眠るのが好き。
もう一つ。
人間は、食べることが好きです。
もちろん、食べることが嫌いな人は、生きていけませんから、当然、みんな好きなわけです。
以上の3つの性質を持つ人間だけが、脈々と生き残ってきた。

Hと睡眠は、相手と自分さえ居ればできるものですが、食べることは、そうはいきません。
食糧は、自分のほかにも、必ず誰かが作らなければならないからです。
この“作る”ことができるようになった時が、農業の始まり。
農業の成功が、人間の定住を可能にし、人口の増加を後押しします。
そして、人口の過度の増加が、地球上の環境問題を深刻にしました。
すわなち、農業の始まりが、環境問題の始まりだったのです。
副島先生の弟子、根尾知史さんは、それを、次のように書いています。



 文明の格差は、民族の「生産性(productivity)」にもとづく。古代文明が生まれる以前の人類は、獲物を求めて移動を余儀なくされる狩猟生活を送っていた。食料の確保も偶然の要素が大きく、最低限の量の食糧しか確保できなかったため、人口も食料のまかなえる範囲までしか増加することはなかった。
 そのうち、天然の穀物類を自分たちで栽培することを試みるようになったときから、狩猟による移動生活をやめ、民族が一カ所に集まって生活できるようになった。村や集落を作って一カ所に定住して暮らすことができるようになったのは、農業の技術を身につけて、自分たちの食料を自分たちの「居住空間(eco,エコ)」の中で、自らの力で育てるという能力を獲得したからである。
 人類で最古の農耕跡は、中東のレバント(Levant)といわれる地域(レバノン、イスラエル、シリア、ヨルダンまでを囲んだ領域)にあり、紀元前9050年頃のものだといわれている。つまり、このときが人間が初めて自然環境に働きかけ、自らの知恵でその自然の状態を、自らの食料を育てるために人工的に手を加えた瞬間だったのである。だから、「環境問題」を考えるならば、ここまでさかのぼるべきである。
(「エコロジーという洗脳」p110)



しかし、コリン・タッジの「農業は人類の原罪である」によると、1万年前に農業が始まったのではなく、もっと以前の、数万年前に始まった、としています。
これについて、訳者の竹内久美子先生は、次のように書いています。



 考えてもみれば、1万年前にいきなり大規模な農業が出現するという方がよほどおかしいのである。それ以前の段階がかなり長期間にわたって続き、その一つの結実として(あるいはそうせざるをえなくなって)大規模な農業が行われるようになったのだ。
(「農業は人類の原罪である」p94)



証拠はないけれど、著者のコリン・タッジは、これをダーウィニズムで説明しています。非常に面白く、今までの通説を覆す、その語り口は、痛快!

先の根尾論文からの引用に似てはいますが、ここで、農業と人口の悪循環を表している文章を紹介します。



 狩猟・採集によって環境から手に入るのは、たまたまその環境が作り出しているものに限られる。欲しいものを取りすぎれば、それらがなくなってしまうだけである。どれだけの食物が手に入るかは環境次第で、人間の手の及ぶところではない。結局のところ人口は、環境が与えてくれる食物の量によって決まってくるのである。
 ところが農業とは、一言で言えば、環境を操作し、作り出される食物の量を増やすことである。土を肥やせば収穫量は増加する。いや、わざわざ土を肥やさなくても、目当ての植物や動物の競争相手になるものを取り除いても、生産高を増やすことができる。草を取り除くなどして作物を保護するのである。食べ物の量が増えれば、もちろん人口も増加する。
 そうなると、当然のことながら、農業を行っている者は自分たちがらせんをなす悪循環に陥っていることに気づくだろう。農業をすればするほど人口が増え、そうするとますます農業に精を出さなければならなくなる。増えた人間を食べさせていける方法は農業しかないのだから。
(前掲書p56)



コリン・タッジは、この悪循環を、農業の本質と言ってもいい、と書いています。
なるほど、農業以前の生活では、たとえ、たくさん子どもを作ったとしても、環境中に食べ物が不足すれば、極端な言い方をすれば、餓死してしまい、人口は増えません。
農業が成功し始めた途端に、人口が増え、さらに、福祉が、それを促進する。
Hは、人口を増やす方法だけれでも、農業と福祉は、人口を増やす装置だったわけだ。



 いったん始めたらやめようがないのも農業の厄介な点。その意味で我々は未来永劫にわたり、原罪から逃れることができないだろう・・・・。
(前掲書p90)



すでに、時遅し。
数万年前に、この悲劇は、確定していたのですから、私たちには、何も解決方法はありません。
同じ人口を増やす装置でも、福祉のほうは、最近発明されたものですから、まだ修正できますが、さて、できるかどうかは、みなさんと政治家次第、ということ。



「農業は人類の原罪である」は、「進化論の現在」7冊シリーズのうちの一つで、竹内久美子先生は、すべてを翻訳しています(もう絶版になっていた。だから中古しかない)。
巻末には、竹内先生の解説があり、そこでは、「農業が悪の始まりであるという考え方は何も、本書の著者、コリン・タッジだけのものではない。」とし、他の学者の主張も紹介しています。
例えば、ジャレド・ダイアモンドは、人間が農業を始めた瞬間から、その重労働のために、身長は縮み、寿命も短くなった、と。
さらには、「農業によって階級が出来、専制政治が始まった」とも。

農業って、支配者の所有物みたいなものなのか。
なるほど、だから、ロックフェラーらが、アグリビジネスを押さえているわけだ。



ところで、今よりももっとたくさんの人が農業をやり、食べ物を増産すれば、世界中の飢餓がなくなる、と思い込んでいる人がいます。
しかし、現実は厳しいんです。
水がない。
水が足りないのです。
世界中の地下水も枯れる一方で、状況は深刻です。



人間って、水までも食いつぶすのね!
日本がやっている「少子化対策」って、恥ずかしくない?
日本人は、他国の食糧を食いつぶす。
あ〜あ、困ったものだ。

あ、そうだ!
水なしで育つ植物を開発すればいいんだ。
と、アホなことを言っているほうが、まだいいような気がする。

ではでは〜。
posted by T.Sasaki at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ダーウィニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月03日

「人間牧場」Vs.「反過剰福祉」

みなさん、こんばんは。

今日で、ペンキ塗りを終わりました。
明日は、休もうかどうか、悩んでいます。
雨天に休みたいのですが、何だか、ずっと晴れそう。
連休にどこかへ遊びに行っても、人ばっかりなので、それも嫌ですから、やっぱ、仕事しようかなあ。



さて、昨日の「人間は、Hが大好きだ!」続きです。

人間の際限のない、Hしたがり性向は、しかたがないとして、過去、その悲劇は繰り返されました。
現在のような、避妊手段の少なかった時代、そして、過剰福祉のなかった時代には、子どもの間引きが行われました。
私の中学時代の社会科の教科書ですら、東北地方で、子どもの間引きが行われてた、という記述があったほどです。
飢饉で、できた子どもに見合った食べ物がなかったのでしょう。
子どもは、際限なく作ることができても、それに見合った資源がなければ話にならないのです。
この厳しい現実は、いくら人権や福祉を語ったところで、変えようがありません。
そして、この地球上のどこかでは、相も変わらず、同じことが起きています。

余談になりますが、キリスト教の、厳格なカトリックでは、避妊を禁止しています。
つまり、Hをすれば、子どもができてしまう確率が高い。
だから、カトリック信者には、子沢山な家庭が多いのだそうです。
カトリック教派は、Hを大好きな人間の性質を、どう考えているんでしょう?



みなさんは、「新世界秩序」という言葉を聞いたことがあると思います。
学校の教科書にもあったような、なかったような。
「世界人間牧場計画」、「人類家畜化計画」とも呼ばれている、この「新世界秩序」は、いったい、誰の、どの組織の計画なのか、ということを示す文章を、ここで引用します。


 CFR(外交問題評議会)への初期の主要な資金提供者は、カーネギーとロックフェラー、この二つの財団である。特に後者の名前はここでしっかり記憶しておいてほしい。CFRはアメリカ政治に大きな影響力を持つようになった。1940年代初頭から大統領候補者は事実、全てその会員であった。
(「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた[技術・諜報]篇」p74)

 1973年にズビグニュー・ブレジンスキーとデイヴィッド・ロックフェラーの2人を発起人として設立された「三極委員会」は、今も“金融業者団体のトップ”である。残念ながら、行政府(政権と閣僚)の地位は彼らの下である。この組織については、アントニー・C・サットントパトリック・M・ウッドの著書『ワシントンを支配する三極委員会で見事に描かれている。
(中略)
「三極委員会の陰の支配者はデイヴィド・ロックフェラーである。彼がこの組織の活動から利益を得る立場にあると結論づけても、早計でも偏見でもない」「忘れてならないのは、(中略)国際的な多国籍企業(デイビッド・ロックフェラーの)が、アメリカ政府を支配する権力組織を牛耳っているということだ。1976年に、アメリカ国民はジミー・カーターに投票し選出したと思っている。しかし、本当はデイヴィッド・ロックフェラーを選出したというのが事実である」
(前掲書p77)

