日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2020年03月16日

揺るぎない強さ

こんばんは。

大不漁になりつつあるいさだ漁。
乗組員分の給料を水揚げしたのかどうかもあやしい。
船を動かすのが嫌になってくる。

しかし、NHK朝ドラ「スカーレット」の先週分で、「揺るぎない強さ」を思い出した。
稲垣吾郎先生が、貴美子に「揺るぎない強さ」を教える。
「そんなのとっくに持ってるわ」と貴美子は言う。

揺るぎない強さ

これだ!

私は、かなり単純である。

そのためもあって、最近のスカーレットには、目薬が要らない。
朝ドラにしては、ちょっと内容が濃すぎると思う。
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2019年12月08日

中村哲さんの偉大さ

こんばんは。

先日、「年金受給まで、あと10年か」を書いた時、すでに、中村哲さんの亡くなったニュースが流れていた。
自分は、「何もしない人生だったように思う」と書いたのは、彼のような立派な人生と比較してしまったからであり、やけ酒を飲みたくなってしまうほど惨めであった。
沖から帰ってきて疲れてしまうと、もう若くないせいか、心も沈んでしまう。
ましてや、漁も思わしくないと、余計にいらないことまで考える。
失敗だった様似遠征」で、一緒に行った船は、あの日、そのまま様似港へ戻り、その後、北海道で漁が出て、私と別れてから、1千万円も水揚げしたそうだ。
それもたった1日、あと1日、我慢していれば、私もそれにあやかることができた。
途中経過も電話で聞いていたが、すでにこちらは、いか釣りの艤装を解除して、鮭を獲る準備をしていたから、どうにもならない。
鮭は、史上最高の大不漁であり、もう年内の漁はあきらめるしかない。

しかし、失敗したからといっても、死ぬわけではない。
中村哲さんの死から比べれば、こんな失敗など、どうでもいいものである。

彼のことは、善意のあるメディアなら、ずっと伝えてきた。
旧「漁師のつぶやき」だったと思うが、何かの本で読んで、私は、彼のことを紹介したことがある。
もうアーカイヴもないかもしれないが、すでにその頃から、尊敬されるべき人間であったことは記憶している。

今、書いているこのブログで、確か、ボランティアに関し、次のようなものを書いた。

自分がボランティアをあまりやらないことに関し、悔しい思いも吐露したりしたが、しかし、誰もがボランティアをやってしまったら、生産活動というものがなくなってしまう。
特に、1次産業の農業、漁業などの食糧生産業の従事者がすべて、誰かを助けるためにボランティア活動をやり始めたら、とんでもないことになってしまう。
だから、通常、生産活動は、やるべきことなのである。

と、再び、思いなおした。
疲労がなくなって、体が元気になれば、マイナス思考は消え去る。



それにしても、中村さんはすごい。
この写真を見て、そう思わずにはいられない。

https://www.news-postseven.com/archives/20191207_1503858.html/3?IMAGE&PAGE=3(「NEWSポストセブン

ノーベル賞平和賞をもらってもおかしくない。
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2018年03月09日

心は広く

こんばんは。

法律のことばっかり書いていると疲れるので、ちょっと「もぐもぐタイム」。
取引先からもらったカレンダーに、次のように書いてあった。

忙しさは美徳ではない
心を亡くすと文字が教えている


私は性格が悪いので、このことをいとこに当てつけて言ったら、「自分のことじゃないの?」と切り返され、「心を亡くすと書く字なら、忘れるもあるでしょ」と教えられた。
つまり、ボケが進むのも、心を亡くすということなのか。

そんな私は、ご存知の出来事で、時間的に体力的に余裕がある。
したがって、いろいろと考えている。

今日の夕方のニュースでは、近畿財務局職員の自殺が報じられ、国税庁長官が辞任した。
自殺がなかったら、辞任しなかったのか?
真実はどこにあるのかわからないが、自分の落ち度は潔く認めれば、事態は複雑にならず、辞任や退職はあっても、自殺までいくこともなかったのではないか。

もし、私も、自分のやったことを「違う」と言い張っていれば、それを取り繕うために、いろいろなことを複雑に考えなければならず、仕事もできなっただろう。
先のことも考える余裕もなくなる。
ご飯を食べても、美味しくない。

日本人には、せっかく武士道というのがあるのだから、潔く生きていけばいいと思う。
精神的に余裕があれば、心が大きくなるし、行動も広がる。
自分で楽しみながらご飯を作り、酒を飲む。
これが最高。

私の場合、酒がなくなれば飲まない。
何かで頂いた酒は、なくなるまで毎日飲むが、買ってまで飲む気にはなれない。
スーパーに買いものに行ったついでに、ご褒美に缶チューハイを1缶買う程度である(ケチ!)

