日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年07月15日

漁業法の理解 目次

こんにちは。

連休も終わりで、今夜からまた、宝くじライクの夜いか操業です。

免疫について」シリーズのように、「漁業法の理解」の目次を作っておきます。

1.漁業を営む権利
2.漁業を営む権利は、財産権である
3.漁業法の歴史
4.漁業調整について
5..共同漁業からミチゲーションへ
6.漁業法を越えて

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2024年07月14日

漁業法を越えて

ふたたび、こんばんは。

漁業法だけでは、うまく漁業秩序を保つことはできない。
そこに慣習の力が入り込む余地がある。
しかし、日本の海は、それで済む話ではなくなっている。

沿岸漁業の知事許可の中に、固定式の漁業がある。
たとえば、刺網漁業やかご漁業である。
固定式であるがゆえ、漁場を占有する漁業である。
これとて、地先海面に変わりはなく、古くからやっている各地区の漁業者によって、漁場をどう使うか、申し合わせている。
かご漁業などは、ある程度、市町村の境界を基準に地先を定め、操業しているように思う。
また、もっと沖合のたら延縄漁場も、やはり、古くからやっている漁業者たちが、ある程度の申し合わせ事項を決めて操業している。
そこに、「海はみんなもの」という言い分を用いて、特に漁模様がいい場合なのだが、「オレにもやらせろ!」という人が出てくると、どうなるか。
全く邪魔にならない漁場を操業するか、あるいは、先輩たちの了解をとって操業するならまだわかるが、そうでない場合は、先に「漁業法の歴史」で示したのと同じで、都合が良すぎる話となる。
勝手な漁場の使い方をするようになれば、トラブルばかり起きて、漁業秩序が保てなくなる。
したがって、慣習というのは、秩序を保つ上で、大事である。
法律で規定されていない場合、慣習が、法的意味を持つ、というのは、このことなのである。(「漁業を営む権利」参照)

漁業法は、優先順位を決める法律と端的に言い表したが、地先の海は、関係漁民が優先的に管理しながら漁業をやる、というのは、「漁業法の理解」シリーズを読んでわかったと思う。
この考えは、上記の固定式の漁業にも、同じように適用できる。
もちろん、具体的に優先順位を決めている法律はどこにもないが、ずっとその漁場で操業してきた人たちにとって、他所からズケズケと入ってくる人たちは、迷惑そのもの。
ここで、同じ漁場で新規にやりたい人は、どうすればいいか、ということになるが、先輩たちに相談し、うまく入れてもらうしかない。
もちろん、船が多すぎて拒否される場合が多いと思うが、それはそれで、しかたがないとあきらめるしかない。

スマホ中毒社会の現代では、漁業に就業する人は、非常に少ないだろう。
やがて、その地区の関係漁民も高齢化し、後継者がいない場合、漁場が空いてくる。
沿岸漁業や沖合漁業は、すでに、企業が操業しているから問題にはならないが、今回の漁業法改正で、企業が漁業権を取得できるような制度に改正されたらしい。

しかし、その前段階、すなわち引退する漁業者がいない段階で、漁業権を持たない、つまり独立していない有望な漁師に対して、年配の漁師が漁場を譲る、という考えがあってもいいと思う。
有望な若い人には譲り、先人の教えを、後の世代へと継いでいく、というのはどうだろうか。

ここで、「有望な」という言葉の意味は、才能だけではない。
みんなとうまくやっていけるかどうか、という基準も必要である。
もう一つある。
資源を獲り尽くすような考えを持つ人は、新規参入させてはならない、ということである。
片野さんの著書には、ノルウェーの事例として、確か、資源管理に関する試験を受験し、合格いた人のみ、漁師の資格が与えられるとか、書いてあったが、まさにそのごとくにした方がいいと思う。
そうでないと、岩手のかご漁業の許可のように、周年操業がいつまでも続く。
私は、あちこち旅をしてみて、こんな周年操業を知事許可漁業として認めているのは、岩手県だけではないか、と思っている。
恥ずべきことだ。

今後、新規に漁業をやる場合、まわりの漁業者たちとうまくやれるか、そして、魚類資源の維持を考えられるか、この2点が必須である。
この2点を、全く考えない先輩漁師もたくさんいる。
海を維持していくために、そして若者を育てていくために、そういう先輩漁師の考えを変えていかなくてはならない。


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2024年07月02日

共同漁業からミチゲーションへ

ふたたび。

地先の漁業は、自由漁業を基礎として、漁業権漁業がある。
しかしながら、「漁業調整について」でも触れている通り、慣習上の権利として、地先の“従来から営んできた”漁業者は、共同漁業権があろうとなかろうと、操業できる。
「われわれの海」というのは、まさしく、地先の漁業者で管理していこうという意味から、これを、漁業法の神様、浜本幸生さんは、地先権と呼んでいる。(※1)
漁業法の目指すとろこは、本当のところ、「漁業する人間は、自ら、その漁場を管理し、守れ!」ということなのだろう。

日本の高度成長期以前の東京湾は、豊かな海であっという。
全国のノリの生産の半分を賄っていたというから、驚くに値する。
江戸前という寿司の看板があるくらいだから、魚介類の種類も多く、資源もほどほどにあったことだろう。
その後、土地造成のために海が埋め立てられ、東京湾全体の16%を失った。(※2)
埋め立て計画の終盤に、千葉県でちょっとした問題が起きた。
漁業補償金を支払ったはいいが、計画変更で、埋め立てない海域の管理をどうするか、という問題である。
海は公共用物であるから、誰でも使用できるので、千葉県企業庁の思惑ははずれた形になった。
結局のところ、他地区の人たちが操業できることになり、それなら、地元漁民の漁業権放棄を要求しないで、むしろ、地先漁民と話し合いながら、事業をやっていったほうがよかったことになる。(※3)
これは、漁業補償と漁業法を、セットで考えるからおかしくなったのであり、補償に関して、漁業法はいっさい関知しないことを肝に銘じておく必要がある。
何度も書くが、損害賠償は、いちいち漁業権を放棄しなくても、民法の規定により、やってもらえる。
だから、千葉県企業庁側とすれば、「埋め立ての漁業補償はします。残った海面は、お互いうまく使っていきましょうね!」とすれば、地先漁民と仲良くやっていけたのである。

共同漁業権は、地先の関係漁民の権利であるが、これを行使するにあたって、資源管理は必要であり、義務である。
もし、資源管理をせずに獲り尽すことになったら、関係漁民の事業は存続できなくなり、やがて廃業して、オカにあがるか、どこかへ行ってしまうだろう。
それなら、他所から「平等だろ!」と主張しながらやってくる漁業者と何ら変わりはなく、地先の関係漁民に、優先的に権利を与える必要もない。
したがって、地先を「われわれの海」と認識し、自分たちで管理をしっかりやるのだ、という考えが必要であり、義務となる。(※4)
これが、地先優先主義の思想となるだろう。
地先を漁業補償金目当てに、権利を放棄しようなどというのは、論外である。(※5)

地先の管理が明確になっている、ということは、その漁業権設定海面を企業が借りて利用する場合、その企業が有利に事業を行なうことができる。
マリンレクレーションなど、実際に全国でスポットを設けてやっている所は、地先の漁業権を利用している。(※6)

「海の『守り人』論」という本の対談形式で登場するのは、弟子の熊本一規さんと、水口憲哉さん、そして、ケビン・ショートさんである。
ケビン・ショートさんは、アメリカの事例を持ち出し、海を埋めたり、環境を破壊する行為を、漁業者だけに同意を求めるのはおかしい、と疑義を呈している。
そして、ミチゲーションという考えを紹介している。
ミチゲーションとは、環境の復元である。
埋めたり、環境を破壊した場合、周辺で影響を受ける生き物に対して、失った環境を周りに復元してやる、という考え方である。
もちろん、これには、非常にカネがかかる。
ミチゲーションを導入すれば、自ずと、環境破壊行為は少なくなるだろう。(※7)

各県には知事許可があるが、これは、地先優先主義の延長である。
したがって、沖合いであろうと、「われわれの海」と認識し、しっかりと資源管理をやっていかなければならない。
魚類資源が少なくなった現在、この考えは、ますます重要になってくる。

岩手県の乱獲の名物、2そう曳きトロールには、「われわれの海」という認識はなく、とにかく獲り尽すことしか頭にない。
過剰漁獲のみならず、海底環境を破壊した。
先ほどのミチゲーション制度により、元通りにしてほしいと私は思う。
この漁法は、本当に、史上最悪の漁法なのである。
これが、公共の福祉に反するということは明確だ。
憲法第29条2項に、違反する。
憲法違反である。



(※1)
 江戸時代以来の漁村の慣習は、共同漁業だけに生きているわけではない。いわゆる「自由漁業」や「許可漁業」についても生きている。
 浜本幸生は、入会集団としての漁協が、自由漁業や許可漁業を含めて地先水面を管理する慣習が現代にまで続いているとし、この慣習に基づく権利を「地先権」と呼び、次のように説明している。

