こんばんは。
漁業権を理解することは難しいし、説明するもの難しい。
理解が難しいのだから、説明が簡単なわけがない。
各漁協には、必ず、「水協法・漁業法の解説」という本が置いてあるはずだ。
水色の本である。
漁協の理事たちは、読んでいるはずの本であるが、理解しているかどうかはわからない。
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784874090503(「
版元ドットコム」)
ここで、少し、漁運丸の先代のことについて書く。
先代の船主、すなわち、私の父親のことだが、私の父は、家にカネがなかったから、同級生たちが、宮古水産高校(当時、宮古では優秀だったらしい)に進学しても、仕事をするしかなかった。
中卒で、しかも、卒業とは名ばかりで、幼少の頃から、ほとんど仕事ばっかりしていた。
あまりにかわいそうなので、小学校の先生が迎えに来ることもあったそうだ。
これには、私の祖父が戦争に引っ張って行かれた、というしかたがない事情がある。
当時、高浜で、最もボロな服を着ていて、その証拠写真が、最近出てきた(八戸のおばが、あるアルバムを持っていた)。
それほど、貧乏であった。
戦後は食べるものがなく、木の根っこを食べたりして生きながらえたそうだ。
「おしん」の大根飯のほうが、「まだマシだった」と父は回想する。
その父は、現在、デブである。
その後、いろいろなことがあって、宮古漁業協同組合の理事になる。
理事になる前は、高浜地区の総代であったから、いろいろな文書が漁協から配布される。
ろくに学校に行っていなかったから、ちょっと難しい漢字が読めず、片手にはいつも、辞書を持っていた。
それで、しばしば、私に意味や用法を聞くことがあった。
漁協の理事になって、もっと大きな難関があった。
「漁業法」や「水協法」という法律を理解しなければならない。
組合から、一度だけだったらしいが、「水協法・漁業法の解説」という水色の本が配布され、それを勉強していた。
私が読んでも、非常に難解な本で、5回ぐらい読んで、何となく、全体的なイメージがわく、というくらいの本である。
それを、私の父は、理事になった、という使命感から、一生懸命読んでいた。
その後、何度も「漁業法」は改正されているから、そのつど、私の父は、自分で「水協法・漁業法の解説」を注文して買って読んでいた。
だから、津波前には、私の家には、何冊も「水協法・漁業法の解説」があった。
今、漁協の理事になっている人たちには、これくらい努力している人がいるのだろうか。
岩手県にも、いろいろな水産団体があって、震災1年前に代替わりしたこともあり、それらの会合に私が出席することになるが、たまに、「お前の父は、こうだった」とか、批判的なことを言われたりした。
しかし、今思うに、漁協経営や漁業法のことに関し、各団体の役員は、私の父に比べ、勉強不足である。
私も、自分の思ったことをはっきり発言するタイプなので、会議に出席すれば、いろいろな局面で集中砲火を浴びる。
もう慣れっこになり、少々のことでは動じなくなった。
ある団体の長ですら、「この人は、ちゃんと勉強しているの?」と思わざるを得ないことを発言したりする。
ホント、こんなものか、と、がっかりさせられるのである。
「水協法」は、まだ勉強する気がないが、「漁業法」については、だいたいの大きな理解にたどり着いた。
漁業法の第一条には、次のように書かれてある。
この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によつて水面を総合的に利用し、もつて漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。つまり、漁業法は、漁業調整の基本的な法律であり、その目的が、「漁業生産力の発展」と「漁業の民主化」である、ということ。
こうやって読むと、普通のことのように思われるが、「民主化」というのが、どうも胡散臭い。
何をもって、「民主化」なのか、考えざるをえない。
民主化というと聞こえがいいが、完全な民主化などありえないのである。
漁業する権利を漁業権というのが、狭義の漁業権は、岸寄りの海面漁業に設定される。
埋め立てなどで、漁業権をめぐって、漁業補償がなされる、あれである。
しかし、広義の漁業権は、許可漁業、自由漁業にまでも及ぶ。
これには、私もびっくりした。
このことを説明している本が、前にも少し触れた熊本一規さんの著した「海はだれのものか」である。
彼は、ある収用委員会(それも日本で初めての漁業権収用決裁申請である)で、次のことを提起している。
「正しい法解釈ならば、法律のあらゆる条文を説明できるはずである」こと。
「一つの条文でも説明できない法解釈は正しい法解釈とはいえない」こと。つまり、法解釈をねじまげるな、ということである。
副島隆彦先生の「法律学の正体」によると、法解釈というのは、とんでもない数に上るようだ。
だから、「こじつけじゃないの?」という類の法解釈も存在するらしい。
それを防ぐための提起である。
この収用委員会で、国土交通省側は、山畠正男氏と佐藤隆夫氏に依頼したが、最終的に、熊本一規さんに論破され、あとで書くが、漁業権の社員権説と総有説の論争は、総有説に軍配があがっている。
この本を読むと、なるほど、総有説が正しいのが、わかる。
再度書くが、漁業権について、理解したいのならば、「水協法・漁業法の解説」を読むよりも、「海はだれのものか」が近道であると断言してよい。
さて、漁業権の本質は何か、というと、それは、「慣習上の権利」である。
これを簡単にいえば、ず〜と何十年もその漁業を正式にやっていれば、それは、成熟した慣習上の権利となり、広義の漁業権となるのである。
ここで、「許可漁業は、漁業権ではないのか」と言われそうだが、そうではない。
実績が重要なのである。
引用する。
注目すべきは、許可漁業は許可によって権利になるのではないことである。許可によっては、一般的禁止が解除され、営むことが可能になるだけである。その段階では、許可漁業は単なる利益にすぎない。しかし、許可漁業が継続して行われ続けると、それは利益から権利へと成熟していき、慣習に基づいて権利になるのである。
要綱2条5項の解説に示されるように、許可漁業のみならず、自由漁業も継続して行われ続けると利益から権利に成熟していき、「慣習上の権利」になる。
要綱2条5項の解説からわかるように、「慣習」とは「古くからのしきたり」ではなく、「実態の積み重ね」のことである。許可漁業や自由漁業は、慣習=「実態の積み重ね」によって権利になるのである。
(「海はだれのものか」p82)この中で、「要綱」という言葉が出てくるが、これは、「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」のことであり、もちろん、ここで問題になっているのは、埋め立ての話である。
そして、要綱2条5項というのは、
この要綱において、『権利』とは、社会通念上権利と認められる程度にまで成熟した慣習上の利益を含むものとする
(前掲書p82)
としており、さらに、国土交通省監修の「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱の解説」では、
適例としては、入会権、慣行水利権、許可漁業あるいは自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有する権利と認められるもの等がある
(前掲書p82)との解説がある。
この場面で、関係漁民の同意なくして、埋め立てることはできない。
埋め立てれば、権利侵害となり、損害賠償となる。
その場合の賠償額も、同意が必要である。
この慣習上の権利は、何も難しいことはないと思う。
先人たち、つまり、明文化した法律のない時代に、何が社会生活を規定していたか、というと、その地域社会の慣習である。
他所から突然やってきて、海を埋めたら、その地域住民は、当然怒る。
だから、話し合いも持たず、慣習を打ち破るような行動は、慎むべきものなのである。
裁判により判決の結果などから、熊本一規さんも、次ように慣習法の重要性を訴えている。
判決が「慣習に基づく権利」を否定した背景には、司法界に、行政に反する判決を出さない傾向がきわめて強いことに加え、「慣習に基づく権利」を認めようとしない風潮があるように思われる。
しかし、慣習法は、いいかえれば、司法や行政に依存せずに地域社会を運営するための規範であり、成文法ではカバーし得ないさまざまな事項についての「住民の知恵の結晶」ともいうべきものである。慣習法に基づいて地域社会が運営されるということは、いいかえれば、慣習法によって住民自治が成り立つということである。近年、地方分権が盛んに叫ばれているが、慣習法は、地方分権どころか、住民自治を実現するのである。
また、慣習法を熟知しているのは地域住民であり、地域に住んでいない裁判官や学者ではない。慣習法の存否が当該慣習法を全く知らない裁判官によって判断され、慣習法を熟知している地域住民がその判断に従わざるを得ないというのは、実はおかしな話なのである。
(前掲書p178)以上のことから、従来から何十年と行われてきた鮭延縄漁業を妨害する宮古室蘭フェリーは、地域の慣習を乱すものである、と判断できる。
拡大解釈とはなるが、今回、私が説明会を求めた理由は、まさに、ここにある。
しかし、この拡大解釈は、実際に行われている。
例えば、青森県三沢地区では、いか釣り漁業者は、水揚げ実績にある割合を掛け算して、米軍基地の漁業補償金を受け取っている。
これは、岸寄りの漁業権海域の話ではなく、沖合い許可漁業のいか釣り漁業の話である。
青森県には、核燃がらみや原発がらみで、こんな類の似た話はよくあることである。
よく考えてみてほしい。
海はみんなものだ。
だから、誰にでも同じように、平等に使用できる権利がある、と、みんな主張したとしよう。
この場合、お互い「平等」を言い合って、何も決定できない。
「民主化というと聞こえがいいが、完全な民主化などありえないのである」と書いたのは、こういう意味からである。
ここで、昔々から住んでいた人たちの慣習の登場である。
海面利用は、太古の昔からあった。
それは、海幸彦、山幸彦の時代からである。
何十世代と慣習法は、繰り返されてきた。
繰り返されてくる間に、もちろん、少しずつ洗練されたり、変化したりするが、それでも、ずっと漁業をやってきているのである。
だから、その慣習法は強く、他所からきた人間が、勝手な振る舞いをすることはできない(この慣習法は海だけでなく、社会一般に通じるものだと思う)。
そういうことなのだ。
長くなったが、漁業の権利は、慣習上の権利である、と結論づけてよい。