こんばんは。
先日、「鮭を刺網で獲らせろ!」裁判があり、訴えた側は負けて控訴したようだ。
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180324_33045.htmlhttps://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201804/20180406_33022.html(「
河北新報オンラインニュース」)
(今朝の岩手日報にも記事があったが、Web版にはない)
私は、「海はだれのものか」を読んでからというもの、漁民組合側は負けると思った。
「漁を解禁すると多くの漁業者が参入し、漁獲量の調整が困難になる」という裁判長の判断は正しい。
漁業法で定められている権利が、慣習に基づいているのは、漁業調整が困難になるからである。
誰もが、“平等に”鮭を獲る権利があるのなら、誰がどうやってその資源分配や漁法の設定などをやるのか、非常に難しくなる。
まき網漁業だって、「苦しいから」獲りたい、といい始めるかもしれない。
誰だって苦しくなれば、そういう。
どうやって収拾をつけるのか、逆に質問されたら、漁民組合側は、何と答えるのだろう。
海の利用で、“平等”を盾に権利を主張するには、非常に無理があるから、漁業法では、慣習を大事にするのである。
すでに、小型船漁業では、延縄という漁法で数十年も鮭を獲っているから、これは権利となっている。
許可漁業といえども、それは広義の漁業権である。
もし、10月16日以降に、延縄漁業と刺網漁業が平行して操業することになる場合、刺網漁業者は、少なくとも、実績のあるすべての延縄漁業者からの同意をとる必要がある。
彼らは、脅すことがあっても、延縄漁業者から“了解”をとる努力をしたことがないのではないか。
もちろん、河川捕獲の事業者からも、すべての同意が必要であることは言うまでもない。
10月16日以前の刺網なら、さけ延縄漁業には影響ないから、あとは、河川捕獲の事業者との同意のみである。
しかし、である。
どこにでも昔はいたと思うのだが、鮭の刺網の密漁をやっていた人の話を聞くと、「そんなに甘くない」と言う。
定置網が大漁になるような時期でなければ、刺網にも、たくさんはかからないそうだ。
10月16日以前の許可なら、意味があるのかどうか、という話である。
商売にならないような刺網なら、ただの資源減少の道具でしかない。
岩手日報紙では、「サケの乱」という特集記事を掲載している。
https://www.iwate-np.co.jp/page/sake(「
岩手日報」)
第4部「4億匹を問う」というシリーズでは、現在のふ化放流事業のあり方を論じていて、ただ単に、この事業をやっていればいい、というものではないことがわかる。
この舵とりは非常に難しいと思う。
第4部の「がんじがらめ」という記事に、補助金支出で増殖事業を行っているのだから、「鮭を刺網で獲らせろ!」という裁判をやっていることが書かれてある。
https://www.iwate-np.co.jp/page/sake/page-6188(「
岩手日報」)
それならば、ふ化放流事業(増殖事業という言葉を使われているが、実際には単なるふ化放流の継続事業にすぎない)に税金を一切使うな、と訴えるべきである。
記事にあるとおり、現在、この事業は曲がりかどに来ている。
もし、本当に税負担と社会的影響を考えてのことならば、そうするべきである。
簡単なことだ。
補助金がなくなったなら、各漁協でふ化場の運営経費と鮭の漁獲収入とを考え、撤退する漁協も出てくるだろう。
このほうが、スッキリしてわかりやすい。
漁民組合の主張で、青森県や宮城県では、鮭を刺網で獲っている、とはいうが、聞いてみると、青森県では、共同漁業権海域のみで、沖合では禁止。
宮城県でも、10トン未満のみの許可であり、近年の不漁で、商売になっているのかどうかわからない状態らしい。
何度も書くが、商売にならないのなら、刺網は、ただの資源減少の道具でしかない。
「
漁業権について」で取り上げた「海はだれのものか」の同じ引用を引く。
判決が「慣習に基づく権利」を否定した背景には、司法界に、行政に反する判決を出さない傾向がきわめて強いことに加え、「慣習に基づく権利」を認めようとしない風潮があるように思われる。
しかし、慣習法は、いいかえれば、司法や行政に依存せずに地域社会を運営するための規範であり、成文法ではカバーし得ないさまざまな事項についての「住民の知恵の結晶」ともいうべきものである。慣習法に基づいて地域社会が運営されるということは、いいかえれば、慣習法によって住民自治が成り立つということである。近年、地方分権が盛んに叫ばれているが、慣習法は、地方分権どころか、住民自治を実現するのである。
また、慣習法を熟知しているのは地域住民であり、地域に住んでいない裁判官や学者ではない。慣習法の存否が当該慣習法を全く知らない裁判官によって判断され、慣習法を熟知している地域住民がその判断に従わざるを得ないというのは、実はおかしな話なのである。
(「海はだれのものか」p178)ここに「行政に反する判決を出さない傾向がきわめて強い」とあるが、行政裁判は、一般にやるだけ無駄である、とされる。
今回の場合、鮭の刺網に、過去の「慣習」も何もないのだから、どうやっても勝ち目はない。
彼らは、担当弁護士に騙されたのではないか、と思う。
担当弁護士は、漁業法がどういう法律なのか、勉強したのであろうか。
まだ裁判長のほうが勉強している、といわざるを得ない。
「鮭を刺網で獲らせろ!」と言い始めたのは、魚類資源が減少し、漁船経営が悪くなったからであり、もし、沿岸漁業が栄えていたなら、誰もこんな裁判を起こさなかっただろう。
もちろん、私には、“裁判で訴える”などという度胸はない。
その点は、「すごいことやるものだなあ」と思ったりしたが、こんな元気があるならば、2そう曳きトロールを、法律違反として告発したほうがずっと正義だし、やりがいがある。
あ〜、その情熱がもったいない。
県や各組合の組合長を敵に回してまでやるような裁判ではなかった。
posted by T.Sasaki at 20:43|
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さけ漁業
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