私は、先の冬季オリンピックで、小平選手の心の大きさに感心させられた。
敗者に対する気配りは、銀メダルの韓国選手に学んだものだと、小平選手は言っていた。
あの写真は非常に美しいと思う。

http://www.sankei.com/pyeongchang2018/photos/180226/pye1802260020-p1.html(「産経ニュース」)

しかし、ほかの感動物語は、私がひねくれ者のせいか、あまり感心しない。
以前、このブログでも書いたが、現在のオリンピックはテレビあってものであり、NHKでさえ、視聴者に感動を与えるように、編集し放送している。
オリンピック選手の努力は並み大抵ではないのはわかるが、一般人でも、並み大抵ではない努力をしている人もいるのだ。
活躍したオリンピック選手たちには光があたり、いろいろなご褒美もちゃんとくる。
しかし、一般人は、友だちや親類などそれを見ている人しか知らない。

「元気を与えたい」とか、よく聞く言葉だが、日本の金メダルの数が多くなったからといって、私たちの生活が良くなるわけではない。
オリンピック選手やスポーツ選手の活躍はショーであり、娯楽なのだ。
酒の肴なのだ。
私は、むしろ、友だちや知り合いの頑張っている姿や成功した話のほうが、ずっと楽しい。
そして、その相手と酒も飲める(笑)。

話は脱線したが、小平選手の行動は、私的には、国民栄誉賞ものだ。
しかし、金二つや金銀銅をとったスケート選手がいるなかで、金と銀の選手に国民栄誉賞を与えたら、喧嘩のもと。
だから、きっと彼女は、一生もらえないだろう。
でも、私は与えたい。

私も失敗した人に、「尊敬しています」とは言わないまでも、「いろいろと教えられました」程度のことを言える人間になりたい。
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2017年07月04日

「武士道」を読もう!

再び。

新渡戸稲造の「武士道」に関して要約し、ここにアップしようとしたが、やめた。
日本人なら、読んでいい本であるからだ。
でも、少しばかり書いておく。

私たち一般の日本人は、ほぼ「武士道」の精神を受け継いでいる。
日常生活や日本人特有の微笑みなど、「こういうことだったのか」ということがわかる。

日本人論なのか、日本文化論なのか詳しく知らないが、ルース・ベネディクトの「菊と刀」が有名らしい。
彼は、日本の文化を、恥の文化としているが、それは、見方が小さい。
日本人をよく観察しなかったと思われる。
だいたいにして、題名に、「菊」という言葉を使うこと自体、間違っている。
日本は、「桜」の国なのだ。

全部記すのは、非常に骨が折れるので、「武士道」を端的に表している文章を少し引く。

 嘘やごまかしは、ともに卑怯とみなされた。武士は、みずからの社会的地位の高さゆえ、商人や農民よりも高い水準の信を要求されると考えた。「武士の一言」 ― サムライの言葉、あるいはドイツ語でいう「リッターボルト(騎士の言葉)」と全く同じ意味 ― は、その言葉が真実であることの十分な保証であった。
 武士の言葉には重みがあり、その約束は一般に証文なしで結ばれ、かつ履行された。証文などを書くことは、武士の威厳にもとることだと考えられたからだろう。「二言」、つまり二枚舌を死によって償った人びとについて、多くの恐ろしい物語が伝わっている。
(「現代語訳 武士道」p78)


武士は、卑怯なことを嫌い、金銭のために、自分の志を曲げることもしない。
幼い頃からそれは教育され、みだりに刀を抜かない。
水戸黄門などという番組はただの娯楽であり、あんなに刀を抜くことはなかったのである。
以前、明治維新の長州勢力のやったことを書いたが、あれは、日本人として、恥ずべき行為である(「明治維新に騙されるな!」参照)。
「武士道」のかけらもない。

「こんな理不尽なことがあるのか。許せない!」と思う任侠的な心があれば、それは武士道の名残なのである。
そして、その精神は、同時代、つまり、サムライの時代の士農工商の末端まで及んでいたのである。

次にぜひ紹介したいのが、男と女のこと。
今の若い人たちは、自分の奥さんのことを褒めちぎっているかもしれないが、私の親の年代は、奥さんのことを蔑称で呼んだり、けなしたりした。
しかし、これは、武士道に起因することだったのである。
「自分を褒める」という行為を、普通の日本人はしない。
夫婦は一体である、という考えから、細君を褒めることもしないのである。
これを表している文章を、再び引く。