  地先水門を「われわれの海」と呼んで、地元の漁協等がその水面の利用を管理・調整する「地先権」の慣習は、漁民は明確に自覚していない面がありますが、各地の漁村に、あまねく存在しています。
 一本釣りや刺し網漁業などの「浮魚を運用漁具で取る漁法」は、法律上、共同漁業権の内容にはなっていません。
  しかし、他の漁村の地先水面(他の漁協の共同漁業権の漁場)で、これらの一本釣りや刺し網漁業などの自由漁業や許可漁業の創業をする場合には、地元の漁協の入漁の承諾を受けてから(「庭先料」などと呼ばれる金額を支払う場合もある。)操業しているのが一般的ですが、これが、「地先権」の慣習が存在する典型的な例であります。
  また、漁協が、地先水面を利用して漁業を営む組合員から、漁場行使料、養殖筏の水面占用料、定置網の迷惑料等の水面使用料を徴収しているのも、その根拠は水協法や漁業法ではなく、「われわれの海」と呼ぶ「地先権」の慣習が、それらの金銭の徴収の法的根拠です。(なお、これらの金銭は、多くの場合、漁協を経由して漁村集落に積み立てられて、水産動植物の増殖の費用、漁村内の道路や橋の補修、整備の費用など、漁村集落全体の基盤的な事業の費用に当てられています。)
  そのほかに、漁業以外のマリン・レジャーによる地先水面の利用に関しても、例えば、漁協等が事業者との間で、ダイビング・スポットの開設場所や、マリーナに所属するヨットやモーターボートの航行区域などについての水面利用の取り決めをしている例が見られますが、これらも、その法的根拠は、「われわれの海」と呼ぶ「地先権」の慣習にあります。

 江戸時代の「海の入会」は、漁業法により、権利内容を「漁場の総有的支配」から「入会漁業を営む権利」に変えたうえで、「地先水面専用漁業権」として免許されることとなった。したがって、「漁場を支配する慣習」は、漁業法制定により消滅したものの、「漁場を管理する慣習」は漁業法制定後も存続しており、それは、法例2条に基づき、法律と同一の効力をもつというのが浜本幸生の見解である。「漁業法の神様」と呼ばれ、漁村の実態にも通じた浜本の見解であるだけに、説得力をもっている。
(「海はだれのものか」p98)

(※2)
 昭和30年代から40年代の前半にかけて、全国各地の内湾域は埋め立てられ、大規模コンビナートが建設された。東京湾においては、神奈川県から東京都をはさんで千葉県まで埋め立てにつぐ埋め立てが続けられ、昭和35年から55年の20年間に1万8000ヘクタールが埋め立てられ土地に変わった。明治初期の東京湾の水域面積が11万6000ヘクタールあったとされることから、この20年間で、実に内湾面積の16%が海から陸地に、主として工場用地に造成されたのである。
 その後は、公共用途の埋め立て等に用地造成の目的は変更されたが、海が消え続けていったことに変わりはない。いまや、東京内湾に残された自然海岸は、神奈川県では馬堀海岸北部のほんの一部、千葉県では木更津万洲干潟、小櫃川河口干潟に富津岬周辺だけになってしまった。この間に、千葉県沿岸の埋め立てにともなう用地造成で支払われた漁業補償金の総額は、1156億5883万円。その対象となった漁民の数は1万6000人にもおよび、東京湾全体では、2万人以上もの漁師が、漁業をやめ転業して「オカにあがった」のである。だれもすき好んでオカにあがったのではなかったが、こうした数字をみると、当時日本のノリ養殖のほぼ半分を生産し、江戸前の魚を供給し続けてきた豊かな海であった東京湾が、1200億円(当然他県を含めればもっと大きな金額だが)という金額で消えてしまったという計算をしてしまいたくなる。
 内湾の入り口富津岬。木更津、君津の埋め立てに続いて、富津地区にも1400ヘクタールの埋め立てが計画された。千葉県における最後の大規模埋め立てとして、公表された昭和41年以降、地元漁民のうちの絶対反対派が埋め立て反対運動を展開する。当時のジャーナリズムは、この漁民たちを「東京湾に残された最後の砦」とか「接点の海、富津漁民の闘い」と報じた。この動きも結局のところ、昭和43年から45年にかけて、関係地区4漁協(青堀、青堀南部、新井、富津漁業協同組合)1402人・186億円の漁業補償で決着している。同時に、埋め立て関係水面の区画漁業権と協同漁業権は完全放棄されることとなった。
 ここまでの漁業補償事例という点では、全国的にみても特異な事例でもなんでもない、ごく普通の事例である。しかし、その後の経済情勢の変化など、さまざまな要因が重なり、当初の埋め立て計画は半分以下に縮小され、約600ヘクタールの用地造成でストップしてしまった。
(「海の『守り人』論」p104)

(※3)
巨額の漁業補償金を漁業者に支払って漁業権の権利を放棄させた経緯があろうと、その水面が埋め立てられて土地に変わることなく、そのまま海として残ったとしても、千葉県企業庁はなんらの支配管理を行う法律的な地位を得ることにはならないのである。さらに、そればかりか、千葉県企業庁にとっては、やっかいなお荷物をかかえてしまったという点についても注意をする必要がある。
 こうした法律的なメカニズムについては、次のように書いている。

  〇・・・・漁業権等の放棄の法的効果で最も注意すべきことは、「放棄によって漁業権者などが持っていた権利が消滅することです」ということです。権利者自身の持っていた権利が消滅するだけであって、他人には、なんらの法律的影響(効果)を及ぼすことにはならないのです。
  〇・・・・漁協が漁業権を放棄すれば、その水面には以後絶対的に漁業権が存在し得なくなるように考えている人がいますが、そうではありません。従来、漁業権の外側の沖合部にあった「入会い漁場」が、放棄によって消滅した漁業権の漁場区域にまで広がってくるだけでなくて、その海域について他人が新規の漁業権の免許をうけるということがあるのです。

 千葉県企業庁が、「緩衝海域」として「なんびとにも権利を与えない」というつもりで、海面の港湾利用図面などにはっきりと線引きをし、この線から中は企業庁のものだから「だれも入ってはいけません」という旗を立てたとしても、誰かが入ってきて釣をしたり、貝を採ったりしたものを法律的に排除できないばかりか、合法的に新しく漁業をやらせてください、漁業権を設定してくださいと知事に免許申請をしてきたときには、ぴしゃりと拒否する根拠はどこにもないのである。
 つまり、漁業法は第1条の「水面の総合的高度利用によって漁業生産力を発展させること」を目的としているので、漁業法の立場は、放棄した漁協や漁民に代わって、漁業をやりたがっている人たちに対して漁業権を与えることになっているだけでなく、埋立免許にある水面について第三者に漁業を免許したのは適法という判例もあるのである。
 一方、公有水面埋立法においては、漁業権や入漁権など水面に権利を有するものに対し損害賠償をしなさいとなっているだけで、漁業権の放棄をしなさいとはどこにも書いていない。現実に、これまでの補償事例にあるように、漁業補償と漁業権など放棄がセットになって交渉が妥結するという場合が多かったのであるが、これも、漁業権放棄によって水面の「排他的な支配管理権が移管」するという思い込みによるだけのものであり、なんの法的根拠のないものである。
 浜本解説の結論部分である。

  〇・・・・すなわち、公有水面埋立法制度では漁業権の放棄を全く要求していないのです。漁業権は〈埋め立て工事の実施によって水面が陸地化するに伴って、漸次縮減し、あるいは消滅に至るもの〉なのです。
  〇・・・・民法においては、「海」の法的性質は、「海は古来より自然のままで一般公衆の共同利用に供されてきたところのいわゆる公共用物である」(最高裁昭和61年12月16日「田原湾干潟訴訟」上告審判決)としています。
  〇・・・・そして、〈海は公共用物である〉から、「国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないもの」(同判決)であり、したがって海面下の土地の存在はゆるされないものとして否定されました。
  〇・・・・このように「海」は、「特定人による排他的支配の許されないもの」であるからこそ、漁業法による漁業権も、公有水面埋立法による公有水面埋立権も、海面下の地盤の所有権が否定されたのと同様に、水面を支配し管理する権利として存在するものではありません。
  〇・・・・したがって、わが国の法制度は、「海」については、国が直接に公法的支配管理する ― すなわち、国が国民に対する優越的地位において、直接に「海」を支配管理すること ― 場合を除いて、一般私人には「海」を排他的に支配管理することを一切認めないわけですから、「発電所前面海域」について巨額の漁業補償金を出して漁業権等の権利を放棄させた経緯があった場合においても、漁業補償金を支払った発電所側には、「海」の一部分である「発電所前面海域」についてなんらの支配管理を行う「法的地位」は生じ得ないことになります。
(前掲書p115)

(※4)
熊本 いわゆる「持続的開発」という考え方があります。英語では、サスティナブル・ディベロップメント Sustainable Development といいますが、この考えかたは、かなりはやりの概念になっています。ただそれがどういう開発を意味するのか、持続的開発の条件としてどういうことが必要かといった、その内容まではあまり論議されていない。わたしは、共同漁業権を理解したものはだれしも抱くと思いますが、漁民たち自身が沿岸の漁業秩序を作っていく、そして自分たち自身が管理し利用していく、これはやはり持続的開発のかなり有力な条件ではないのかと考えています。海に生活を依存しているものたちが、自分たちで資源を管理していくということですね。それが、持続的開発にとってきわめて重要ではないのかという気がしています。
 入会権とか漁業権は、ともすれば、封建時代からの遺制であるとか、あるいは封建的な規制を持った権利である、すなわち古い権利であるというようにとらえられがちです。しかし、持続的開発という視点からみるならば、むしろ、これから重要になる概念を含んだ権利といえるのではないだろうか。とくに、アジアの地域において非常に重要な意味を帯びてくるのではないかという気がしているんです。
 いろいろなルールが設定されますけれども、それは決して封建的なルールではなく、むしろそこに住む人たちが永続的に資源を利用していくためのルール設定であるというように理解しております。この点は、浜本さんはいかがお考えでしょうか。
浜本 熊本さんの理解されたとおりです。「われわれの海」ということばを、わたしが意識して作ったのは、自分らの権利主張するときだけ「われわれの海」といって、開発なんかに対して、漁場がなくなったりとかというときに、先祖伝来の漁場とかいっておきながら、それをたくさんの補償金をもらうための理由づけにしか使っていない、それでは困るわけです。だから、「われわれの海」というのは、自分一人の海ではないということで、共同で利用し、共同で管理してきた「われわれの海」という意味があるのです。
(前掲書p219)
 義務のないところに権利なしです。地先権の義務は何かといえば、前浜の水面の管理なんですね。その管理というのは、具体的には漁場の口開け、口止めとか、採捕の輪番制とか、漁場の割り替えを決めるとかの長いあいだ決められてきた慣習がもとになってくる。漁場の維持への期待といってもいいのでしょうか。前浜の管理が、地先権の内容とその主張に対応する義務になっているのです。
(前掲書p344)


