日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年06月14日

宮古高校の生徒手帳にあったエマーソン

ふたたび、こんにちは。

今日のは、「高貴に生きる」シリーズになりそうな気配。

私の母校である県立宮古高校の生徒手帳には、エマーソンの言葉が書いてあったと記憶する。

https://www2.iwate-ed.jp/myh-h/a_kousyo_kouka.html(「岩手県立宮古高等学校」)

確かにあった。

汝が希望を星にかけよ / エマーソン

私は今まで、エマーソンという人がどういう人なのか、興味もなかったし、全く知らなかった。
そのエマーソンのことを、何と!副島先生が本にして出した!
「自分だけを信じて生きる スピリチュアリズムの元祖エマーソンに学ぶ」。
この本もすごい!

エマーソンは、元々は、キリスト教の牧師をやっていた。(※1)
ハーヴァード大学卒で、そこはユニテリアンというキリスト教会が作った大学である。
日本の同志社大学もユニテリアンが作った。
ユニテリアンは、キリスト教プロテスタントの一派で、最も改革が進んでいる。
その中でも、もっと急進的だったのが、エマーソンである。
エマーソンとローマ教会の僧侶たちとは、雲泥の差がある。
エマーソンは、「キリスト教徒でなくても救済される」と言い、ハーヴァード大学から破門にされたが、それは後に、謝罪を兼ねて撤回された。(※2)

エマーソンは牧師を辞めて、「自己信頼」という本を書いている。
これが、世界中のスピリチュアリズムの元祖になる。(※3)
キリスト教を嫌になったエマーソンは、この自己信頼を武器に、アメリカじゅうを講演して回り、それでご飯を食べた。
エマーソンは、ローマ教会がやったような暴力的ではなく、穏やかな態度であったという。
人間のできることは、穏やかに説得することしかない、ということをエマーソンは教えている。(※4)

邪教を信じるより、高貴に生きる!」の繰り返しになるが、エマーソンが牧師を辞めた背景は、ニーチェが指摘した通りである。
ローマ教会は人々に劣等感を植え付け、神=僧侶にすがれば救済されると騙した。
救済は、本当のところ、みんなの納めた税金で、政府が行う施策しかない。(※5)
現在は、これが過ぎてバラマキと言われ、増税の元凶となっている。
キリスト教だけでなく、世界の宗教は、誰も救済できない。(※6)
残念ながら。
救済されるのは、僧侶などの宗教関係者のみである。
それでもローマ教会は、文科省の中に司教を送り込み、洗脳しようとしている。(※7)
日本人は気をつけなければならない。

ここで、スピリチュアリズムに戻るが、その前に、スピリチュアリズムのスピリッツについて少々、説明しておかなけらばならない。
これは、デカルトの発見によるものが大きい。
デカルトは、「方法序説」という本で、「この世は、物質と霊魂だけで出来ている」と書いた。
これは、暗に神の否定であり、よって、デカルトはローマ教会に殺された。(※8)
物質には質量があり、霊魂には質量がない。
そして、この霊魂、スピリッツとは、知能や思考のことである。
確かに、これには質量がない。
なるほど、確かに、この世は、質量のある物質と質量のない思考の2つしかない。

デカルトの「私が考えた。だから私は存在する」は、名言である。
自分の存在理由は、自分自身の思考があるからである。
神の思考ではない。
どの人も、神の思考のみでは、ただの物質と同じだ。
自分の考えがあるからこそ、自分は存在するのである。
スピリチュアリズムの霊魂とは、自分自身の思考のことなのだ。
だから、エマーソンは、「自分を信じて生きなさい」と言った。(※9)
もしかしたら、スピリチュアリズムとは、自問自答のことかもしれない。

日本のスピリチュアルの教祖みたいな船井幸雄さんは、亡くなる前に、「あんまりスピリチュアルの方にいかん方がいい」と言ったらしい。
結局のところ、知能や思考ではなく、俗語の霊魂を信じるな、ということだろう。
仏陀でさえ、自分の教えに自信を失ったのか、最後を看取った弟子に、「もっと自分自身を信じて生きなさい」と言って亡くなった。(※10)

この先を見通すなら、どうやら、社会に金銭的負荷をかける宗教というのは、衰退していく。
神の存在は、世界中で、すでに疑われているのである。(※11)
だから、自分で一所懸命に考え、働き、思うように生きていく。
これが正しいのだ、とエマーソンは教えたのだ。
結局のところ、ニーチェの高貴に生きることと、同義になる。

宮高生、および、同窓生なら、この本を読まないわけにはいかない、かな。



(※1)
 エマーソンは、自分が若い時、牧師を4年間やって、嫌になった。だから「自分だけを信じて生きなさい」と演説して回った。教会の説教師が演説家になって、評判が立って、あっちこち講演に呼ばれて全米各地を回った。
(「自分だけを信じて生きる」p127)

(※2)
 実は、同支社大学もハーヴァード大学と同じ、ユニテリアンが作った大学なのである。ユニテリアン教会の修道院(アビー)が土台となってできている大学である。そしてエマーソンがこのハーヴァード大学の神学部を卒業した牧師だったことは、何度も説明した。
 ユニテリアンは、キリスト教プロテスタントの中で、いちばん改革が進んでいる宗派である。他のカルヴァン派(長老派)や、メソジストやバプティスト、福音派(エヴァンジェリスト)と比べて格段に進歩的であり、革新的である。
 なぜなら、「イエスは人間であり一人の男である」と断言する。だから、前述した「父(天)と子イエスと聖霊(ホウリー・スピリット)の3つでセットで神である」とする三位一体を否定する。だからユニ(神は単一)テリアニズムである。
 ハーヴァード大学出のユニテリアンの急進派(ラジカル)であるエマーソンは、「キリスト教徒でなくても救済(サルヴェーション)される」というところにまで進んだ。だから、エマーソンはハーヴァード大学の主流派のユニテリアンたちから嫌われて絶縁(エクスコミュニケイト、破門)された。だが、40年後にハーヴァード大学の理事会の方が、「私たちの方が間違っていた」とエマーソンに謝罪した。だから今ではハーヴァード大学の中に、エマーソン・ホールという建物ができている。エマーソンの思想が正しかった、となったのだ。
 この考えを「万人司祭」と言う。すべての人々が牧師(司祭)であり、世界中のどんな宗教にもかかわらず、すべての人が救済される、と主張して現在に至る。この立場をユニヴァーサリスト(普遍主義者)と言う。
(前掲書p146)

(※3)
 ラルフ・ウォルド―・エマーソンは、1841年、38歳のときに『自己信頼』Self-Reliance”「セルフ・リライアンス」という本を出版した。エマーソンの「自己信頼(自分を信じて生きなさい)」こそは、スピリチュアリズム思想の出発点であり、金字塔なのである。
 世界中のスピリチュアリズムはこの本から始まったのである。このことが、不思議なことに日本では全く知られていない。この本は今も世界中で読まれている。
 この本のよりも、18年後の1859年に、イギリスで出版された本が、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』Self-Help”である。この、「セルフ・ヘルプ」即ち、「自分で自分を助ける」の意味の「自助」という考えは、その後、日本では、1980年代ぐらいから「自己啓発」と訳されてきた。
 今の大きな書店には、「自己啓発のコーナー」がある。だが、この自己啓発(セルフ・ヘルプ)の思想を、本当に初めに唱えたのは、エマーソンだった。「自分だけを信じて(自己信頼)、自分で自分を助けなさい(自助)。他の人のことは後回しでいいから。まず自分の生き方をしっかりしなさい」なのである。だから、スピリチュアリズムの第1原理は、「霊との交わり」よりもまず、本当はこの「自己信頼」(セルフ・リライアンス)である。
(前掲書p45)

(※4)
 エマーソンは決して極端に走ることをしなかった。彼の演説は、毅然として剛直なものであった。かつ、常に漸進的(進歩的)であり、リベラル思想である。我慢強く、他の人々を説得(persuade パースウェイド)した。何があろうと、人間は、他者を静かに、穏やかに、言葉の力で説得しなければいけない。説得するより他に、人間ができることはありません。
(前掲書p74)

(※5)
カトリック・ローマ教会は、初めにこの、「人間は弱い生き物だ」と決めつけておいて、そうやって人々に劣等感を植え付けて、その上に神を置いた。神さまにすがりなさい、助けてもらいなさい、と教える。そして、その時、神と民衆を仲介する(間を取り持つ)ことが自分たち神父(僧侶)の役割だ、とする。仲介者である彼らは、民衆を助けることができない。それなのに、自分たちにすがらせようとする。最低の思想だ。
 ですから、「貧しき者は幸いなり」「貧しき者ほど救われる」「神は貧しき者たちを愛します」というカトリック教会の思想は嘘だ。貧しき者は、実状としてあまり救われません。現実の世界でサルベーション(salvation 救済)は実際、そんなにありません。政府(行政)が行う、福祉と医療が関の山です。
(中略)
人間、みな平等、みたいなことを言いますが、実際には世の中は平等ではありません。「機会」と「運命」は人それぞれに違います。人間が平等なのは、憲法が定めて、個々の法律の取扱いにおいて平等だ、ということだ。
 それ以外では、人間は、生まれたときから平等ではない。実際には、人間社会はずっと不平等だった。これからも、おそらく不平等のままだ。ただし、改善して、目に見えてかわいそうな人たちというのは、かなり減った。
(前掲書p32)

(※6)
 人々が宗教にすがりついて求めるものはいつの時代も共通している。
「幸せに、穏やかに生きられますように。人生の三大苦悩である病気、お金の心配、煩悩から逃れられますように」と願う。けれども、大宗教たちは、これに答えられなかった。
 仏教も、キリスト教も大きな教団は、むしろ訳のわからない難しい教義(ゴクトリン)で人々を煙に巻いてきた。却って悪いことをした。苦しむ人々に「罪悪感」と「劣等感」を植え付けた。現世を救われがたい世界とし、幸せや快楽を求めようとする人々を上手に騙して、自分たち僧侶の言うことに従わせようとした。とくにキリスト教は、聖職者(僧侶)の勢力維持のために教義(ドクトリン)を使った。現在もそうだ。このことをニーチェは暴いた。
 仏教も衆生(人々)の苦しみを救えなかった。仏教は民衆に見放され、今は葬式(だけの)仏教になり果てた。遂には葬式すら出来なくなっている。
 イスラム教はどうか。イスラム教も民衆救済宗教としてドカーンと世界に広がった。しかし民衆救済は、実際には出来なかった。イスラム教は、中東アラブ世界を中心に、今も拡大しているのだと考える人々もいる。しかし私は、この考えに立たない。イスラム教もまた、次第に求心力をなくしていくだろう。
 ユダヤ教は戒律を守れ、ばっかりで救済を言わない。だからユダヤ人たちだけの世界にとどまった。
(中略)
 自分の存在の理由を探求したい、この世の中の真理が知りたい、と思うのは自然のことだ。しかしこれら人類共通の欲求に、宗教はまったく答えることができなかった。
 だからスピリチュアルが流行するのだ。スピリチュアルは決して宗教ではない。
(前掲書p92)

(※7)
 ここで私がもっと本当のことを率直に書くと、日本の文部科学省の中に、カトリックのローマ教会から派遣された司教がいる。日本語がよく出来る人だ。彼は日本国民をカトリック教会の言うことに従うよう洗脳し、管理するために派遣されてきている。ヨーロッパ白人文明を普遍的なもの、かつ至上のものとして、キリスト教を最上の世界宗教だと教え込むために、日本人を教育している。こう書くと問題になりますが、私は本気だ。
(前掲書p29)

(※8)
 物質と霊魂。この2つだけで世界は出来ている。このことをはっきりと断言したルネ・デカルト(1596〜1650)が一番、偉かった。やはり、デカルトが何と言ってもヨーロッパ近代哲学で最大の思想家だ。彼よりも後のカントもヘーゲルもマルクスも、デカルトと同じ思想の流派である。即ち、神の否定である。
 1937年刊の、『方法序説』Discours de la methode”「ディスクール・ド・ラ・メトード」という本の「まえがき(ディスコース)」でデカルトはこのことを書いた。「この世は、物質(マテリエール)と霊魂(エスプリ、スピリット)だけで出来ている」と書いた。「だから神はもう要らない」とまでは、はっきり書かなかった。書かなかったのだが、そう言っているのとほとんど同じだ。世界の構成要素に、神の居場所はない。
 そうしたら、デカルトは招待先のスウェーデン王宮でヒ素を飲まされて殺されてしまった(1650年2月11日。53歳)。殺したのは、ローマ・カトリック教会の司教(神父より上の地位)である。「もう神は要らない」と言ってしまったデカルトへのカトリックから憎しみと恐怖はものすごいものだったのだ。デカルトは、ルターの宗教改革(1517年)から80年あとに生まれている人だ。まだまだローマ・カトリック教会が世界を支配していた。
(中略)
この「霊魂、スピリット」とは、それは intellect インテレクト=(知能・思考)のことなのだ。あるいは、=mind マインド「考える」ということだ。霊魂は、現代では intellect、mind のことだ。これらには、重さ、物理学で言う質量 massがない。それに対して、物質(マテリエール。英語でいうとmatter マター)には必ず重さ(質量)がある。必ず無いといけない。
(前掲書p117)

(※9)
デカルトが最大級に偉大なのは、「私が考えた。だから私は存在する」

cogito,ergo sum”

「コギト・エルゴ・スム」と言った。たった一行のこの言葉にこの世で、一番大事なことがすべて詰まっている。大変有名な言葉として世界中で、今も言われる。ところが、この1行の偉大な文(センテンス)の真の意味を日本では、おそらくこの私以外は、まだ知らないだろう。コギトとは、I think「私は考える」の意味だ。そして、

I think therefore I am.”

の therefore I am は、「それ故に、私はここにいる」という意味だ。
 つまり、「私が存在するのは、私が考える(思考する)」からだ。それ以外でない。「神様が私を生んでくれたとか、神に導かれたとか、そういうバカなことを言うな」という話だ。「考えている私が、ここにいる」。人間は考えること(思考)が重要だ。そしてこの思考(考えること)には重さがない。思考(知能)は、人間の頭(ヘッド)の中の頭蓋骨(スカル)の中の脳(ブレイン)の中に、有る。有るものである。しかし物質(マテリエール)ではない。
 だから、ここから、さーっとエマーソンに戻るが、「自分だけを信じなさい」(自己信頼)ということだ。人類は長い間、宗教によって余計なことばかり教えられて、ウソばかり教えられてきた。そんなものを信じる必要はない、ということだ。「コギト・エルゴ・スム」という偉大な真実をはっきり言葉にしたデカルトが偉大なのだ。
(前掲書p124)

(※10)
 船井幸雄は死ぬ間際(2014年1月6日に。逝去は、その13日後の19日)に、自分のHP(ホームページ)に書いた。「あんまりスピリチュアルの方にいかん方がいい」と。それを読んだ船井幸雄の愛読者たちの間に、動揺が起きた。「先生はずっとスピリチュアルのことを私たちに教えてきたのに」と。
 私は先生のこの発言を素直に受け止めて、理解出来た。「そうだよ。スピリチュアルの世界に入り込んで、まるで宗教団体の熱心な信者のようになってはいけないんだ」と、あのとき、私は強く思った。
 スピリチュアルは宗教ではないのだ。教祖や神を拝まない。それでは何を拝むのか。崇拝するのか。だから自分を、だ。
 お釈迦様(仏陀 紀元前563〜前483)は、80歳で死を悟ったときに、弟子のアーナンダ(阿難)ひとりを連れて、自分の生まれた故郷の、シャカ族の地(ルンビニ)に戻ろうとして、途中にクーシナガルという村で倒れた。食べたキノコで食あたりをして下痢をした。そして横になって最後のコトバを言った。
 それは、「私(仏陀)が教えたことなんか、どうでもいいかな。それよりも、もっと自分自身を信じて生きなさい。今の自分を信じて生きなさい」と言った。そして死んだ(紀元前483年)。
(前掲書p84)

(※11)
職業としての僧侶は、どうしても信者たちに金銭的に負担をかける。それとどうしても教会官僚主義となり腐敗が生まれるからだ。お坊さまの存在そのものが悪だ、とユニテリアンは気づいた。このことが何よりもスゴいことなのだ。だからお坊さま(僧侶)はもう要らない。どんな宗教であれ。
 だから社会改良主義の方へ行ってしまったエマーソンのようなユニテリアンたちは、もう教会へ行かなくなった。彼らは、「私は神の存在を否定する」という無神論(atheism エイシズム)にまでは行き着かない。その一歩手前の、理神論(deism デイズム)のところで止まっている。理神論は、「神の存在を疑う」である。
 1630年代のデカルトも、1750年代のカントも、みんなこのdeismだ。
 今も世界中でこの「私は神の存在を完全に否定はしないが、強く疑う」という、理神論の立場が欧米白人たちの間で強くなっている。ヨーロッパ人は、すでにほとんどがこの理神論者である。
 彼らはもう教会に礼拝に通うことをしない。ヨーロッパ人よりもアメリカ人の方がまだ教会に行く。キリスト教会はどんどん人気、すなわち人気(ひとけ)がなくなりつつある。日本も仏教のお寺に住職(お坊様)の話を聞きに行く人々がほとんどいないのと同じだ。ご先祖のお墓参りに行く人々はいる。それさえもやがて終わっていくだろう。
 だから、ユニテリアンの中には、キリスト教徒でさえなくなった人々がたくさんいる。
 そして、ラルフ・ウォルド―・エマーソンがまさしくその先駆者なのである。
(前掲書p149)


posted by T.Sasaki at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 副島学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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