 私は、一知半解の外国人の間に皮相な見解が広まっていることに気づいている。― 日本人は自分の妻を「荊妻」などと呼んでいるから、妻は軽蔑され尊敬されていない、というのである。しかし、「愚父」「豚児」「拙者」などの言葉が日常使われているのを告げれば、それで答えは十分明らかなのではないだろうか。
 日本人の結婚観は、ある意味においてはいわゆるキリスト教徒のそれよりも進んでいると私には思われる。「男と女は一体となるべし」(『創世記』)。だが、アングロ・サクソンの個人主義は、夫と妻とは別々の人格であるという観念を脱することができない。したがって彼らが争う時は、それぞれの権利が認められるし、仲良くなればあらゆる種類の馬鹿馬鹿しい愛称や無意味な甘い言葉を交わす。
 夫や妻が第三者に自分の半身のことを ― 善い半身か悪い半身かは別として ― 美しいとか、聡明だとか、親切だとか何だとか言うのは、日本人の耳にはたいへん不合理に響く。自分自身のことを、「聡明な私」とか「私のすてきな性質」だとか言うのは、趣味のいいことだろうか。
 私たちは、自分の妻をほめるのは自分自身の一部をほめるのだと考える。そして日本人の間では、自賛は控えめに述べた場合でも悪趣味だとみなされている。― そしてキリスト教国民の間でもそうなってほしいと願っている!自分の妻をけなして呼ぶことは礼儀にかなっており、武士の間では通常よく行われた習慣だった。
(前掲書p163)

そして、本当は、日本人の夫婦は、仲良しなのだ(笑)。

 父親が息子を抱くと威厳を損なうとされ、夫は妻にキスをしない習慣だった。― 家の中ではしたかもしれないが、人前ではしなかった。ウィットのある青年が言った、「アメリカ人の夫は妻と他人の前でキスをし、私室では殴る。日本人の夫は妻を人前で殴り、私室ではキスをする」という言葉には、いくぶんかの真理があるだろう。
(前掲書p117)


新渡戸稲造の「BUSHIDO The soul of japan」は、明治32年にアメリカで出版され、日本では翌年出版された。これは世界的なベストセラーとなったようだ。
できれば、これくらいの本は、みんな読むべきだ。
私たちの心にあるものが、説明されている。

5000円札に新渡戸稲造が印刷されている理由が、ここにあるのかもしれない。
造幣局のデザイナーは、粋な計らいをしていると思う。
posted by T.Sasaki at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月04日

諦める、ということ

こんにちは。

今年の日本海は、非常に天候が悪く、そして、寒い。
例年より休みが多く、今日で3連休。
先日も3連休した。

あまりに暇なので、本屋さんで物色し、新書を6冊も買ってしまった。
今まで近くの紀伊国屋書店に行っていたが、他の船に乗っている友だちが、「大きな本屋があるから一緒に行こう」という催促に応じ、行ってビックリ。
ジュンク堂書店というのだが、各社の新書版が、ほぼ揃っているのだ。
だから、注文する、ということが必要ない。
新書版だけだと思うが、それほどの蔵書だから、逆に探すのが大変だった。
目がおかしくなる。

私の友だちは、最近年寄りくさい趣味を持つようになった。
いろいろな木を庭に植え、その成長を喜んでいる。
こうやって旅歩きしている間に、それらを盗む人が来ないことを祈っているが、もし、無くなっていたら、その落胆を大きいと思う。
その友と本を探していると、「GDP4%の日本農業は自動車産業を超える」というのがあり、これを買って私が読み、「内容を教えろ」ときたもんだ。
まあ、面白そうだから、買ってしまった。
これを今から読もうと思う。
「農業やって、二人で儲けっか!」

曽野綾子さんの「人間にとって成熟とは何か」。
これには少しいいことが書いてあった。
もちろん、「違うなあ」という記述もある。
しかし、いつものように、良いところだけを取る。

人権を強調する人たちは、特に、「格差」について、非常に問題視することがある。
格差があるからといって、貧困ではない。
所得が小さいからといっても、ちゃんと生活している。

 私は25年間くらいアフリカの貧しい土地だけに度々行っているせいか、本当の貧困というものを、何度もはっきりと見せられてきた。いつも言うことだが、貧困の条件はたった一つしかない。貧困とは「今夜食べるものがない」ことを言う。その条件に当てはまる人は間違いなく「貧しい人」である。
 しかしそれ以外の、家のローンが払えない、子供を大学にやる費用の捻出がむずかしい、新車を買えない、などという理由は、世界的に見て全く貧困の条件にはならない。
 貧困の苦悩はもっと「積極的」なものである。何々ができない、という形は取らない。屋根が穴だらけなので濡れて寝ている。一度お腹いっぱい食べてみたい。医者にかかる金がなくて死んだ家族がいる。埋葬の費用がないので家族の遺体を引き取りに行かなかった。そんな理由がまかり通っている社会を貧困社会と言うのである。
(「人間にとって成熟とは何か」p217)


はっきりいって、人権主義の人たちは、ずるい部分を多く持ち合わせている。
例えば、先程の引用文にあるアフリカの話を持ち出すならば、日本の格差より、アフリカの貧しい人々のほうが、ずっと問題なのだ。
「格差」を声高に叫ぶ人たちは、曽野さんのようにアフリカでいろいろ経験すべきである。

漁業の世界は、格差社会である。
腕のいい人や頑張る人は、所得も上位に位置するし、船頭として能力の劣る、あるいは、能力のない人は、淘汰される。
こんなことは、当たり前の話である。
それを漁師たちは、「格差」といって非難することはない。
まっとうな漁師たちが非難するのは、ずるい人間である。

私も淘汰される側の船頭になりつつあると最近思う。
絶望の資源管理の現場を見せられたり、やることの結果が裏目になったりするが何年も続くと、漁に対する情熱のほうが冷めてしまう。
ほどほどになったら、あきらめることを考えるようになっている。
そのことに関し、曽野さんは、良いことを書いている。
引用する。

できるだけは、頑張る。しかし諦めポイントを見つけるのも、大人の知恵だ。
(中略)
 諦めることも一つの成熟なのだとこの頃になって思う。しかしその場合も、充分に爽やかに諦めることができた、という自覚は必要だ。つまりそれまで、自分なりに考え、努力し、もうぎりぎりの線までやりましたという自分への報告書はあった方がいいだろう。そうすればずっと後になって、自分の死の時、あの時点で諦めて捨てるほかはなかったという自覚が、苦い後悔の思いもさしてなく、残されるだろう。
(前掲書p138)


そして、次の言葉で救われる思いがした。

 人間にとって大切な一つの知恵は、諦めることでもあるのだ。諦めがつけば、人の心にはしばしば思いもしなかった平安が訪れる。
(同頁)


だから、自分が船をやめる時、が訪れても、落胆することもない。
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2014年02月11日

「進撃の巨人」 (ラジオネタ 4)

みなさん、こんばんは。

先月の話でごめんなさい、なのですが、手仕事をしながら、IBCラジオを聴いていました。
声の麗しい後藤おばさんアナウンサーと脳みそがギャグだらけの神山アナウンサーの、曲名当てクイズに、「進撃の巨人」というアニメの主題歌が登場しました。
私年代の人は、まず知らない。
ところが、このアニメ、というか、マンガですか、大人気らしいのです。
そこで、ちょっと検索して調べてみると、単行本の発行部数が、何と、3000万部を突破しているそうですよ。
そんなに面白いのかなあ。

といいつつ、私は、ハマってしまいました。
IBCテレビでは、深夜にやっていますが、私は、仕事柄とても見ることはできませんので、違法行為(たぶん)のネット視聴。

「進撃の巨人」には、巨人と人間との戦いが描かれています。
ただそれだけなら、ありふれたストーリーなのですが、人口問題に触れているあたりはちょっと感心しました。
しかし、私が注目したのは、セリフ。
登場人物の台詞に惹かれるのです。

今日は、その中の二つほどを紹介します。

私たちの日常で、選択をせまられる場面を想像してください。

巨人倒しのナンバーワン、Leviの言葉(第19話より)。

「自分の力を信じても、信頼に足る仲間の選択を信じても、結果は誰にもわからなかった。
だからまあせいぜい、悔いの残らない方を自分で選べ。」

渋いですよね。
そして、主要登場人物の一人、Arminの言葉(第20話より)。

「後でこうするべきだったと言うのは簡単だ。結果なんて誰にもわからない。わからなくても選択の時は必ず来るし、しなきゃいけない。」

この後の言葉がまた素晴らしい。

「何も捨てることのできない人は、何も変えることはできないだろう。」

シビレます(私だけかなあ)。
アニメなんて、学生時代に「風の谷のナウシカ」と観てから、ほとんど観てない。
いや、たぶん観たけれど、あまり観ようと思う作品に出会わなかったのかな?
久しぶりに面白いのを観た。

というわけで、観てもいいようなアニメでした。
後ほど、ほかのセリフも、混ぜこぜに紹介しますので、お楽しみに。

ではでは〜。
posted by T.Sasaki at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする