日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

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すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年07月02日

共同漁業からミチゲーションへ

ふたたび。

地先の漁業は、自由漁業を基礎として、漁業権漁業がある。
しかしながら、「漁業調整について」でも触れている通り、慣習上の権利として、地先の“従来から営んできた”漁業者は、共同漁業権があろうとなかろうと、操業できる。
「われわれの海」というのは、まさしく、地先の漁業者で管理していこうという意味から、これを、漁業法の神様、浜本幸生さんは、地先権と呼んでいる。(※1)
漁業法の目指すとろこは、本当のところ、「漁業する人間は、自ら、その漁場を管理し、守れ!」ということなのだろう。

日本の高度成長期以前の東京湾は、豊かな海であっという。
全国のノリの生産の半分を賄っていたというから、驚くに値する。
江戸前という寿司の看板があるくらいだから、魚介類の種類も多く、資源もほどほどにあったことだろう。
その後、土地造成のために海が埋め立てられ、東京湾全体の16%を失った。(※2)
埋め立て計画の終盤に、千葉県でちょっとした問題が起きた。
漁業補償金を支払ったはいいが、計画変更で、埋め立てない海域の管理をどうするか、という問題である。
海は公共用物であるから、誰でも使用できるので、千葉県企業庁の思惑ははずれた形になった。
結局のところ、他地区の人たちが操業できることになり、それなら、地元漁民の漁業権放棄を要求しないで、むしろ、地先漁民と話し合いながら、事業をやっていったほうがよかったことになる。(※3)
これは、漁業補償と漁業法を、セットで考えるからおかしくなったのであり、補償に関して、漁業法はいっさい関知しないことを肝に銘じておく必要がある。
何度も書くが、損害賠償は、いちいち漁業権を放棄しなくても、民法の規定により、やってもらえる。
だから、千葉県企業庁側とすれば、「埋め立ての漁業補償はします。残った海面は、お互いうまく使っていきましょうね!」とすれば、地先漁民と仲良くやっていけたのである。

共同漁業権は、地先の関係漁民の権利であるが、これを行使するにあたって、資源管理は必要であり、義務である。
もし、資源管理をせずに獲り尽すことになったら、関係漁民の事業は存続できなくなり、やがて廃業して、オカにあがるか、どこかへ行ってしまうだろう。
それなら、他所から「平等だろ!」と主張しながらやってくる漁業者と何ら変わりはなく、地先の関係漁民に、優先的に権利を与える必要もない。
したがって、地先を「われわれの海」と認識し、自分たちで管理をしっかりやるのだ、という考えが必要であり、義務となる。(※4)
これが、地先優先主義の思想となるだろう。
地先を漁業補償金目当てに、権利を放棄しようなどというのは、論外である。(※5)

地先の管理が明確になっている、ということは、その漁業権設定海面を企業が借りて利用する場合、その企業が有利に事業を行なうことができる。
マリンレクレーションなど、実際に全国でスポットを設けてやっている所は、地先の漁業権を利用している。(※6)

「海の『守り人』論」という本の対談形式で登場するのは、弟子の熊本一規さんと、水口憲哉さん、そして、ケビン・ショートさんである。
ケビン・ショートさんは、アメリカの事例を持ち出し、海を埋めたり、環境を破壊する行為を、漁業者だけに同意を求めるのはおかしい、と疑義を呈している。
そして、ミチゲーションという考えを紹介している。
ミチゲーションとは、環境の復元である。
埋めたり、環境を破壊した場合、周辺で影響を受ける生き物に対して、失った環境を周りに復元してやる、という考え方である。
もちろん、これには、非常にカネがかかる。
ミチゲーションを導入すれば、自ずと、環境破壊行為は少なくなるだろう。(※7)

各県には知事許可があるが、これは、地先優先主義の延長である。
したがって、沖合いであろうと、「われわれの海」と認識し、しっかりと資源管理をやっていかなければならない。
魚類資源が少なくなった現在、この考えは、ますます重要になってくる。

岩手県の乱獲の名物、2そう曳きトロールには、「われわれの海」という認識はなく、とにかく獲り尽すことしか頭にない。
過剰漁獲のみならず、海底環境を破壊した。
先ほどのミチゲーション制度により、元通りにしてほしいと私は思う。
この漁法は、本当に、史上最悪の漁法なのである。
これが、公共の福祉に反するということは明確だ。
憲法第29条2項に、違反する。
憲法違反である。



(※1)
 江戸時代以来の漁村の慣習は、共同漁業だけに生きているわけではない。いわゆる「自由漁業」や「許可漁業」についても生きている。
 浜本幸生は、入会集団としての漁協が、自由漁業や許可漁業を含めて地先水面を管理する慣習が現代にまで続いているとし、この慣習に基づく権利を「地先権」と呼び、次のように説明している。

  地先水門を「われわれの海」と呼んで、地元の漁協等がその水面の利用を管理・調整する「地先権」の慣習は、漁民は明確に自覚していない面がありますが、各地の漁村に、あまねく存在しています。
 一本釣りや刺し網漁業などの「浮魚を運用漁具で取る漁法」は、法律上、共同漁業権の内容にはなっていません。
  しかし、他の漁村の地先水面(他の漁協の共同漁業権の漁場)で、これらの一本釣りや刺し網漁業などの自由漁業や許可漁業の創業をする場合には、地元の漁協の入漁の承諾を受けてから(「庭先料」などと呼ばれる金額を支払う場合もある。)操業しているのが一般的ですが、これが、「地先権」の慣習が存在する典型的な例であります。
  また、漁協が、地先水面を利用して漁業を営む組合員から、漁場行使料、養殖筏の水面占用料、定置網の迷惑料等の水面使用料を徴収しているのも、その根拠は水協法や漁業法ではなく、「われわれの海」と呼ぶ「地先権」の慣習が、それらの金銭の徴収の法的根拠です。(なお、これらの金銭は、多くの場合、漁協を経由して漁村集落に積み立てられて、水産動植物の増殖の費用、漁村内の道路や橋の補修、整備の費用など、漁村集落全体の基盤的な事業の費用に当てられています。)
  そのほかに、漁業以外のマリン・レジャーによる地先水面の利用に関しても、例えば、漁協等が事業者との間で、ダイビング・スポットの開設場所や、マリーナに所属するヨットやモーターボートの航行区域などについての水面利用の取り決めをしている例が見られますが、これらも、その法的根拠は、「われわれの海」と呼ぶ「地先権」の慣習にあります。

 江戸時代の「海の入会」は、漁業法により、権利内容を「漁場の総有的支配」から「入会漁業を営む権利」に変えたうえで、「地先水面専用漁業権」として免許されることとなった。したがって、「漁場を支配する慣習」は、漁業法制定により消滅したものの、「漁場を管理する慣習」は漁業法制定後も存続しており、それは、法例2条に基づき、法律と同一の効力をもつというのが浜本幸生の見解である。「漁業法の神様」と呼ばれ、漁村の実態にも通じた浜本の見解であるだけに、説得力をもっている。
(「海はだれのものか」p98)

(※2)
 昭和30年代から40年代の前半にかけて、全国各地の内湾域は埋め立てられ、大規模コンビナートが建設された。東京湾においては、神奈川県から東京都をはさんで千葉県まで埋め立てにつぐ埋め立てが続けられ、昭和35年から55年の20年間に1万8000ヘクタールが埋め立てられ土地に変わった。明治初期の東京湾の水域面積が11万6000ヘクタールあったとされることから、この20年間で、実に内湾面積の16%が海から陸地に、主として工場用地に造成されたのである。
 その後は、公共用途の埋め立て等に用地造成の目的は変更されたが、海が消え続けていったことに変わりはない。いまや、東京内湾に残された自然海岸は、神奈川県では馬堀海岸北部のほんの一部、千葉県では木更津万洲干潟、小櫃川河口干潟に富津岬周辺だけになってしまった。この間に、千葉県沿岸の埋め立てにともなう用地造成で支払われた漁業補償金の総額は、1156億5883万円。その対象となった漁民の数は1万6000人にもおよび、東京湾全体では、2万人以上もの漁師が、漁業をやめ転業して「オカにあがった」のである。だれもすき好んでオカにあがったのではなかったが、こうした数字をみると、当時日本のノリ養殖のほぼ半分を生産し、江戸前の魚を供給し続けてきた豊かな海であった東京湾が、1200億円(当然他県を含めればもっと大きな金額だが)という金額で消えてしまったという計算をしてしまいたくなる。
 内湾の入り口富津岬。木更津、君津の埋め立てに続いて、富津地区にも1400ヘクタールの埋め立てが計画された。千葉県における最後の大規模埋め立てとして、公表された昭和41年以降、地元漁民のうちの絶対反対派が埋め立て反対運動を展開する。当時のジャーナリズムは、この漁民たちを「東京湾に残された最後の砦」とか「接点の海、富津漁民の闘い」と報じた。この動きも結局のところ、昭和43年から45年にかけて、関係地区4漁協(青堀、青堀南部、新井、富津漁業協同組合)1402人・186億円の漁業補償で決着している。同時に、埋め立て関係水面の区画漁業権と協同漁業権は完全放棄されることとなった。
 ここまでの漁業補償事例という点では、全国的にみても特異な事例でもなんでもない、ごく普通の事例である。しかし、その後の経済情勢の変化など、さまざまな要因が重なり、当初の埋め立て計画は半分以下に縮小され、約600ヘクタールの用地造成でストップしてしまった。
(「海の『守り人』論」p104)

(※3)
巨額の漁業補償金を漁業者に支払って漁業権の権利を放棄させた経緯があろうと、その水面が埋め立てられて土地に変わることなく、そのまま海として残ったとしても、千葉県企業庁はなんらの支配管理を行う法律的な地位を得ることにはならないのである。さらに、そればかりか、千葉県企業庁にとっては、やっかいなお荷物をかかえてしまったという点についても注意をする必要がある。
 こうした法律的なメカニズムについては、次のように書いている。

  〇・・・・漁業権等の放棄の法的効果で最も注意すべきことは、「放棄によって漁業権者などが持っていた権利が消滅することです」ということです。権利者自身の持っていた権利が消滅するだけであって、他人には、なんらの法律的影響(効果)を及ぼすことにはならないのです。
  〇・・・・漁協が漁業権を放棄すれば、その水面には以後絶対的に漁業権が存在し得なくなるように考えている人がいますが、そうではありません。従来、漁業権の外側の沖合部にあった「入会い漁場」が、放棄によって消滅した漁業権の漁場区域にまで広がってくるだけでなくて、その海域について他人が新規の漁業権の免許をうけるということがあるのです。

 千葉県企業庁が、「緩衝海域」として「なんびとにも権利を与えない」というつもりで、海面の港湾利用図面などにはっきりと線引きをし、この線から中は企業庁のものだから「だれも入ってはいけません」という旗を立てたとしても、誰かが入ってきて釣をしたり、貝を採ったりしたものを法律的に排除できないばかりか、合法的に新しく漁業をやらせてください、漁業権を設定してくださいと知事に免許申請をしてきたときには、ぴしゃりと拒否する根拠はどこにもないのである。
 つまり、漁業法は第1条の「水面の総合的高度利用によって漁業生産力を発展させること」を目的としているので、漁業法の立場は、放棄した漁協や漁民に代わって、漁業をやりたがっている人たちに対して漁業権を与えることになっているだけでなく、埋立免許にある水面について第三者に漁業を免許したのは適法という判例もあるのである。
 一方、公有水面埋立法においては、漁業権や入漁権など水面に権利を有するものに対し損害賠償をしなさいとなっているだけで、漁業権の放棄をしなさいとはどこにも書いていない。現実に、これまでの補償事例にあるように、漁業補償と漁業権など放棄がセットになって交渉が妥結するという場合が多かったのであるが、これも、漁業権放棄によって水面の「排他的な支配管理権が移管」するという思い込みによるだけのものであり、なんの法的根拠のないものである。
 浜本解説の結論部分である。

  〇・・・・すなわち、公有水面埋立法制度では漁業権の放棄を全く要求していないのです。漁業権は〈埋め立て工事の実施によって水面が陸地化するに伴って、漸次縮減し、あるいは消滅に至るもの〉なのです。
  〇・・・・民法においては、「海」の法的性質は、「海は古来より自然のままで一般公衆の共同利用に供されてきたところのいわゆる公共用物である」(最高裁昭和61年12月16日「田原湾干潟訴訟」上告審判決)としています。
  〇・・・・そして、〈海は公共用物である〉から、「国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないもの」(同判決)であり、したがって海面下の土地の存在はゆるされないものとして否定されました。
  〇・・・・このように「海」は、「特定人による排他的支配の許されないもの」であるからこそ、漁業法による漁業権も、公有水面埋立法による公有水面埋立権も、海面下の地盤の所有権が否定されたのと同様に、水面を支配し管理する権利として存在するものではありません。
  〇・・・・したがって、わが国の法制度は、「海」については、国が直接に公法的支配管理する ― すなわち、国が国民に対する優越的地位において、直接に「海」を支配管理すること ― 場合を除いて、一般私人には「海」を排他的に支配管理することを一切認めないわけですから、「発電所前面海域」について巨額の漁業補償金を出して漁業権等の権利を放棄させた経緯があった場合においても、漁業補償金を支払った発電所側には、「海」の一部分である「発電所前面海域」についてなんらの支配管理を行う「法的地位」は生じ得ないことになります。
(前掲書p115)

(※4)
熊本 いわゆる「持続的開発」という考え方があります。英語では、サスティナブル・ディベロップメント Sustainable Development といいますが、この考えかたは、かなりはやりの概念になっています。ただそれがどういう開発を意味するのか、持続的開発の条件としてどういうことが必要かといった、その内容まではあまり論議されていない。わたしは、共同漁業権を理解したものはだれしも抱くと思いますが、漁民たち自身が沿岸の漁業秩序を作っていく、そして自分たち自身が管理し利用していく、これはやはり持続的開発のかなり有力な条件ではないのかと考えています。海に生活を依存しているものたちが、自分たちで資源を管理していくということですね。それが、持続的開発にとってきわめて重要ではないのかという気がしています。
 入会権とか漁業権は、ともすれば、封建時代からの遺制であるとか、あるいは封建的な規制を持った権利である、すなわち古い権利であるというようにとらえられがちです。しかし、持続的開発という視点からみるならば、むしろ、これから重要になる概念を含んだ権利といえるのではないだろうか。とくに、アジアの地域において非常に重要な意味を帯びてくるのではないかという気がしているんです。
 いろいろなルールが設定されますけれども、それは決して封建的なルールではなく、むしろそこに住む人たちが永続的に資源を利用していくためのルール設定であるというように理解しております。この点は、浜本さんはいかがお考えでしょうか。
浜本 熊本さんの理解されたとおりです。「われわれの海」ということばを、わたしが意識して作ったのは、自分らの権利主張するときだけ「われわれの海」といって、開発なんかに対して、漁場がなくなったりとかというときに、先祖伝来の漁場とかいっておきながら、それをたくさんの補償金をもらうための理由づけにしか使っていない、それでは困るわけです。だから、「われわれの海」というのは、自分一人の海ではないということで、共同で利用し、共同で管理してきた「われわれの海」という意味があるのです。
(前掲書p219)
 義務のないところに権利なしです。地先権の義務は何かといえば、前浜の水面の管理なんですね。その管理というのは、具体的には漁場の口開け、口止めとか、採捕の輪番制とか、漁場の割り替えを決めるとかの長いあいだ決められてきた慣習がもとになってくる。漁場の維持への期待といってもいいのでしょうか。前浜の管理が、地先権の内容とその主張に対応する義務になっているのです。
(前掲書p344)


(※5)
浜本 漁業権を放棄してしまったら、それこそ、あとの海の管理をする人はだれもいなくなってしまう。埋め立てられたて海がなくなってしまうのなら放棄もやむをえないが、海が残る限り、海を管理するのは地元集落の責任なのです。それが、江戸時代以来受け継いできた漁民たちの責任なんです。いまは、漁業権という名前で受け継いできているのだから、漁業権を金をもらって放棄するのは集落としてやるべき権利をなくしてしまう。義務まで放棄してしまうことになるので、補償金をもらっても放棄するなとわたしはいっているのです。これが、わたしの考えかたの道筋、順路です。漁業権さえ残しておけば、ケビンさんがいわれた、いろいろな多様性のある沿岸域の対応が可能になるのです。
 漁民がやらなければだれが海を管理しますか。だれにもできないでしょう。
(p264)

(※6)
浜本 ある会社がダイビングスポットを設けて、そこで土地の漁協に、使用料を払ったということは、そこの水面に関する限り他の人が海を使うということは事実上ありえない。企業が安定して利用できる海面となります。昔から、漁協近くには海岸に造船所があります。そうすると、修理する船とか大きな船などを、つないで待たせている海面が必要となります。そして、この場所ならとめてもいいという了解を漁協から受けています。そうすると、造船所は自分の土地ではないが、自分のところの駐車場みたいに海の場所を利用できる。これは漁業権のおかげです。正確にいうと地先権ですが。
 だから、むしろ個人で遊びたいというのならともかく、なにかの企業的なことを海でやりたいというなら漁業権によって事業活動が安定するわけです。
 さきほどケビンさんもいわれていた、新しいジェットスキーというようなものは、新しいマリンレクリエーションですね。昔は「組合」が管理できたのは海水浴までですね。海水浴場の権利は、集落がもっているのです。集落イコール漁協ですから、砂浜における海水浴場の権利は漁協が持っているということになります。トレイとか更衣室とか一部の食堂も漁協が作っているはずです。あれも慣習なんです。砂浜は国有地ですが、慣習によってルールができている。海水浴までは一般国民とは衝突していない。
(p266)

(※7)
ケビン わたしは、一般的な国民の目から見れば、漁村にある程度の地先の権利を認めるが、他の人は水面に関してはまったく権利を認めないということがおかしいのではないかと思います。わたしは海岸を歩く権利もあるし、なにも悪いことをしないかぎりにおいては海に潜る権利もあると思う。もう一つは、海を埋め立てるか、埋め立てないかは、わたしにも言い分があるんです。漁業者だけが同意すれば埋め立てできるということは、世界の中でも時代遅れであると思います。沿岸域管理の立場からいえば30年ぐらいの立ち遅れという感じがする。
 アメリカの場合は、たとえば港湾のなかで海を埋め立てるというときには、徹底的な環境アセスメントの調査をやる。しかし、日本は残念ながら環境影響調査のシステムが笑い話のレベルです。そう、ことばだけなんですね。よくいうハンコを押すためだけの調査でお茶を濁しているという程度なんですよ。
 それに対してアメリカでは、ミチゲーション Mitigation という考えがあります。「環境の復元」というような意味ですが、これに当たることばを日本の場合に当てはめると、コンペンセイション Compensation 、つまり「補償」という意味になってしまう。
 たとえば、この場所を埋め立てる。この場所で魚が産卵して、水鳥も生息地としている。これを埋め立てると、魚の資源が少し減るし、生息していた水鳥がすみかを失ってしまう。今度はそれと同じくらいの生態的な機能を回復させることができる場所を作らなければならない。これをミチゲーションというようにいいます。
(中略)
 日本も将来はそういうミチゲーションという制度がないと、残り少ない海辺の干潟とか浅瀬とかはすべてなくなってしまう。そのなかで、漁業者が大きなウエイトを占めているが、漁業者だけが埋め立てを了解するしないというシステムが、一般的に悪い印象を与えることになっている。まるで、海を捨ててしまった漁協が、その海を開発業者に売り渡している印象を与えている。都市部ではまさにそうです。
(p270)




posted by T.Sasaki at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 漁業法の理解 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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