(※5)
浜本 漁業権を放棄してしまったら、それこそ、あとの海の管理をする人はだれもいなくなってしまう。埋め立てられたて海がなくなってしまうのなら放棄もやむをえないが、海が残る限り、海を管理するのは地元集落の責任なのです。それが、江戸時代以来受け継いできた漁民たちの責任なんです。いまは、漁業権という名前で受け継いできているのだから、漁業権を金をもらって放棄するのは集落としてやるべき権利をなくしてしまう。義務まで放棄してしまうことになるので、補償金をもらっても放棄するなとわたしはいっているのです。これが、わたしの考えかたの道筋、順路です。漁業権さえ残しておけば、ケビンさんがいわれた、いろいろな多様性のある沿岸域の対応が可能になるのです。
 漁民がやらなければだれが海を管理しますか。だれにもできないでしょう。
(p264)

(※6)
浜本 ある会社がダイビングスポットを設けて、そこで土地の漁協に、使用料を払ったということは、そこの水面に関する限り他の人が海を使うということは事実上ありえない。企業が安定して利用できる海面となります。昔から、漁協近くには海岸に造船所があります。そうすると、修理する船とか大きな船などを、つないで待たせている海面が必要となります。そして、この場所ならとめてもいいという了解を漁協から受けています。そうすると、造船所は自分の土地ではないが、自分のところの駐車場みたいに海の場所を利用できる。これは漁業権のおかげです。正確にいうと地先権ですが。
 だから、むしろ個人で遊びたいというのならともかく、なにかの企業的なことを海でやりたいというなら漁業権によって事業活動が安定するわけです。
 さきほどケビンさんもいわれていた、新しいジェットスキーというようなものは、新しいマリンレクリエーションですね。昔は「組合」が管理できたのは海水浴までですね。海水浴場の権利は、集落がもっているのです。集落イコール漁協ですから、砂浜における海水浴場の権利は漁協が持っているということになります。トレイとか更衣室とか一部の食堂も漁協が作っているはずです。あれも慣習なんです。砂浜は国有地ですが、慣習によってルールができている。海水浴までは一般国民とは衝突していない。
(p266)

(※7)
ケビン わたしは、一般的な国民の目から見れば、漁村にある程度の地先の権利を認めるが、他の人は水面に関してはまったく権利を認めないということがおかしいのではないかと思います。わたしは海岸を歩く権利もあるし、なにも悪いことをしないかぎりにおいては海に潜る権利もあると思う。もう一つは、海を埋め立てるか、埋め立てないかは、わたしにも言い分があるんです。漁業者だけが同意すれば埋め立てできるということは、世界の中でも時代遅れであると思います。沿岸域管理の立場からいえば30年ぐらいの立ち遅れという感じがする。
 アメリカの場合は、たとえば港湾のなかで海を埋め立てるというときには、徹底的な環境アセスメントの調査をやる。しかし、日本は残念ながら環境影響調査のシステムが笑い話のレベルです。そう、ことばだけなんですね。よくいうハンコを押すためだけの調査でお茶を濁しているという程度なんですよ。
 それに対してアメリカでは、ミチゲーション Mitigation という考えがあります。「環境の復元」というような意味ですが、これに当たることばを日本の場合に当てはめると、コンペンセイション Compensation 、つまり「補償」という意味になってしまう。
 たとえば、この場所を埋め立てる。この場所で魚が産卵して、水鳥も生息地としている。これを埋め立てると、魚の資源が少し減るし、生息していた水鳥がすみかを失ってしまう。今度はそれと同じくらいの生態的な機能を回復させることができる場所を作らなければならない。これをミチゲーションというようにいいます。
(中略)
 日本も将来はそういうミチゲーションという制度がないと、残り少ない海辺の干潟とか浅瀬とかはすべてなくなってしまう。そのなかで、漁業者が大きなウエイトを占めているが、漁業者だけが埋め立てを了解するしないというシステムが、一般的に悪い印象を与えることになっている。まるで、海を捨ててしまった漁協が、その海を開発業者に売り渡している印象を与えている。都市部ではまさにそうです。
(p270)




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漁業調整について

こんにちは。

それでは、漁業法の本題、漁業調整について。
もう一度、昭和24制定の漁業法、改正前の漁業法の第1条を見てみる。

  第1条 この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。

というように、「漁業調整」という言葉が入っている。
しかし、令和4年に改正された漁業法の第1条には、「漁業調整」という言葉は入っていない。

第一条 この法律は、漁業が国民に対して水産物を供給する使命を有し、かつ、漁業者の秩序ある生産活動がその使命の実現に不可欠であることに鑑み、水産資源の保存及び管理のための措置並びに漁業の許可及び免許に関する制度その他の漁業生産に関する基本的制度を定めることにより、水産資源の持続的な利用を確保するとともに、水面の総合的な利用を図り、もつて漁業生産力を発展させることを目的とする。

「漁業調整」は、大臣許可漁業の項の第36条で、ようやく出てきて、括弧の中で次のように説明されている。

(特定水産資源の再生産の阻害の防止若しくは特定水産資源以外の水産資源の保存及び管理又は漁場の使用に関する紛争の防止のために必要な調整をいう。」とある。以下同じ。)

第36条の前には、第14条で海区調整委員会のことが出てくるから、その前に、「漁業調整」に関する事柄を入れても良さそうなものである。
漁業法は、「漁業調整」を基本的に定める法律であるから、改正前の第1条の条文のほうが、私は適していると思う。(※1)

漁業法は、「漁業を営む権利」でも触れているとおり、「漁業調整」をどうやって行なっていくか、ということを定めた法律である。
端的にいえば、漁業を行なう場合に、優先順位をつけることになる。
その優先順位は、地先で伝統的にやってきた人が最優先であり、あとからやってきて漁業をする人は、順番に従う。
「そうではないだろ!みんなの海じゃないか!平等にやれ!」という人がいるかもしれない。
じゃあ、逆に聞くが、「どうやれば、争いをせずに、漁業をできるのか?」と。
いろいろと方法論を考えてほしい。
答えは、その地の慣習に従うのが、一番簡単で理にかなっている。

また、これ以上漁業者を増やせば、魚を獲り尽す、あるいは、密殖で養殖物が育たないという考えも当然持つであろうから、地先漁業者の意見を踏まえ、漁業者の数を制限し経営を安定させるのも漁業法の目的である。(※2)
それは、第1条の「漁業生産力を発展させる」という条文の意味するものである。

ここで、いきなり共同漁業権の話になるが、各漁協の地先には、共同漁業権が設定されていて、その区域内では、漁業権を持つ人しか操業できない。
厳密には、漁協に所属していなくても、地先の関係漁民ならば操業できるのであるが(慣習上の権利)、現在では、漁協に所属しない漁業者は皆無に近い(慣習上の権利を持っていた人は、ほとんど漁協に入ったことによる)。(※3)
しかし、その漁業権で設定されている漁法や魚種以外ならば、自由漁業であるから、操業できる。

明治漁業法から現在の漁業法に変わるとき、意図的に、浮魚を共同漁業権の内容としなかった。
理由は、浮き魚は移動しているため、その地先の資源管理に適さないから、あるいは、地区同士の紛争の原因になる、などといろいろあるが、一番の理由は、漁業調整委員会の役割の重要性を認識してもらうため、である。(※4)
漁業調整委員会は、漁民の意見を反映させる民主的な性格をもつために、その制度を大いに利用しろ、ということである。
だから、選ばれた漁業調整委員の役割は、非常に重要であり、責任が大きい。

しかし、漁業調整委員へ意見を上申する漁業者も少なくなったのか、それとも、委員にやる気がないのか、ほぼ、漁業調整機構が機能していないと言っていい。
各都道府県の行政職員たちが、代行しているようだ。
「海の『守り人』論」が発行された1996年でさえ、そのような記述があるから、現在では、もっと形骸化しているだろう。(※5)
漁業調整機構は、性格上、下意上達(ボトムアップ)である。
上意下達(トップダウン)ではない。
民主的とは、下意上達なのだ。
この下意上達の方法が、漁業調整でうまく作用していない。

漁協組織もそうだ。
先日、宮古漁協の総会に出席してきた。
するめいかの大不漁で暇を持て余してしまって、いろんな会議に出席している。
会議後、漁協職員から聞いたのだが、下意上達の方法というのが、どうやら難しいようで、漁民の不満や要望が、あまり伝わらないような雰囲気である。
一般に宮古人は静かで、会議などではっきりと意見を言わない。
こうなると、ほぼ、しゃんしゃん総会、しゃんしゃん会議なのだ。
だから、少々、定款などの変更が必要であろう、と言ってきた。
実は、もっと前に行なわれた岩手県沿岸漁船漁業組合の総代会総会に出席した時も、するめいかの大不漁のことから、「各地区の漁師の意見をくみ上げて、組合長たちは、何かやってほしい」と意見してきた。
下意上達が、あまり機能していないので、今後、この方法を考えていく必要がある。
それが、漁業調整に役に立つ。



(※1)
 ここでは、「目的」の冒頭に「漁業生産に関する基本的制度」を定める法律と書かれています。したがって、漁業法の所管事項は「漁業生産」です。すなわち、水面で魚をとったり、貝をとったり、養殖をしたりする「漁業生産」について規定されています。
 漁業という営業を「生産」と「流通」に広く分ければ「生産」部門を所管し、流通部門とは関係がありません。漁業法が所管する場所としては、水面における漁業行為に適用され、陸地においてはせいぜい「水際」程度までといえましょう。
 そして、第1条では、続いて「漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする」と書かれています。ここで規定されている「漁業調整機構」とは、「海区漁業調整委員会」などの委員会を指していますが、実際の漁業法の運用は、これらの「委員会」だけにかぎらず、遠洋漁業や沖合漁業については、所轄大臣や知事が漁業許可の権限を持ち、漁業法を運用しています。
(「海の『守り人』論」p27)

(※2)
「水面の総合的高度利用による漁業生産力の発展」を目的とする漁業法に規定された漁業許可の制度は、その漁業を営むことができる漁業者の数を制限し、また使用漁船の隻数等を制限することによって、「漁業経営の安定」を目的とすることは明治漁業法、新漁業法を通じてその解釈にまったく変更はありません。
(前掲書p53)

(※3)
 漁業法には、部落漁民が慣習に基づいて入会漁業(共同漁業)を営める旨の規定はない。部落漁民が入会漁業を営めるのは、慣習法あるいは法例2条に基づいており、漁業調整という公共目的のために、免許や許可を誰に与えるかを規定した公法たる漁業法とは何ら関係がないからである。
(「海はだれのものか」p95)
 共同漁業権とは「共同漁業を営む権利」であるから、員外者の関係漁民が慣習に基づいて入会漁業(共同漁業)を営むことができるということは、員外者の関係漁民も共同漁業権を持っていることを意味する。いいかえれば、員外者の関係漁民は、漁業法に基づいてではなく、慣習に基づいて共同漁業権をもっていることになる。
 すなわち、関係漁民は漁協に属そうと属すまいと(免許があろうとなかろうと)共同漁業権をもっている。そして、漁業法は、そのうち「漁協に属する関係漁民」、すわなち「関係組合員」の共同漁業権について規定した法律である。員外者の共同漁業権に関しては、漁業法には、「員外者の保護」の規定(14条11項)しかなく、その規律は慣習に委ねられている。
 共同漁業は免許や許可がなくても営める自由漁業であり、自由漁業であるならば、国民の誰もが自由に営めるはずであるが、実際に共同漁業を営む者が関係漁民に限定されているのは、関係漁民集団が共同漁業権を総有しており、かつ、共同漁業権が物権的権利だからである。
(前掲書p97)



(※4)
 漁業法の立法趣旨を解説した、水産庁経済課編「漁業制度の改革」(昭和25・1950年刊 以下「改革」)の「浮魚を共同漁業権の内容としなかった理由」(292頁以降)で、その理由を次のように説明している。

  @ 浮き魚(定着性でないもの)を目的とする漁業は、だいたい地先水面で待ち構えてとる漁法の場合は漁業権とするが、魚群を追い求めて漁場を自由に移動して操業する、いわゆる運用漁具(漁労学上の厳密な意味でいっているのではない)でとる場合は漁業権としなかった。
  A こういう漁業は、だいたい他村の地先にもいって操業しなければ成立しない漁業であるのに、それを権利として地元の組合に持たせることは海を部落ないし村ごとに区切って固定的な障壁を設けることになり、漁業生産力の自由な発展を妨げ、深刻な部落対立をきたすからである。
  B その典型を瀬戸内海に見る。瀬戸内海では、多数の漁民が複雑に入り会って海を利用しており、一つの漁業権に普通十数件、はなはだしきは二十件以上の入漁権が設定されている。これでは、地先を持たずに入漁させてもらう部落はきわめて不利である。
  C たとえば、岡山県の某組合では、すぐに目の前の島は香川県に属し、ほとんど海を持っていない。逆に、香川県でも部落によっては専ら入漁権によって漁業をやっている、しかも往々にして地先水面の広いのはむしろ百姓部落で、漁業が発達し専業漁民の多いところが地先が狭くてよそに進出せざるを得ず、進出せんとしてはそこの専用漁業権と衝突して深刻な漁場争いとなる。
  D かかる漁場の利用関係を、漁業権対入漁権のかたちで規律せんとしても不可能であり、別の調整方式で規律しなければならない。
(「海の『守り人』論」p135)

浮き魚を運用漁具でとる漁業を共同漁業権からはずしたわけだから、はずされた漁法は自由漁業あるいは許可漁業や遊漁としてより広域的な操業か可能になったのだが、逆に従来の小規模漁業よりもっと規模も大きく、より効率的な漁法、例えばまき網漁業などが、漁業権漁場に入ってきて操業をすることにはならないだろうかという心配である。もちろん、この点についても、「漁業制度の改革」では、ちゃんとふれてある。さきに引用した「浮き魚を共同漁業権の内容としなかった理由」のDにある「別の調整方式」という規律のことであり、「あくまで自由放任の実力競争に任せるのではない」というように書いている。
 この新しい調整方式が、「委員会指示」(漁業法第67条)と呼ばれるもので、漁業調整委員会が漁業調整上必要があると認めるときは、だれに対しても、いかなる事項でも、制限や禁止その他の必要な「指示」をすることができる。「漁業制度の解説」では、次のように調整方式について解説を加えている。

  「委員会指示が活発にうまく行われれば、もっとも機動的、具体的に漁場の利用を規律しうるが、逆に委員会が動かなければ漁場は無秩序となって実力支配の修羅場となり、さらに能率的な資本漁業の自由な侵入をきたして一層零細漁民の漁場を収奪するおそれもあり、委員会の如何によって浮き魚をはずしたことの成否が決まるのである。」

 それだけ漁業調整委員会の任務は重大なのである。浜本幸生さんは、この調整方式を、「この委員会指示によって、浮き魚を共同漁業からはずした担保をとった」という、実に分かりやすいいいかたをしている。
 浜本用語の「担保」の意味をわたしなりに考えてみたい。つまり、浮き魚を運用漁具でとる漁業が共同漁業権のわくに入っていないからといって、まき網漁船が共同漁業権漁場のなかに入って操業して、サバやアジをとっていいというような表面ヅラの理解をしてはいけないということなのである。また、さらにつっこんでいってしまうと、現行漁業法上は、共同漁業権から釣りやさし網などの、浮き魚を運用漁具でとる漁業がはずされ、そのかわりに委員会指示という「担保」をとったことになったけれども、これは戦後の漁業制度改革の過程で、いわば形式的に「はずされている」だけであって、実質的な共同漁業権の性格にはなんの変化もなかったということなのではないだろうか。
 これを浜本幸生さんに確認すると、わたしの思った疑問符つきの担保の意味ではなく、「むしろ断言すべきなんだよ。」と答えてくれたのである。
(前掲書p138)

(※5)
熊本 次に、漁業秩序は、いったいだれが決めていくのかという点に入っていきたいと思います。まず、漁場計画というものがあります。都道府県知事が漁場計画に従って免許するという制度ですが、このことから知事が漁民に漁業権を与えるんだというように錯覚している人も多いのです。知事は漁場計画にしたがって免許をしなければならないのであって、漁場計画を現実に樹立するのが海区漁業調整委員会ですから、実質的には漁場計画を樹立するのは漁民である。そういう理解でいいのでしょうか。
浜本 まず、漁業法の立法趣旨では、戦後の漁業法は第1条の目的の中で「漁業の民主化を図る」といっているように、漁場計画も漁民が作るという考え方です。そして、漁業者及び漁業従事者が半分以上を占める漁業調整機構というのが海区漁業調整委員会ですが、これが漁民の意見を聞いて漁場計画をたてるという制度です。しかし、この制度の考え方は、実際には漁場計画のときにそれほど活かされていないということがいえます。
熊本 つまり海区漁業調整委員会は実質的にあまり機能していないということですか。実際には都道府県のお役人が作ってしまうというようなことなのですか。
浜本 そのとおりです。海区漁業調整委員会が機能するには、ちゃんとした事務局が必要になります。ところが、委員会の事務局は、機能的にも、予算のうえでもだんだん縮小されているのが現実です。
(前掲書p200)




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2024年07月01日

漁業法の歴史

こんにちは。

漁業法シリーズ、3回目。

漁業法は日本独自の法律であって、世界中を探しても、このような法律はない。(※1)
慣習法を体系化したものであり、そこには、規定されていない慣習もある。
したがって、権利の解釈は、民法その他の法律と同じなのである。
漁業を営む権利」「漁業を営む権利は、財産権である」で権利の中身やその実効性がわかったと思うので、ここで、漁業法の変遷について、書いていくことにする。
昔から伝わる漁業の慣習が、どうなってきたか、ということである。

漁協経営センター発行の「水協法・漁業法の解説」の冒頭には、どの改訂版でも必ず、黎明期から明治漁業法、そして、現行漁業法について書いてある(たぶん)。
江戸時代には、すでに、「磯は地付き、沖は入会」という考えが採用されていて、これは、基本的に現在まで変わっていない。(※2)
長い間の慣習というのは、本当に重みがあるものだ。

なぜ、「磯は地付き」といって、地元の漁業者に権利があるのか?と疑問に思う人もいるだろうし、思わない人もいるだろう。
あわびは黒いダイヤとも言われた時期もあり、腕のいい人は、数回の口開けで何百万円も獲った時代もあった。
これを羨ましく思い、「オレにも獲らせろ」という人は、たくさんいると思う。
しかし、ずっと地元でやっている人たちに言わせると、「ずいぶん都合のいい奴だ」と考えるのだ。
これは、正しい!
カネになるから、いきなりやって来て、「海はみんなのものだから、みんなにとらせないのはおかしい」というようなことがまかり通りようになると、漁場利用の秩序は乱れ、資源は枯渇する。
地元でない人は、資源が枯渇すれば、サッと撤退する。
本当に都合が良すぎるのだ。
みなさん、そう思いませんか!
これを防ぐ方法として、地元漁民優先、という考えが自然と出るのである。
江戸のちょんまげの時代でさえ、みんなちゃんと考えていた。
それを、「何でも平等でなきゃ、いかん!」という人はアホなのだ。

現在の改正漁業法の目玉で、漁業権漁場への企業の進出を決めた時、反対する人たちは、この地先の権利を蔑ろにされるのを恐れた。
しかし、ちゃんと、地元の人たちと協議して免許されることが、改正漁業法には明記されているらしい。
したがって、改正漁業法でも、従来の漁業法の基本的な部分は、踏襲されているのである。

日本が欧米並みの近代的な法律を作るにあたって、漁業法は世界中探しても、どこにもなかった。
そこで、日本中の漁業の慣習を聞いて回って作られたのが、明治漁業法である。
各地の慣習を情報収集するのだけでも、20年以上もかかっている。(※3)
それを体系化してまとめたものだから、本当に苦労しただろう。
この苦労を認識し、解説書を多数書いているのが、「漁業法の神様」と呼ばれた浜本幸生さんである。

現在の漁業法は、数年前に改正されたばかりであるが、改正前の漁業法は、昭和24年に制定された。
ほとんどは明治漁業法と同じであり、ということは、基本的な事柄は、江戸時代から変わっていないということである。
GHQ主導で、漁業の民主化が計られるということだったが、改正点は、共同漁業権から、釣りなどの漁業をはずしたくらいしかなかった。(※4)
つまり、明治漁業法は、ほぼ、完成の域に近かったということである。

改正前の漁業法には、こうある。

  第1条 この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。

条文中にある「漁業調整」という言葉には、明治漁業法の時代から「水産動植物の繁殖保護」という意味も含まれる。(※5)
漁業生産力を発展」させる方法としても、自ずと「水産動植物の繁殖保護」は必要であるから、改正漁業法の第1条の条文中に、いちいち「水産資源の持続的な利用を確保する」といった文面は必要ない。
水産庁は、もちろん、このことを知っていただろうが、なかなか漁業者、特に、漁獲圧の高い漁業をやっている水産会社を口説くのに苦労していたことから、第1条に明記したのだと思う(と少しはよく解釈する。笑)。
つまり、私利私欲にまみれる水産会社を、ようやく規制する動きが強まる、ということではないか。

私利私欲といえば、海を埋め立てる事業があったら、漁業権放棄と引き換えに、カネをもらおう、という考えの人もいる。
こういう人は、特に、年齢の高い層に多いように感じる。
しかし、漁業権を規定する漁業法と損害賠償は、まったく別ものである。(※6)
第1条に、それはちゃんと「漁業生産力を発展させ」という言葉で明記されているから、勘違いもはなはだしい。
漁業権の放棄は、内閣法制局でさえ否定していて、各省庁間でも、事業の行われない場合、漁業権の免許を行う、という覚書も交わされている。(※7)
漁業権放棄する、ということは、「悪」なのである。



(※1)
 現在の漁業法・漁業権は、2000年以上に及ぶわが国の漁業の長い歴史と伝統のうえに根ざした、世界で日本だけにある制度です。
 日本書紀や古事記の世界には海幸彦、山幸彦の神話があるように、わが国の漁業はたいへんに古い歴史があります。海辺に人々が住むようになって、集落としてムラが生まれた古い時代から、すでに漁業についての勢力分野的な現象が生じていたと思われます。
 しかし、大化の改新(645年)でわが国はじめて成文法「大宝律令」が発布されますが、その「雑令」のなかに、「山川藪沢(サンセンソウタク)の利は、公私これを共にす」ということが記されています。簡単にいえば、山や川や海の自然の恵みを「とる」権利は万民に開放されていっる、ということを宣言しています。
(「海の『守り人』論」p19)

(※2)
 江戸時代はいろいろな産業・文化が発達しましたが、漁業も同様であり、沿岸の各地には多くの漁村がすでに成立しており、現在行われている沿岸漁業の種類のほとんどが行なわれていたようです。そして各藩ごとに、土地と同様に海面についても「漁場の領有」を前提として、現在の漁業権の免許と同じような漁業行政を実施していました。
 この藩による行政の基盤となったのが、徳川幕府が定めた「武家諸法度」であり、漁業行政の原則が「山野海川入会」(サンヤカイセンイリアイ)です。この規則の中の重要な部分が「磯は地付き、沖は入会」というところです。「磯は地付き」というのは、「磯」すなわち沿岸部では、地元の漁村または一人ないし数人の仲間に漁場の独占的利用を認めることであり、「沖は入会」とは、「磯」の沖合部分はそれぞれの漁村に住む漁民の自由な入会い漁場とするということです。現在の、漁業権や入漁権が沿岸部だけに免許されているのは、この原則を受け継いでいるわけです。
 このほか、「村並の漁場は、村境を沖へ見通し」と定められ、漁業権の横の境界は、村境とし、また、「漁猟入会い漁場には、国境の差別なし」という定めで、国境付近の沖合漁場では、国境に関係なく、両国の漁民の自由な入会操業を認めていました。
(前掲書p20)

(※3)
 明治維新の混乱の後、明治政府は近代国家の建設に着手し、国の法制をヨーロッパに学び、民法、刑法などの基幹法はフランスやドイツの法律を翻訳、模倣して制定したのです。しかし、漁業法だけは範とする漁業制度はどこにもなかったのです。そのため、当時の水産局は、20数年をかけて全国の「漁業慣行」をくまなく調査し、整理して制度化したのが「明治漁業法」なのです。ですから、ヨーロッパなどで漁業法をもっている国はありますが、海面や内水面に土地の所有権とは切り離して漁業権が存在するのは日本だけなのです。わが国の明治期に作られた基幹法のなかで、漁業法こそが、日本人の有史以来の伝統的ななりわいのなかから独自に作りあげられた唯一の法律といえます。
(前掲書p21)

(※4)
 現在の漁業法は、昭和24年(1949年)の漁業制度改革に基づき明治漁業法を廃止して新しく制定されたものです。第二次世界大戦の敗戦後、GHQの占領政策の一環として、「農地改革」、「財閥解体」に続く日本の民主化政策として漁業制度改革が実施され、その主な目的はひと言でいえば、自ら働く漁民に漁業権を与えることでした。
 確かに漁業法は新しくなったのですが、漁業制度の仕組みは、明治漁業法の仕組みをそのまま受け継いでいます。明治漁業法の制度と変わったところといえば、「浮き魚を運用漁具でとる漁業」すなわち、釣り、はえ縄などを共同漁業権のわくからはずしたことぐらいです。
(前掲書p26)

(※5)
浜本 漁業調整の意味は、法第1条の「この法律の目的」に書かれているように、「水面を漁業のために総合的に高度利用して漁業生産力を発展させることである」と説明されています。そして、この「漁業調整」ということばは、明治漁業法(第34条)において、水産動植物の「繁殖保護」と「漁業取締」という二つのことばでいい表されたものを合わせたというような経緯もあります。
 したがって、「漁業調整」はなんであるかといえば、この漁業法第1条の目的に書かれていることも、水産動植物の繁殖保護のためにいろいろな規制をすることも漁業調整に当たります。また、漁業をまったく規制せずにおくと、各種の漁業が乱立し、いろいろな紛争が起きたりするために、そうした漁業の乱立を防ぐとか、漁業全的な経営の安定を図ることも、この「漁業調整」ということばには含まれているのです。このことをしっかりご理解いただきたいと思います。
(前掲書p334)

(※6)
 そもそも、水協法・漁業法は、1条(この法律の目的)に「水産業の生産力の増進」(水協法)、あるいは「漁業生産力の発展」(漁業法)を掲げていることに示されるように、漁業を振興させ、漁業生産力を発展させることを目的とした法律である。そのような法律に、埋立やダムにより漁場が潰れる際の規定や補償に関する規定が含まれているはずはない。したがって、「埋立同意」に水協法や漁業法の規定を適用すること自体がそもそも誤りなのである。
(「海はだれのものか」p138)


(※7)
水口 私は第1条が好きで、よく学生にもいいますし、読んでも聞かせます。山口県熊毛郡の祝島漁協という組合では、原発建設計画のための環境調査に反対して、現在、組合という法人と組合員とが一体となった画期的な訴訟を起こしています。詳しくはのちほどお話しいたしますが、裁判にあたっての決意文というのがありまして、「本来漁業法というのは漁業生産を高めるためにあるのであって、埋め立てとか漁業権放棄をするために運用されるのはおかしい」といっています。
浜本 そのとおりなのです。漁業法第22条に規定した漁業権の変更免許の手続きというものは、漁業法第1条にある「水面をよりよく総合的高度利用する」目的で漁業権を変更することができるという規定なんです。埋め立てのために漁業権を一部放棄するから変更してくれというような規定は漁業法にはまったくありません。漁業生産力を発展させるために見直しをするのが変更免許ですから、漁業権放棄のように漁場を小さくする変更免許は、内閣法制局でも「できない」と回答しています。
(中略)
浜本 漁業権の変更免許の話をしましたが、実は新規免許については第11条にちゃんと書いてあります。「漁業上の総合利用を図り、漁業生産力を維持発展させるためには漁業権の内容たる漁業の免許をする必要」がある、という規定です。そして、変更免許というのは、当初の免許の内容がちがったとか、天変地異が起こった時により良く利用するために漁業権の内容を変更する手続きなのです。まさに、第1条の目的を、漁業権の免許というところで実践しているわけです。
 この点では、建設省とか農林水産省の干拓事業との関係で、水産庁との間に覚書ができています。それは、法律のうえでは土地収用法とか農地法で漁業権を収容することができることになっています。ところが水産庁長官と建設省と、農林水産省構造改善局との覚書というのは、土地収用法とか、農地法で漁業権を消滅させた水面で、もし埋め立て事業や干拓事業が行われない場合は、「水面の総合的利用のために漁業権を免許する」という約束になっている。これは漁業法の目的からいってあたりまえです。ところが、漁民は自分が放棄したから、未来永劫にわたって漁業権は免許されないんだと思い込んでる。というのは土地を売ったのと同じだと思っている。
(「海の『守り人』論」p296)




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2024年06月30日

漁業を営む権利は、財産権である

3回目、こんにちは。

漁業法シリーズのつづき。

漁業法には、「漁業権は物権とみなす」という条文がある。
物権は、妨害排除請求権や妨害予防請求権を持ち、漁業権海域で、権利侵害が起こる場合、これらを適用できる。(※1)
埋め立て事業などの拒否、補償交渉などは、権利侵害が争点になるが、それらを判断する場合、漁業法ではなく、民法の規定によるものである。(※2)

物権は財産権の一つであるから、それを侵害すると、民法のみならず、憲法にも違反する。(※3)
したがって、「漁業を営む権利」で説明してあるように、自由漁業で実績と積み上げ、慣習上の権利に成熟した場合、それを侵害することは、違法行為となる。
漁業権にしろ、慣習上の権利にしろ、権利侵害となるのである。(※4)
権利というと難しいと思う人は、他人の新規事業により、生活が脅かされると感じた場合、それは権利侵害の可能性があると疑っていい。(※5)

憲法の財産権の規定から、実績と積み重ね、成熟した慣習上の権利を、その人から奪うことはできない。
この流れで考えれば、もちろん、大臣や知事が、実績のあるものに対して、漁業許可を取り消すことはできない。(※6)
私たちの生活上、慣習というのは、非常に重要な地位を占めている。
知事といえども、慣習を地域住民から奪ってはならない、ということが、以上のことからわかると思う。
住民は、生活をしていくのが最も大事であるのだから、許可を出してももらうからといって、知事や県を何ら恐れる必要はないのである。(※7)

一方、法律は万能ではないから、解釈のしかたで、濫用する人たちもいる。
何事も行き過ぎはよくない。
このことから、憲法で、「公共の福祉に適合するように」運用することが明記されている。(※8)

ここで、2そう曳きトロールのことに話を振るが、私は先日、県庁職員に言った。
2そう曳きトロールの許可は、もちろん、すでに財産権になっているから、これを水産庁が取り上げるのは権利侵害になるから、無理である。
しかし、強烈な漁獲圧で魚を獲るということは、日本の貴重な魚類資源に脅威であることは明白だ。
したがって、それをかけまわし漁法へと転換させるのは、公共の福祉となる。
公共の福祉に適合させるための措置であるから、権利侵害とはいえず、合憲となる。
と口説いたが、もちろん、「う〜ん」というだけで、快い返事はない。
面倒なのは、嫌なんだろうなあ。

強烈な漁獲圧で操業して、魚を獲り尽すのは、「悪」なのだ。
この価値判断から、法律の条文を導いていけばいいだけの話である。
旧漁業法でさえ第1条に「漁業生産力を発展させ」と明記されているからには、この考えは有効であり、改正漁業法には、「水産資源の持続的な利用を確保する」と、もっと積極的に書いてある。
あとは、水産庁に対して、論理的に意見するのみである。
水産庁管理漁業(つまり、沖合底曳網漁業)に対して、法の番人であるお役人たちは、非常にのどかである。

もう一つ付け加えるならば、沖合底曳網漁業の許可やその管理は、県がやるべきだ。
農林水産大臣は、県の意向を聞き、それを承認するだけでよい。
現地にいない人たちが、管理できるわけがないからである。

事実、数年前の、TAC制度に対する違法行為に対して、水産庁は何の指導もできなかった。
電話で指摘しても、水産庁は回答を避けた。
違法行為を容認したことになり、法の下の平等に、公務員たちが反したことになる。
これらは、決して消えない真実である。
バカじぇねーの!



(※1)
「漁業権は物権とみなす」という法の規定によって、漁業権は民法上の物権としての取り扱いを受けることになります。漁業法で物権を設定する根拠は、民法第175条の「物権ハ本法其田ノ法律ニ定ムルモノノ外之ヲ創設スルコトヲ得ス」という「物権法定主義」にあります。
 このことによって、漁業権は、民法物権編の諸規定の適用を受けることになります。そして、その効果としては、

  〇妨害排除請求権
  〇妨害予防請求権

という「物権的請求権」を持つということにあります。「妨害排除請求権」というのは、権利の行使を妨害している者がいれば、それに対して「やめてくれ、どいてくれ」と請求する権利です。
 また、「妨害予防請求権」というのは、権利の行使が妨害されるおそれがあるときに、侵害のおそれがある状態をなくすよう請求する権利をいいます。
 なお、物権的請求権には、もうひとつ「返還請求権」がありますが、漁業権は物ではありませんから、「取られたから返してくれ」ということは起こりえないので、「返還請求権」は除かれることを付け加えておきます。
(「海の『守り人』論」p60)

(※2)
 読者のみなさんのなかで漁業関係者であれば、漁業補償は何回かは必ず経験されているはずです。この漁業補償について考えてみましょう。はじめから結論をいいますと、漁業補償と漁業法制度との関係は何もありません。漁業補償に関係をもった人だけでなく、漁業関係者も含めて、ほぼすべての人が漁業補償と漁業法とは関係があると思っているようです。もともと、何の関係もないわけですから、「なぜ関係がないのか」と聞かれても、「関係がない」としかいいようがありません。
 こういいきってしまえば、もともこもありませんので、法律的になぜ無関係なのかをまとめてみることにしましょう。それは、漁業補償の根拠法律は民法であって、具体的には、損害賠償の規定である民法第709条がそれにあたります。すなわち、「損害賠償制度」が「漁業補償」の根拠法規なのです。民法第709条は、「不法行為」の規定で、次のように法文が書かれています。

  〇民法 第709条〔不法行為の一般的要件・効果〕
  故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ズ

 ようするに、この規定は、「違法に他人の権利を侵害した者(加害者)はそれによって生じた損害を被害者に賠償しなければならない」ということです。この規定(損害賠償制度)だけが漁業補償の根拠規定であって、他には何の関係ありません。
 ここでいう「他人の権利」についてですが、民法でいう「権利」は、法律で「○○権」と書かれた権利だけを意味しません。いいかえると、「生活に深く関係する利益」、これが「権利」と解釈されています。すなわち、生活にかかわる利益を侵害して損害を与えた者は、その損害を賠償しなさいというのが民法の規定が意味するところなのです。
(前掲書p67)

(※3)
 財産権の侵害に関しては、憲法29条が定められています。
 憲法29条1項は、「財産権は、これを侵してはならない」と規定しています。私有財産制を保障している規定です。したがって、財産権を侵害することは原則として憲法違反になるのです。 
(「漁業権とはなにか」p6)

(※4)
 海や川に存在する財産権の代表的なものは漁業権と水利権です。
 漁業権とは「漁業を営む権利」です。ですから、事業により漁業の水揚げが減少する場合には、「漁業権の侵害」が生じていることになります。埋立で水面が消滅する、ダムにより魚の俎上が妨げられる、護岸の周辺で漁業が営みにくくなり水揚げが減る、埋立工事水域で一定期間、漁業が制限される、埋立工事に伴う濁り等で水揚げが減る等々、いずれも「漁業権の侵害」にあたります。
 水利権は「流水を排他的・継続的に使用する権利」です。ですから、ダム建設に伴って、工業用水や水道用水に取水されたり、ダムに貯水することで水が濁りダムからの排水が恒常的に濁ったりする場合には「水利権の侵害」にあたります。
 漁業権も水利権も財産権の一種ですから、「漁業権の侵害」も「水利権の侵害」も、いずれも「財産権の侵害」にああります。
 海や川や海浜は、だれもが使用できる「公共用物」ですから、それを使用しながら利益を得る行為が可能で、その行為が長年続くと次第に「財産権」に成熟していきます。ですから、海や川や海浜に存在する財産権は、漁業権や水利権に限りません。ほかにも、いろいろな財産権が存在します。
 とにかく、埋立等の事業により自分の生活が脅かされる場合には、事業が財産権を侵害している可能性が強いですから、声をあげることが重要です。
(「漁業権とはなにか」p6)

(※5)
 事業によって生活が脅かされる実態があれば、調べていくと「権利の侵害」が生じているはずです。権利とは「一定の利益を自己のために主張することができる法律上保障された力」をいうのですから、生活が脅かされるような実態があるということは「権利の侵害」が生じていることを意味するのです。
(前掲書p4)

(※6)
 要綱2条5項で「許可漁業や自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有すると認められるもの」を権利と認めていることは前述のとおりであるが、要綱が「権利」と認めているということは、それを侵害する際に補償が必要ということであり、侵害に補償が必要ということは、当該権利が財産権であるということにほかならない。許可漁業や自由漁業は、慣習に基づいて財産権に成熟するのである。
 憲法29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と規定し、29条3項は、財産権を収用する場合には正当な補償をしなければならない旨、規定している。したがって、財産権に成熟している許可漁業の更新を拒むことは、きわめて困難なのである。
「海はだれのものか」p84)

(※7)
 漁民は、更新や切替えの手続きがあるため知事等に逆らえない、などと心配する必要なない。また、知事等に更新や切替えで恩義を感じる必要もない。漁民は、漁業を営み続けることで「慣習上の権利」を獲得しているのであり、許可の更新や免許の切替えは「慣習上の権利」に基づいて、知事等がおこなわなければならないのである。
(前掲書p86)

(※8)
 しかし、財産権を絶対化すると「公共の福祉」に反することになりがちです。そのため、憲法29条2項は「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める」と規定しています。
(「漁業権とはなにか」p7)



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2024年06月29日

漁業を営む権利

こんにちは。

それでは、約束どおり、漁業法の理解について、書いていく。
全部で5回の予定。
漁業法解説書のような例示はしていないので、わかりにくい部分は、アップデートしていくかもしれない。
最初の考え方さえ覚えれば、あとは、それに従っていけばいい。
決して難しいものではない。

海は、公共のもの、みんなものである。
川もそうであり、道路もそうである。(※1)
誰もが、自由に使用できる。
他に誰もおらず、一人で使用する場合には何も問題は起こらないが、複数や大人数で使用する場合、必ず、問題や争いが起こる。
それらを防ぐために、許可を受けて使用したり、排他的に使用したりする場合がある。(※2)
これが、基本である。

漁業法は、この基本に従う。
海を誰もが自由に使いたい。
しかし、それは、使いたい人がたくさんいるから、無理な相談というもの。
秩序を保つために、何も申し合わせないと、必ず、争いが起こる。
短気な人が多くいる場合(笑)、それは暴力を伴うだろう。
他人の道具を切ったり、ドロボーしたり。
やられたら、やりかえせ!
こんなことをしていれば、お互いが不利益を被ることになる。
それを防ぐためとして、みんなで話し合い、規則を作る。
これを漁業調整という。
漁業調整のことを定める基本的な法律が、漁業法なのである。(※3)

漁業調整は、はっきり言えば、その漁場の優先順位を決めることである。
実際の条文には、優先順位などという言葉は使われていないから、私たちは、漁業法や漁業権という言葉を聞くと、つい難しいものだと勘違いしていまう。
しかし、中身は、優先順位を決めるものなのだ。
こう書くと、「違う」という人がいるかもしれないが、じゃあ、利害で衝突する場合、どうやって解決するのか、という話になる。
みんなが「平等」という言い始めれば、解決できないのだ。
だから、優先順位と考えて差し支えない。
実は、ここのところが、昔、漁業の法律を作った先人たちの苦労だったと思う。
したがって、私たちが条文を読めても、中身を理解しにくいのはしかたがないことであり、昔の水色の本である漁協経営センター「水協法・漁業法の解説」を読んでもなかなか理解できなかった理由は、この辺にあると思う。

さて、漁業権やその他の権利に対する考え方について。
漁業権は、その名の通り、権利そのものであり、財産権である。
ところが、漁業許可は、権利ではない。
権利とは、漁業許可が出て、実際に実績を作り、初めて権利となる。
これを慣習上の権利という。
自由漁業も同じ扱いであり、生業として自由漁業の実績があれば、これも慣習上の権利となる。
漁業許可があっても、何の操業もしていなければ、それは権利とはなり得ない。(※4)

海、その他の公共用物ではすべて、「慣習上の権利」が成立し得る。(※5)
したがって、海面で漁業を営む「権利」、というのは、漁業法で定める漁業権のほかにも、慣習上の権利を含む。(※6)
海も川もその他も、公共用物に関しての権利は、同じと考えていい。
たとえば、山林原野や水利権などについて、定める公法はない。
したがって、すべて慣習に従っている。(※7)
一般の法律では、法律と慣習が矛盾する場合、法律のほうが優先されるが、法律で慣習に関して何ら制限がない場合は、慣習は、法律と同等の効力をもつ。(※8)
漁業法ももちろん、これに従う。(※9)

漁業法で定めてある狭義の「権利」を、漁業権と呼んでいるが、これには、共同漁業権、定置漁業権、区画漁業権がある。(※10)
さて、公共用物である海面で、漁業権が設定されている場合がある。
特に、共同漁業権海域などは広い範囲に及ぶ。
そこで、漁業者が漁業をしていない場合について考える。
この場合、一般人が、水泳をしようが、ジェットスキーをしようが、ダイビングしようが、自由にその海面を使用していい。
海が公共用物であるから、自由使用が原則なのだ。
釣りに関しても、権利者である共同漁業者たちが取り決めている魚種、漁法による制限に、その魚類や海藻類が指定されていないなら、自由にやっていい。
飽くまで、漁業権というのは、漁業をする権利であって、海面を占有する権利ではない。

しかし、勘違いしないでほしいのは、だからといって、決して漁業者の迷惑になるような行為はすべきでない。
迷惑行為は、権利の侵害とみなされる。
わざわざ漁協がダイビング・スポットを指定する例があるが、これには、迷惑行為を避けるため、という理由がある。(※11)

基本的に、自由使用は、どこであれ、他の人に、迷惑をかけないようにするべきものである。



(※1)
 直接に公共の福祉の維持増進を目的として、一般公衆の共同使用に供せられる物を「公共用物」といい、道路、公園、河川、港湾、湖沼、海浜などがそれにあたる。公共用物のうち、河川、湖沼、海などの水面および水流を「公共用水面」という。
(「海はだれのものか」p10)

(※2)
 公共用物の使用には、自由使用・許可使用・特別使用の3種があるが、原龍之介『公物営造物法〔新版〕』によれば、それぞれ次のように解説されている。

  @自由使用
  道路・河川・海岸・公園等の公共用物は、本来、一般公衆の使用に供することを目的とする公共施設であるから、何人も他人の共同使用を妨げない限度で、その用法にしたがい、許可その他何らの行為を要せず、自由にこれを使用することができる。これを公共用物の自由使用又は一般使用という。例えば、道路の通行、公園の散歩、海水浴のための海浜の使用、河川における水泳・洗濯のごときはそれである。
  自由使用によって享受する利益は、一種の反射的利益であって厳密な意味での権利でないと解するのが、従来の学説及び判例の考え方である。
  A許可使用
  公共用物の使用が、自由使用の範囲を超え、他人の共同使用を妨げ、もしくは、社会公共の秩序に障害を及ぼすおそれがある場合に、これを未然に防止し、又はその使用関係を調整するために、一般にはその自由な使用を制限し、特定の場合に、一定の出願に基づき、右の制限を解除し、適法にその使用を許容することがある。これを公共用物の許可使用という。
  公共用物の許可は、公物警察上の見地又は公物管理上の見地からの一般的禁止を特定の場合に解除する行為であるにとどまり、公共用物の特別使用とその性質を異にし、公共用物使用の権利を設定するものではなく、かつ、公共用物本来の機能を妨げない程度の一時的な使用を適法に行わしめようとするものである。
  公共用物の許可には、「公物警察権に基づく許可」と「公物管理権に基づく許可」がある。道路交通法による道路における道路工事又は作業、工作物の設置、露店・屋台店等を出すことの許可が前者、河川法による河川区域内の土地における工作物の新築・改築、土地の掘削、盛土・切土など土地の形状を変更する行為の許可が後者の例である。
  B特別使用(特許使用)
  公共用物は、本来、一般公共の用を供するための公共施設であるから、原則として、一般公衆の自由な使用を認めるのが、公共用物の用法に従った普通の使用形態であるが、時として、公共用物本来の用法をこえ、特定人に特別の使用の権利を設定することがある。これを一般には、公共用物の特別使用又は特許使用と呼んでいる。道路法・河川法等の各公物法は、この意味での特許使用を、例えば道路の占有、流水の占用等、公共用物の占用と呼んでいる。
  許可使用が単に一般的な禁止を解除し、一般的に公共用物本来の機能を害しない一時的な使用を許容するにすぎないのに対し、特許使用は、公物管理権により、公共用物に一定の施設を設けて継続的にこれを使用する権利を設定するものである点に特色がある。
  公共用物の占用関係は、特許(各公物法にいう「占用の許可」)という行政行為によって成立するのが普通であるが、特許の形式によらず、慣習法上の権利として成立する場合も少なくない。
(前掲書p78)

(※3)
 河川・湖沼・海面等は「公共用水面」であるから、原則として一般公衆の共同使用に供せられる。したがって、一般公衆の共同使用の一環として漁業も営むこともまた自由であり、漁業は本来、免許や許可を受けずに誰もが自由に営める「自由漁業」である。
 しかし、あらゆる漁業に自由に認めていたら、漁業によっては、水面を独占してしまったり、乱獲につながったりして、一般公衆の共同使用を妨げてしまう。そのため、そのような漁業は、「漁業調整」の観点から一般的に禁止されている。「漁業調整」とは、「漁場の総合的高度利用により漁業生産力を発展させるように、多種多様の漁業を各人ほしいままに任せず、全体的見地からその適合した地位におくこと」と説明されており、漁業法は、1条(この法律の目的)において「漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、・・・・」と、漁業調整を法の目的に謳っている。
 しかし、水面を独占したり乱獲につながったりするような漁業といえども、全面的に禁止して一切認めないことは、同じく「漁業調整」の観点から好ましくないので、特定の者に禁止を解除して認めることがある。それが「許可漁業」である。「許可」とは、法令による特定の行為の一般的禁止を公の機関が特定の場合に解除し、適法にこれをすることができるようにする行為をいうが、許可漁業の場合も、「許可」によって一般的禁止が解除されて営めるようになるのである。
(前掲書p10)

(※4)
 漁業は、本来、免許や許可を受けずに誰もが営める「自由漁業」であるが、一般公衆の共同使用を妨げてしまうような漁業は、「漁業調整」の観点から一般的に禁止されている。しかし、そのような漁業といえども全面的に禁止して一切認めないことは同じく「漁業調整」の観点から好ましくないので、特定の者に禁止を解除して認めることがある。それが「許可漁業」である。
 「許可漁業は、許可によって初めて営めるのだから、許可漁業が権利になることはあり得ない」という見解がある。しかし、それは「慣習上の権利」を踏まえていない見解であり、誤りである。
公共事業に伴う補償について定められた「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」(以下「要綱」という)の2条5項は「この要綱において、『権利』とは、社会通念上権利と認められる程度にまで成熟した慣習上の利益を含むものとする」と規定するが、この2条5項について、『公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱の解説』(国土交通省監修)は、「適例としては、入会権、慣行水利権、許可漁業あるいは自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有する権利と認められるもの等がある」と解説する。つまり、許可漁業を営み続ければ、「権利と認められる程度にまで成熟した慣習上の利益」、いいかえれば「慣習上の権利」になるのである。
 注目すべきは、許可漁業は許可によって権利になるのではないことである。許可によっては、一般的禁止が解除され、営むことが可能になるだけである。その段階では、許可漁業は単なる利益にすぎない。しかし、許可漁業が継続して行われ続けると、それは利益から権利に成熟していき、慣習に基づいて権利になるのである。
 要綱2条5項の解説に示されるように、許可漁業のみならず、自由漁業も、継続して行われ続けると利益から権利に成熟していき、「慣習上の権利」になる。
 要綱2条5項の解説からわかるように、「慣習」とは「古くからのしきたり」ではなく、「実態の積み重ね」のことである。許可漁業や自由漁業は、慣習=「実態の積み重ね」によって権利になるのである。
(前掲書p81)

(※5)
 公共用物に関する「慣習上の利益」が「慣習上の権利」に成熟することについて、原龍之介は次のように述べる。

  公共用物が一般に開放せられ、何人でも自由に享有できる利益に止まる限りは、単に公物の自由使用にとどまる。慣行上の公共用物の使用が権利として成立するためには、その利用が多年の慣習により、特定人、特定の住民又は団体などある限られた範囲の人々の間に、特別な利益として成立し、かつ、その利用が長期にわたって継続して、平穏かつ、公然と行なわれ、一般に正当な使用として社会的に承認されるに至ったものでなければならない。

 すなわち、公共用物に関する「慣習上の権利」の成立要因は、次の3つである。
 @その利用が多年の慣習により、特定の住民や団体などある限られた範囲の人々の間に特別な利益として成立していること
 Aその利用が長期にわたって継続して、平穏かつ公然と行われること
 B正当な使用として社会的に承認されるに至ったもの
 これら3つの要件が満たされたとき、より正確にいえば、@、Aを満たすような公共用物の使用が継続して行われ、Bを満たすようになったとき、「慣習上の利益」は「慣習上の権利」になる。
 したがって、「慣習上の権利」は、古くから存在し続けていなければ成立しないわけではなく、いつでも新たに創出し得るものである。
 「慣習上の権利」の存在は、権利とはお上から与えられるとは限らず、法律に明記されているとも限らないことを意味する。お上から与えられずとも、法律に明記されていなくとも、人々の日々の営みが権利を創り得るのである。
(前掲書p80)

(※6)
 要綱2条5項には、「この要綱において『権利』とは、社会通念上権利と認められる程度にまで成獣した慣習上の利益を含むものとする」と規定してあります。要綱の解説書には2条5項の「慣習上の利益」の事例として「入会権、慣行水利権、許可漁業あるいは自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有する権利と認められているもの」があげられます。ここからも許可漁業、自由漁業が成熟していくと財産権にあたることがいえます。
  許可漁業が権利になることに関して肝腎なのは、許可によって権利になるわけではないということです。許可がなされた時、及びその後しばらくは利益に過ぎないのですが、実態が積み重なっていくと利益が次第に権利に成熟していくのです。そのような権利を「慣習上の権利」と呼んでいます。「慣習上の権利」も財産権ですから、それを侵害するには補償が必要です。
(中略)
 新しくできる「慣習」もあります。許可によって生じた利益が続いていくと権利になるのですから。「慣習」とは「実態の積み重ね」と理解したほうがわかりやすいと思います。
 許可漁業も自由漁業も「慣習上の権利」い成熟していきますが、その権利の内容は「漁業を営む権利」ですから「漁業権」といえます。漁業法上は、免許を受ける漁業だけが「漁業権漁業」とされていますが、免許を受けない漁業も慣習に基づいて「漁業権」になるというになります。
(「漁業権とはなにか」p16)

(※7)
 山林原野の場合、私法である民法で「慣習に従う」と規定しているだけです。水利権はなにも法律ができなくて、慣習がずっと続いていて、「法の適用に関する通則法」3条に基づいて「慣習上の権利」とされているだけです。いずれも公法はまったく制定されていません。公法が制定されているのは、広義の入会権である「入会権・漁業権・水利権」のうち漁業権だけです。
(前掲書p45)

(※8)
 明治時代に欧米から近代法を導入する際、慣習と法律の関係をどう調整するかが大きな問題となった。
 法例2条(明治31年法律10号)は、慣習と法律の関係を「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反セサル慣習ハ法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ヒ法令ニ規定ナキ事項ニ関スルモノニ限リ法律ト同一ノ効力ヲ有ス」と規定した。わかりやすくいえば、公序良俗に反しない慣習は、法令で「慣習に従う」旨規定された場合、および法令で何の規定も設けられなかった場合、法律と同一の効力をもつ、ということである。したがって、ある事項について慣習と矛盾する法律ができれば、その事項に関する限りは法律のほうが優先する。
 しかし、「法律が制定されれば慣習が整理される」という見解は誤りである。法律の制定と慣習の形成は全く矛盾しない。法律が制定と慣習の形成は全く矛盾しない。法律が制定され、ある事項について慣習よりも法律のほうが優先する場合にも、法律は、それまでの実態に変更を加えるに過ぎず、法制定後も法律によって変更を加えられた実態が生まれ、それが続くことになる。つまり、法律の下で新たな慣習が形成されることを意味している。慣習は新たに創造され得るものであり、法律の制定と慣習の形成は全く矛盾しない。
 慣習とは実態が積み重なることによって形成されるものであり、その実態の根拠が何処にあるかには関わらない。実態の根拠が免許にあろうが許可にあろうが、根拠となる法律があろうがなかろうが、それらには一切関係なく、実態が積み重なることによって慣習が形成されていく。
 したがって、「慣習とは古いもので、ただ消滅していくもの」という見解も誤りであり、慣習は人々の営みが積み重なることによって不断に創造され得るものである。
(「海はだれのものか」p87)

(※9)
慣習は漁業法によって変更が加えられます(たとえば漁業法8条による第一種共同漁業権の漁業権行使規則に関する多数決原理の導入)が、慣習は漁業法よりも広く、漁業法に規定のない事項(たとえば第二種〜第五種共同漁業権の漁業権行使規則)に関しては慣習に従うのです。
(「漁業権とはなにか」p51)

(※10)
 一般に、漁業は、「自由漁業」、「許可漁業」と「漁業権漁業」に分類される。「漁業権漁業」とは、漁業が免許される共同漁業・定置漁業・区画漁業のことである。免許により漁業権が設定されるため「漁業権漁業」と呼ばれるのである。
(「海はだれのものか」p11)

(※11)
ただし、ダイバーが潜水を行う場合、ダイバーが直接水産動植物を採捕しなくてもダイビングの行為がの行為が漁業権者あるいは漁業行使権の侵害とみなされ、告訴されることもありうる。したがってダイバーは指定されたダイビング・スポットの利用の義務はないものの、漁業者との無用のトラブルを避けるため、指定されたダイビング・スポットを利用することになるのであって、このことがダイビング・スポット指定の法的根拠となっていると考えられる。
(「海の『守り人』論」p160)


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