4回目。
「
ブルシット・ジョブとは、欺瞞に満ちた仕事のこと」で「
ブルシット・ジョブの謎」という本のことを書いたが、第5講以降のページは、段々と難解になる。
ネオリベラリズムが、ブルシット・ジョブを生んだ、と結論しているが、実際は、そうではないのではないか。
世界中の強欲な連中が、ブルシット・ジョブを作っただけであり、そのブルシットをみんなが真似しただけの話なのではないか、と私は思う。
強欲な連中にはカネがあるから、経済学という学問を作らせ、複雑な計算をさせ、やがて、株取引やたくさんの金融商品を作らせる。
経済という言葉自体が、ごく最近生まれたものであり、それは人間の生活や幸せからは、どんどん遠のいていく。
(※1)ギリシャ時代には、経済よりも人間の生き方のほうが大事だった。
人間形成である。
(※2)ここで気をつけなければならないのは、現在の経済学は、「最終的には人間のためだ。そのために、犠牲は必要だ」という論理である
。(※3)これが足かせとなって、仕事の格差、生活の格差を解消できない「経済」を作っている。
だから、「
ブルシット・ジョブの謎」でのグレーバーの結論は、人間が幸せになるように、経済の考え方を変えていかなければならない、という一回り大きな考えを提示している。
この理解がなかなか難しくて、2回も3回も、同じところを読んだりした。
ブルシット・ジョブの対局にあるのが、シット・ジョブであり、労働条件が悪い仕事のことを言う。
「
割に合わない仕事」「
クソ仕事」というらしい。
シット・ジョブは、俗にいう3K労働。
(※4)まあ、私がやっている漁業も3Kかもしれない。
いろいろな人と一緒に仕事をやればわかることだが、どうしても、個人間の優劣が出てしまう。
特に、漁業は、我慢強くなければやっていけない仕事で、初期には船酔いという試練を乗り越えなければならない。
その他、揺れる船内で体を支えなければならないし、その中で集約的な作業をしなけらばならないので、個人間の優劣は、比較優位の原則にしたがって仕事を割り振っていかなければならない。
いさだ漁業は、乗組員の数は多いほうだが、私の場合、仲良く協力し合うということで、甲板長以外は、みんな同じ歩合金だ。
ざっと書いたが、漁業は、それなりにシット・ジョブであるが、それでも漁があれば、「
割に合わない」仕事ではない。
「
割に合わない」といえば、私は、それは農業だと思う。
「
奴隷国家まっしぐら!」で書いているように、同年代の農家の方が、非常にやつれているのを見て、「応援しなければ」という気持ちが強くなった。
直接買う場合も、「少し高くてもいい」と言っても、それでも安く売ってくれるのだ。
彼らは、もっと金持ちになっていい。
一方、何だ!あの株式市場は!
私は、「雨風太陽」という会社の株を買ったが、あまりに投機的なのを見せられて、もう、株を買って応援する、ということをやめた(「
雨風太陽」参照)。
株式売買というのが、どういうものか、やってみてわかった。
昨日など、「雨風太陽」がストップ高だ。
なぜ、そうなのか、というと、たぶん、イスラエルとイランが戦争をおっぱじめたため、株は全面安となり、資金の行先は投機株(私は「利ざや株」と呼んでいる)に行く。
株価をつり上げ、頃合いを見計らって売りに出す。
これが、投機筋の狙いである。
配当の付かない会社の株で儲けるには、これしかない。
実際に、株式売買に関わらなくても、観察していればわかる。
とにかく「雨風太陽」の株は、乱高下が激しい。
これでは、素人は損をすることになる。
素人が損をするということは、投資会社、あるいは投機会社というのかどうかは知らないが、そういう会社は、1日のデスクワーク、コンピュータ操作だけで、カネをたくさん儲ける、ということになるだろう。
この世界は、誰かが損すれば誰かが儲ける。
彼らは、何も生産しているわけでもないし、誰も助けているわけでもない。
ただただ、金儲け、だけ。
これが、現代のいわゆる「経済」、「経済学」なのだ。
農業や漁業、その他、普通の一般の生産者から見ると、この「経済」の姿がおかしい。
そう、「おかしいじゃないか!」と訴えるべきなのである。
これが、私流に解釈した「
ブルシット・ジョブの謎」の主張である。
しかし、みんな「そんなことはわかっているよ」といって、何も言わないだろうが、その我慢強さは、日本特有のものらしい。
生活保護の利用を他の国に比べてみると、日本は低い。
日本人には「放っておくと怠けてしまう」という人間観の強さがあるのだそうだ。
(※5)したがって、少々、他国に意地悪されても、我慢できる。
ここで、意地悪されても我慢できる、という日本人の特色を生かして、欧米白人たちのおかしな論理に反抗すべきである。
特に、株式売買を代表とする金融工学の分野で、「そんなもの、もうやめろ!真面目にやれ!」と。
ついでに、白人たちの作った、増えすぎる一方のまぐろの国際条約も破棄せよ、と。
経済学のおかしさを紹介していたのは、われらが副島先生であるが、(「
複雑な数式の経済学は、破綻している」)すでに、人間の幸せとは乖離している「経済」は、もう、やめてしまえ!と。
と、書いたけど、きっと、ブルシット・ジョブは消えないだろうし、極悪な金融工学も消えないだろう。
あとは、これらのことがわかったのだから、自分たちで考えて、騙されないようにしていかなくてはならない、ってことかな。
(※1)
現在の意味の「経済」の観念が定着したのは
19世紀で、それも最初期には、現在でいうエコロジーというふくみもあったのです。少なくとも固有の法則と原理をもつ自律的実体とみなしうる「経済」なるものが誕生して、たかだか200年にすぎないのであって、人類史においては、ごくごくわずかの時間です。もしかすると、その歴史が終わりつつあるのかもしれないし、それを想像することがいまとても大事なのだ、ということです。(中略)人間が生活するということ、豊かな生活を送るということと、「経済」とそれにつきまとうさまざまな観念―成長や発展、生産性―とは異なる、ということです。
(「ブルシット・ジョブの謎」p242)
(※2)
古代ギリシアでは、生産は富の獲得やその増大、蓄積を目的にするのではなく、あくまで人間の形成を目的とするのであって、富はその手段にすぎなかった、ということがいわれています。
(前掲書p214)
(※3)
ただし、ことはもう少しややこしくて、いくら露骨に人間が利潤のための使い捨てになっている苛烈な資本主義社会とはいえ、建前は、人間のためだ、という口実を掲げられているのですよね。その場合、必要な犠牲と意味づけられます。先ほど述べた「雇用創出イデオロギー」も、こうした発想をまぬがれません。というのも、それは人間が道具となるのは人間が目的だからだ、といっているようなものだからです。
(前掲書p214)
(※4)
グレーバーはこの「割に合わない仕事」を「シット・ジョブ」と呼びます。日本語で「クソ仕事」としてかまわないとおもいます。
BSJとシット・ジョブは似ているようで、実は正反対です。シット・ジョブは、たいてい労働条件は劣悪です。それにあまり社会的地位が高いともいえません。日本でかつて「3K労働」といわれていたものは、その典型です。3Kとは「きつい、汚い、危険」という意味です。「一般的には建設・土木、ゴミ処理などの肉体労働や、警察官や看護師、介護士など勤務・労働条件の厳しい職業を指す」。これはウェブ上にある「人事・労務の情報サイト『日本の人事部』掲載の「人事労務用語辞典」からの引用で、2004年の記述です。
(前掲書p183)
(※5)
イギリスですら生活保護の捕捉率(生活保護を利用する資格のある人がどれほど生活保護を実際に利用しているかの割合です)は87%ですが、日本では19.7%です。まず正確な情報が伝えらえていないということ、そして悪名高い窓口であれこれのいやがらせや誤った情報で追い返される「水際作戦」が一因だといわれています。さらにはそれに生活保護を取得することが「恥ずかしい」という「スティグマ」意識がくわわります。この事例から透けてみえてくるのは、人間は放っておくと怠けてしまうという人間観の日本における独特の根深さ、さらにそういう「怠け者」にみられたくないという精神的呪縛の強さです。
(前掲書p126)