 このように誰が大統領かは関係なく、延々と同じ種類の人間たちがわたしたちを支配しているのだ。それはウォール街やニューヨークのオフィスにいる国際銀行家たちと巨大多国籍企業の経営者たちである。こうした人間たちは民主党員でも共和党員でもなく、まさしくCFR、三極委員会、ビルダーバーグの会員なのだ。
 事実、1974年に開かれたビルダーバーグ会議には、出席した18名のアメリカ人のうち7名、すなわち39パーセントが、ロックフェラー一族かロックフェラー家の代理人たちであった。この手の組織を調べると、あることがわかる。それはCFRの元議長も、三極委員会の共同設立者も、大きな影響力を持つ組織ビルダーバーグでアメリカ人招待客の40パーセント近くを支配している人物も、全てデイヴィッド・ロックフェラーであるというころだ。
(前掲書p79)



現在の世界覇権国であるアメリカ合衆国の“王様”が、デイヴィッド・ロックフェラーであることは、これでわかると思います。
すなわち、世界の“王家”はロックフェラー家なのです(その前は、ロスチャイルド家であった)。

さて、Hを大好きな人間の性質とそれに対する食糧の問題を、最初に理論化し説明したのが、トマス・ロバート・マルサスです。
マルサスの影響を受けたのが、「人間は、Hが大好きだ!」でも書いたように、チャールズ・ダーウィン。
そして、これがもっと進んで、「優生学」なる危険な学問が誕生します。
字のとおり、「優れたもの」を「生かす」学問。
ダーウィニズムは、飽くまで、「自然淘汰」「自然選択」による「適者生存」が原則ですが、「優生学」となると、これは、人為的に強制的に「適者生存」させかねません。
「遺伝学」はまだ良いのですが、その工学版「遺伝子工学」も、「優生学」と同様、権力によって、利用されると、強制的「適者生存」の道具になります(もしかしたら、遺伝子工学は優生学の下部学問なのかもしれない。優生学は、人種改良学とも呼ばれるくらいですから)。
このことは、「エコロジーという洗脳」という本の、関根和啓氏の論文に書いてあります。
彼は、「ナチコネクション アメリカの優生学とナチ優生思想」という本から、次の文章を引用し、ロックフェラー財団と優生学の関わりを示しています。

 アメリカとドイツの緊密な関係を支えていたのは、ドイツの優生学研究を確立させようと企てたアメリカの財団の熱烈な資金援助だった。もっとも重要な後ろ盾は、ニューヨークのロックフェラー財団だった。
(「エコロジーという洗脳」p338)

そして、この考えは、「成長の限界」で有名なローマ・クラブにつながります。
再び引用。

1968年、地球上の人口の増加をいかにして抑制するかに関するローマ・クラブの研究があった。彼らのこの計画を“グローバル2000”と呼んでいた。出席者の中でも著名な人物の1人がアウレリオ・ペッチェイ博士で、ローマ・クラブの創設者だ。彼は人間の免疫システムを攻撃する病原菌を開発すべきだと言った。それだけではく、この病気に対抗するための治療薬も開発するよう提案した。同じ頃、ビルダーバーグ会議は“ヘイグ=キッシンジャー人口減少政策”に着手した。
(「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた[技術・諜報]篇」p223)

この思想が、エイズという生物兵器を生み、「メモ 12」にあるように、WHOを使って、アフリカでばら撒いたわけです。
ゲイにエイズが蔓延したのも、計画的だった。

アフリカ人、そして、ゲイ。
なぜ、彼らが狙われたのか?

もう、みなさん、わかったと思います。

これが、優生思想です。



マルサスの憂慮した、人口と食糧の問題を解決するために、人口抑制と食糧増産のどちらでも、ロックフェラーは商売しているです。
人口抑制の一端は、戦争商売。
食糧増産は、「緑の革命」や「遺伝子組み換え」。
どう転んでも、儲かるようにできている。

そして、エイズの使い方も、なかなかのもの。
H大好きな人間の性質を利用して、政敵に(つまり「新世界秩序」に反対する者に)、エイズ感染者を近づけるわけだ。

前出、関根和啓氏は、デイヴィッド・ロックフェラーの「回顧録」という本から、次のような文章を引いています。

 一族とわたしは、“国際主義者”であり、世界中の仲間たちとともに、より統合的でグローバルな政治経済構造を ― 言うならば、一つの世界 ― 構築しようとたくらんでいるという。もし、それが罪であるならば、わたしは有罪であり、それを誇りに思う。
(「エコロジーという洗脳」p333)



一方、健気なダーウィニズム学問(社会生物学。日本では動物行動学と呼ばれ、この学問自体は危険ではない)は、マルサスの憂慮に対し、何を主張したのか?

私の“先生”の一人と言える、竹内久美子氏は、自身の著書で、R・ドーキンスの次の記述を引用しています。



子をたくさん産みすぎる個体が不利をこうむるのは、個体群全体がそのために絶滅してしまうからではなく端的に彼らの子のうち生き残れるものの数が少ないからなのである。過剰な数の子供を産ませるのにあずかる遺伝子群は、これらをかかえた子供たちがほとんど成熟しえないため、次代に多数伝達されることがないというわけである。しかし、現代の文明人の間では、家族の大きさが、個々の親たちが調達しうる限られた諸資源によってはもはや制限されないという事態が生じている。ある夫婦が自分たちで養い切れる以上の子供を作ったとすると、国家、つまりその個体群のうち当の夫婦以外の部分が断固介入して、過剰な分の子供たちを健康に生存させようとするのである。物質的資源を一切持たぬ夫婦が、多数の子を女性の生理限界まで産み育てようとしても、実際のところこれを阻止する手段はないのだ。しかしそもそも福祉国家というものはきわめて不自然なしろものである。自然状態では、養い切れる数以上の子をかかえた親は孫をたくさん持つことができず、したがって彼らの遺伝子が将来の世代に引き継がれることはない。自然界には福祉国家など存在しないので、産子数に対して利他的な自制を加える必要などないのである。自制を知らぬ放縦をもたらす遺伝子は、すべてただちに罰を受ける。その遺伝子を内臓した子供たちは飢えてしまうからである。われわれ人間は、過剰な人数をかかえた家族の子供らを餓死するにまかせるような昔の利己的な流儀にたち帰りたいとは望まない。だからこそわれわれは、家族を経済的な自給自足単位とすることを廃止して、その代わりに国家を経済単位にしたのである。しかし、子供に対する生活保障の特権は決して濫用されるべきものではないのである」
(「そんなバカな!」p185)



これは、私のWebサイトでも引いている部分です(http://www13.plala.or.jp/anchor/bangai-6-2.html)。

さて、「新世界秩序」を推進する側も、福祉に異議を唱える側も、人口抑制しようという態度には変わりはありませんが、その方法は、全く違います。
前者は、強制的かつ商売が伴う。
後者は、過剰福祉に異議を唱えるだけ。



私は、過剰人口を商売道具としか見ていない連中に、利用されたくはありません。

そして、大方の日本人も、たぶん、そうだと思います。

騙されないようにしなきゃ!

ではでは〜。
posted by T.Sasaki at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ダーウィニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月02日

人間は、Hが大好きだ!

みなさん、こんばんは。

いきなり、ぶっ飛ぶ題名で、びっくりしたでしょう。
でも、これは、絶対的真実です。
人間が生き延びる限り。

なぜ、Hが大好きなのか?

それは誰もわかりません。

「愛があるから」

???

ここで、「人工放射性物質について」を、まず一読してくださいね。

この中に、市川定夫さんの著書からの引用がありますが、これと同じ論理で、なぜ、人間がHを大好きなのかを、説明できます。

Hは、誰も知っている生殖行為。
そう!
その通り!
気がついたでしょ!

Hを好きでない性質の人間は、子孫を残すことが難しい。
だから、現在、脈々と生き残ってきた人間は、Hを大好きな性質を持っている者ばかりなのです。

そして、「愛」も同じ。
「愛する」という性質を持った人間が生き残ってきたのだ、と言えます。



すべての生物は、どのような形にせよ、自己を増殖する性質を持っています。
その増殖する手段が、人間の場合、Hなだけであり、だから、人間そのものは、生物のただの一つの種にすぎないのです。
あらゆる生物の最上位に位置する人間は、当然のごとく、際限ない人口増殖を起こしてしまい、現在のところ、これに歯止めをかけられる状態にありません。

「将来どうなるか?」ということをわかっていながら。

だから、本当は、人間なんて、それほど大した存在ではなく、尊い存在でもないのです。
今まで、私が「人間なんて、大した存在ではない」と書いてきたことが、ここでわかったと思います。

この考えは、ダーウィニズムの基礎であり、そのダーウィンは、マルサスに影響を受けています。

ぶっ飛ぶ内容というのは、次回の伏線になっているですよね。
次回をお楽しみに。

ではでは〜。
posted by T.Sasaki at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ダーウィニズム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする