こんにちは。
これは、「
キリスト教は、ウソに塗り固められた邪教である」の補強版である。
というのも、適菜収さんがニーチェの「アンチクリスト」を翻訳した「キリスト教は邪教です!」を読んでしまい、キリスト教会は、よくもこんなこともするんだなあ、という率直な感想。
だから、ニーチェは、ボロクソにキリスト教の僧侶たちを叩いくのだと思う。
叩かれて当然だけど。
日本各地には稲荷神社があり、五穀豊穣を祈り、お祭りをやる。
お祭りでは、地域の人たちが集まって、「今年も良かった良かった」と言って、ご馳走を食べながら歓談する。
祭っている神は、いったい何なのか、そんな難しいことは、誰も知らない。
イスラエルの神エホバも、もともとは、そういう神だったらしい。
つまり、自然のなりゆきを否定しない神だった。
ところが、イスラエルである不幸が起こった。
その不幸を契機に、僧侶たちが、自然を否定するような神に作り変えた。
自然を否定するという流れから、科学的思考も否定していく。
そして、「道徳的世界秩序」というわけのわからないことを言いだし、「罪」や「罰」を創作した。
(※1)これが、キリスト教の起源である。
人間の作ることに完全なものはないから、当たり前の話であるが、僧侶たちの創作は、いずれ綻びていく。
キリスト教の物語は、人間を作る話から始まる。
そして、女を作る。
人間は意外に賢く、科学的思考を身に着け、だんだんと神の手に負えなくなる。
「汝認識することなかれ」というのが、聖書の中に記されているそうだ。
これは、人間がバカのままのほうが、神にとって都合がいい、ということである。
手におえなくなってきたら、神は何を人間にさせたか?
戦争という殺し合いである。
(※2)この物語は、何かに似ていないだろうか?
そう、西洋白人が、東洋人、その他の民族をバカ扱いし、翻弄する現代社会である。
意外に東洋人が賢く、手に負えなくなり、東洋人同士を対立させ、武器を売る。
そうか、そうだったのか!
上から目線の西洋人の考えは、キリスト教由来のものだったのだ。
「罪」と「罰」を開発した話に戻る。
僧侶たちは、人々が神にすがってほしい。
そう願っている。
神にすがる理由は、不幸である。
だから、僧侶たちにとって、人間の不幸が必要なのである。
不幸の原因を人間は考える。
「何が悪いんだろう?」
人間の得た科学的思考で、これを解決していく。
これでは、神にすがる機会が減っていくことになる。
だから、この科学的思考が、僧侶たちにとって、災いとなる。
そこで、「汝認識することなかれ」と聖書に記し、人間を迷える羊のままにしておきたい。
「神を信じないことは、罪なのだ。不幸は、その罰なのだ。」ということを教え、思考させないようにする。
「罪」と「罰」は、科学的思考を否定するために作られたのだ。
(※3)開発された「罪」は、もちろん僧侶たちの組織を維持するための装置である。
「神=僧侶」なのだ。
(※4)だから、ニーチェは、キリスト教を、自然や科学の否定の宗教だと喝破した。
その上、キリスト教は、暗く陰湿だ。
常に自分の「罪」を探し、告白する。
肉体的なことは、「イヤらしい」とする。
(※5)その点、日本人は、明るい。
不倫は文化だ、という人もいる。
「写楽」の時代から、グラビアやアダルトビデオの現代まで、その明るさはとどまるところを知らない(笑)。
「自分の罪を探し、告白する」という行為は、人を神経質にさせる。
これが、他を妬み、憎む原因ともなるだろう。
聖書には、「神の国は、あなたの中にある」と記されているそうだ。
神経質になっている人の中に、神の国があるのだろうか。
そうではなくて、心の中で、神の愛にすがれ、ということらしい。
(※6)ニーチェではないが、アホらしくなってくる。
一方、キリスト教の発展に利用されたイエスは、陰湿ではない。
むしろ、開放的と言っていいだろう。
彼は、他人を縛りつけるようなことは、一切言っていない。
(※7)その言葉を面白くないと考えた人たちが、彼を十字架にかけたのだろう。
結局、イエス・キリストは、利用されただけだったと言える。
どの時代にも、他人を利用して、のし上がろうとする悪党がいるものだ。
キリストを利用した一人として、最も顕著であるのが、パウロである。
彼は、「神は、お選びになる」という言葉を使って、精神的に不健康な人の恨みを助長した。
(※8)そして、「地獄」を作り、「あの世」も作った。
(※9)ヨタ話の世界である。
ニーチェは、この世の中で、人間に能力の違いが出ることは仕方がないことだ、と認識していた。
自分の能力でできる範囲で、ちゃんと仕事をやり、それが公共の利益となる。
能力の高い人は、もちろん、平凡な人を思いやる義務がある、とさえ書いている。
一方、キリスト教徒や社会主義者たちは、平凡な人たちを扇動して、健康的な能力の高い人たちを攻撃しようとする。
(※10)まるで、真っ当な社会を壊しているような感じになっている。
なるほど、キリスト教は、邪教である。
おまけとして、「キリスト教は邪教です!」に対する東大教授の書評から。
ニーチェは、仏教や古代インドのマヌ法典に光を当て、肯定的にとらえている。
これはすでに書いたことだが、イエス自身に対しても、良い印象を持っている。
いろんなものを否定する壊し屋のイメージがつきまとうニーチェではあるが、高貴に生きようとするものに対しては、否定していない。
(※11)つまり、おのおのの努力によって、高貴に生きよう、ということだろう。
カッコいいなあ。
(※1)
かつて、大昔の王国時代のイスラエルには自然の美しさがありました。イスラエルの神エホバは、権力や喜び、希望の象徴でした。人々はエホバに勝利を祈り、救いを求めました。そして自然は人々が必要とするもの、つまり雨を与えたのです。
エホバはイスラエルの神でした。だからこそ正義の神だったのです。
これは、権力を握っており、そこに良心のやましさなんかを感じない、すべての民族が持っている論理です。
神をまつるということは、民族が強くなったことや、季節の移り変わり、豊作などに対する感謝なのです。
しかし、あるときイスラエルで大きな混乱が起きました。国内が無政府状態になり、隣の国からアッシリア人が侵入してきたのです。
国内はすっかり荒れ果て、すべての希望は失われてしまいました。エホバもすっかり無能になってしまいました。
そのときにイスラエルの人々は、神を捨ててしまえばよかったのです。しかし、彼らユダヤ民族がやったことは、神をそれまでとまったく違うものに作りかえることでした。
そのせいで、神と自然は結びつかなくなってしまったのです。
エホバは、もはやイスラエルの神でしかなく、民族の神でもなく、条件つきの神になってしまいました。そして、ついに神は僧侶たちの都合のいい道具になってしまったのです。
僧侶たちは「すべての幸福は神のおかげだ」「すべての不幸は神を信じないことへの罰だ」などと言い始めました。
まず「原因」があり、それが「結果」につながるというのが自然界の法則です。彼らが言っていることは、その正反対。そしてついには、「道徳的世界秩序」などというよくわからないインチキな言葉がまかり通るようになってしまったわけです。
これが「報いと罰」というカラクリです。
彼らは自然界の法則を否定すると、今度は自分たちに都合のいい、反自然的な法則を作っていきました。
そのせいで「道徳」は民族が生きていくうえで必要なものではなくなり、また、民族が生きていくための本能でもなくなってしまった。「道徳」はやたらと難しいものになり、よりよい人生を送るためには、むしろ邪魔なものになってしまったのです。
このようにユダヤ人の道徳、キリスト教の道徳は、人間の自然なあり方をゆがめてきました。
私たちはたとえ災難にあっても偶然の不幸だと考えます。しかし、彼らはそれを「罪に対する罰だ」などと決めつけます。気持ちがいいことは「悪魔の誘惑」であって、気分が悪いのは「良心が痛むから」なのだそうです。ずいぶん勝手なものですね。
こうして、ユダヤの僧侶たちはニセモノの神や道徳をでっちあげ、本当のイスラエルの歴史を消していきました。その証拠として現在残されているのが『聖書』です。
彼らは自分たちの民族の言い伝え、歴史的事実に対して、汚い言葉をあびせかけ、宗教的なものに書き換えてしまいました。エホバに対する「罪」と「罰」、そして、エホバに対する「祈り」と「報い」という、子供だましのカラクリをでっちあげたわけです。
教会はこのようなデタラメな歴史を、数千年もの間、教え続けてきました。それなので、私たちはすっかりバカになってしまい、歴史をゆがめられていることに気づかなくなってしまったのです。
(「キリスト教は邪教です!」p61)
(※2)
かつて、完全である神は、自分の庭である全世界を自由に歩き回っていました。しかし、そのうちに退屈で仕方なくなってしまった。いくら神といっても退屈には弱い。
そこで神は人間を作りました。自分以外にも人間がいることで神はなぐさめられたのです。
しかし人間だって、また退屈します。
退屈というのはゼイタクな悩みですが、神は人間たちを気の毒に思い、今度は他の動物を作りました。
これが神の第一の失敗でした。人間は動物たちとは友達にならずに、動物を支配し、「自分たちは動物ではない」と考えたのです。
そこで今度は、神は女を作りました。たしかに人間は退屈しなくなりましたが、これは神の第二の失敗でした。
「女の本質はヘビでありイブである」とキリスト教の僧侶は言います。
要するにキリスト教では、「女が原因でいろいろな災いが起こる」とされているのです。
その結果、「したがって科学は女から生じる」となったのですね。科学は彼らにとっては災いですから。
「女」が作られたことによって、人間ははじめて「認識という木の実」を味わうことを学んだというわけです。
これは神の計算違いでした。自分の敵を作ってしまった。人間が科学的になれば、僧侶も神々もおしまいですから。
だから、キリスト教は科学を禁じたのです。科学は最初は罪であり、すべての罪を生み出すものであり、原罪であるというわけです。
『聖書』には「汝認識することなかれ」という言葉があるくらいですから。
「科学からどう身を守ればいいのか」が長い間、神の主要な問題となりました。そしてその答えは、人間を楽園から追放することでした。
ヒマがあって幸せだったら、人間は頭を使ってものを考え始める。そこで僧侶たちは、人間が考えるのをやめるように、「死」「苦労」「さまざまな悲惨なできごと」「老化」、そして「病気」をでっちあげたのです。
それらによって科学を倒そうとしたのですね。
しかしそれにもかかわらず、ものごとを考えるという力は、天にさからい、神々が落ちぶれていくのを知らせるように、高くそびえるものなのです。
人間は考えるのをやめなかった。そこで、今度は神は戦争を作りました。民族と民族を分断させ、人間がたがいに攻撃しあい、絶滅するように仕向けたのです。
だからこそ、キリスト教の僧侶は、いつも戦争を必要としてきたのです。戦争は科学の発達を妨害するからです。
しかし、ものごとを考える力はとても強かった。
戦争はくりかえされてきましたが、人間は知恵によって、神や僧侶から解放されていったのですね。
そして最後に、神をこう決意するに至ったのです。
「人間は科学的になってしまった。もう手におえない。人間をおぼれさせて殺してしまおう」と。
おわかりになりましたでしょうか。『聖書』の冒頭のお話には、キリスト教の心理が全部含まれているのです。
(前掲書p117)
(※3)
キリスト教の僧侶たちは、科学の危険性に気づいていました。科学は「原因があって結果がある」という健康的な考え方だからです。科学は幸せな世の中でのみ発展します。なぜなら、きちんとものごとを考えるためには、たくさんの時間と精神力が必要だからです。
だからこそキリスト教の僧侶たちは、科学の発展を妨害するために人間を不幸に導こうとするのです。
彼らのゆがんだ論理は「罪」というものを作り出しました。「罪と罰」「道徳的世界秩序」といった考え方が、科学を抑え込むためにでっちあげられたのです。
キリスト教の僧侶たちは、「人間は外の世界をのぞいてはならない。自分の内面をのぞくべきである」と教えました。
人間が、ものごとの本質を学び、研究し、理解することは悪いことである。人間はわからないことに対して、ただ悩むべきなのだ。しかも、いつも僧侶を必要とするように悩むべきである。医者なんていらない。必要なのは救い主なのである、というわけです。
(前掲書p121)
(※4)
僧侶は、自然が持っている価値を認めず、その神聖さを奪い取っていく。そして、その栄養を吸収して、生き延びているのです。
こういったろくでもない連中に服従しないことが「罪」になるのですからたまりません。
こうして、「神に服従すること=僧侶への服従」となってしまい、僧侶のみが人間を救うことができるという、バカバカしいお話ができあがるわけです。
僧侶のような組織を持つ社会では、「罪」というものが必ず必要になります。彼らは、「罪」と利用して力を振るうからです。
僧侶たちが「罪」を利用して暮らすためには、「罪が犯される」ことが必要です。
僧侶たちは、「神は悔い改めるものを許す」などと言っていますが、それは要するに、「自分たちに服従すれば許してやるよ」ということなのですね。
(前掲書p67)
(※5)
キリスト教では、毎日お祈りをして、自分の罪についてしゃべったり、自分を批判したりしている。それでもキリスト教では、最高の目標に達することは絶対にできない仕組みになっているのです。
フェアじゃないですよね。暗い場所でなにかコソコソやっているというのがキリスト教なのです。肉体が軽視され、ちょっとしたものでもすぐに「イヤらしい」などといってケチをつける。
(前掲書p51)
(※6)
キリスト教信者の精神構造はこうなっています。
内側に引きこもって、神経質にものごとを考えていると、不安や恐怖に襲われる。それが極端になると、現実的なものを憎み始めるようになる。そして、とらえようもないもののほうへ逃げだしていくのです。
また、きちんとした決まりごと、時間、空間、風習、制度など、現実に存在しているすべてのものに反抗し、「内なる世界」「真の世界」「永遠の世界」などに引きこもるのです。
『聖書』にもこう書いてあります。「神の国は、あなたの中にある」、と。
現実を恨むのは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果でしょうね。それで、「誰にも触ってほしくない」となってしまう。
神経質になって悩み始めると、なにかを嫌うこと、自分の敵を知ること、感情の限界を知ること、そういう大切なものを失ってしまいます。それは自分の本能が「抵抗するのに、もう耐えきれないよ」とささやいていると感じるからでしょう。
彼らは最終的に、現実世界とは別の「愛」という場所に逃げ込みます。
それは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果です。
実はこれがキリスト教のカラクリなのです。
(前掲書p73)
(※7)
イエスの教えはこうです。
自分に悪意を持っている人に対して、言葉でも、心のうちでも、決して刃向かわない。
外国人と自分の国の人を区別しない。ユダヤ人と非ユダヤ人を区別しない。
誰に対しても腹を立てない。誰をも軽蔑しない。
法廷に訴えることもなく、誰の弁護も引き受けない。
どんなことがあっても、たとえ妻が浮気をしても、離婚はしない。
イエスはこれらの教えを実行に移そうとしました。
イエスにとって、ユダヤ人が行なっていた儀式やお祈りは、意味のないものでした。そうではなく、イエスの教えを実践することによってのみ神へ導かれるのです。
こうして、イエスは「罪」「罪の許し」「信仰」「信仰による救い」といったユダヤ教の教えをすべて否定しました。
(前掲書p84)
(※8)
キリスト教は健康な人間に対する、不健康な人間の恨みを基本にしています。
美しいもの、誇りを持っているもの、気力があるもの、そういうものを見たり聞いたりすることが、彼らにとっては苦痛なのです。
私はパウロが言った貴重な言葉を思い出します。
「神は世の中の弱い者を、世の中の愚かな者を、軽く見られている者を、お選びになる」
まさに、これがキリスト教の核心なのです。これによってキリスト教は勝利しました。
(前掲書p128)
(※9)
パウロは気づいてしまったのです。
「この世」を無価値にするためには、「不死の信仰」が必要であることを。
そして「地獄」という概念を使えば、ローマを支配することができることを。
「あの世」を使って人々をおどせば、この世界をつぶすことができることを。
(前掲書p159)
(※10)
要するに、高い文化とはピラミッドのようなもので、広い地盤の上にのみ築くことができるのですね。
だから、大勢の平凡な人たちの存在が大切なのです。
手工業、商業、農業、学問、芸術といった仕事の大部分は、ほどほどの能力とほどほどの欲望によって成り立っています。それは、貴族主義とも無政府主義とも関係がないものでししょう。
人が公共の利益のために一つの歯車として働くことは、ごく自然なことです。
彼らを歯車として働かせているのは、社会ではありません。単純に「自分には何かをする能力があると感じる幸福感」がそうさせているのです。平凡は人にとっては、平凡であることが一つの幸福なのですね。
一つの能力によって専門的な仕事をするのが、人間の自然な本能です。高い文化はこういった平凡さの存在を条件としています。だから、平凡な人をバカにしてはダメなのです。
例外的な人間が平凡な人間を、思いやりをもって大切に扱うのは、単なるマナーの問題ではありません。それは一言でいえば例外的人間の義務です。
(中略)
仕事に対する意欲、働く楽しみ、仕事を成し遂げたときの満足感。それらに対し、いやらしい悪意を持って攻撃するのが、社会主義者という名の下層民です。
労働者を嫉妬させ、復讐を教えるのが彼らのやり方です。
不正は決して権利の不平等にあるのではありません。
不正は権利の「平等」を要求することにあるのです。
これまで言ってきましたように、「弱さ」「嫉妬」「復讐」から、劣悪なものは生まれます。
無政府主義者とキリスト教徒は、結局同じ穴のムジナなのですね。
(前掲書p154)
(※11)
東京大学教授・松原隆一郎
ニーチェは本書で、西洋における既存の価値体系であるキリスト教を徹底批判した。「神」や「霊魂」、「彼岸」や「罪」、そして「救い」、「最後の審判」に「復活」といった概念を「真理として信じること」を強いる人々を糾弾した。批判の矢はパウロやカソリック教会だけでなく、教会を批判したプロテスタントを興したルターにも向けられている。その矢はさらに、キリスト教会的に思考する人々、すわなち「真理」を追求して現実世界にはない「イデア」や「物自体」などの様々な概念を立てたプラトンやカントにも及んだ。だがそれゆえに20世紀以降にはニーチェ自身が何らかの価値を絶対的なものとして押し立てていることへの批判が現れた。つまり「真理を信じること」の強要への批判は、ニーチェ自身にも当てはまるとみなされたのだ。
ニーチェは1872年の『悲劇の誕生』においてアイスキュロスからソフォクレス、エウリピデスに至るアッティカ悲劇を、善悪にかかわらず存在するものすべての生を肯定する豊穣な世界として理想視した。そしてそれは、生を思考によって解明し尽くそうとするソクラテスの登場によって没落させられたと主張する。ここではソクラテスもまたキリスト教と同じく批判されているのであり、世界を体験し味わうものとしてあったギリシア的な「よく生きる」あり方が、ソクラテス以降は認識や思考を介して「正しく生きる」ことへと歪められたとみなされた。けれども、こうした主張においては、ニーチェもまた真理を託する世界を想定しているように見える。
実際、ニーチェは後に「永遠回帰」や「超人」という概念を唱えたし、ナチスに親近感を抱いた妹が編纂した『権力への意志』(1906)では遺稿の断片が民族差別を連想させるように並べられていたため、ナチスを正当化したかに見られた時期もあった。それゆえにとくに20世紀の後半においては、あくまで既存の価値を破壊する点にのみ真骨頂を有するものとしてニーチェ思想を解する傾向が現れた。
けれども本書からは、ニーチェが特定の理想世界を押しつけているようには読み取れない。仏教は「罪に対する闘い」ではなく、現実を直視して「苦しみに対する闘い」を説いているとして評価されている。古代インドの『マヌ法典』にも、人生の喜びや勝ち誇った幸福感、女性への思いやりで太陽のごとく輝いているとして好意が寄せられている。それどこかイエスもまた、「罪」や「罰」で彩られた信仰をではなく、「よく生きる」ことを実践した偉大な人物として描かれている。つまり「高貴に生きる」方法として、唯一のあり方を不寛容に説いているわけではない。ただ、概念による思考を過剰にふくらませて、現実の中でよく生きようとはしない人々を糾弾したのだ。
(イエスその人ではなく)キリスト教に峻烈な闘いを挑んだニーチェは、「高貴に生きる」生き方にかんしては、意外に寛容なのである。その「寛容さ」を、この現代語訳はうまくすくい取っているおうに思われるのである。
(前掲書p179)