日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

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すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年04月09日

キリスト教は、ウソに塗り固められた邪教である

3回目。
ニーチェについて、ふたたび。

ニーチェは、ギリシア語とラテン語をさらさらと読めた天才であった。(※1)
その天才が、ローマ教会キリスト教の偽善を見破った。
「弱者や虐げられた人こそ、神に愛される」などと大うそを世界中に広めた。
考えてみると、そんなことなど、あるわけない。
しかし、宗教を布教しようとする時、これは定番の言葉である。(※2)
そして、日本にキリスト教が日本に上陸する際、江戸幕府は邪教と見破っており、布教活動の妨害を行なった。(※3)

キリスト教は、精神病院みたいなものであり、僧侶たちは、他人の人生にたかる寄生虫である、とニーチェは断定した。(※4)
心にグサっと刺さる言葉を開発し、空想の世界を広げ、いや、妄想の世界を広げ、自然界の真実を無視し、現実逃避の物語を作った。(※5)
宗教とは、そんなものなのだろう。
そこに、心のよりどころを求めるのは自由であるが、広めるのは良くない。
しかも、それに異を唱える人たちを殺してきたのだから、ローマ教会キリスト教は、悪である。

ローマ教会は、変な平等主義をばら撒いて、個人の優劣をすべて同じにした。
神のもとでは、何でもできるのだ。
伸ばせば伸びる子も同じに扱い、育てることをしない。
ニーチェのような、洞察力のある、あるいは、本質を見抜く能力のある天才の出現を、宗教は嫌うのである。
この弊害が、現代社会の重しとなっている。
「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」を書いた副島先生は、この変な平等主義を否定し、伸びる子どもたちの芽を摘まないようにすべきだと言っている。
一方のローマ教会側では、「ニーチェはナチス・ヒトラーの思想の源流である」というデマを今でも流している。(※6)

ニーチェは、ローマ教会が説いた、忍従と我慢と謙虚さを否定した。
これにより、人間は、生きる力を失うと。(※7)
そうなのだ。
私たちは、忍従や我慢を誰に対してやらなければならないのか?
権力やそれを従える世界中の大富豪に対してか?
そう!
それがローマ教会の目的なのだ。
世界中の大富豪や権力者が、ローマ教会キリスト教を利用しているのだ。
さまざまな世界的施策を、私たちに強要する。

ニーチェは、社会主義もローマ教会キリスト教と同じだ、と切り捨てた。
根っからの労働者を、経営者へ故意に押し上げるなどというのは、無駄なことである。(※8)
私も、このことを少しわかる気がする。
もう何年も乗っている若者(20代)に、舵を握って着岸してみるよう促しても、「できません」なのだ。
スマホ世代の人で、車の運転も大好きでも、このような簡単なこともやりたがらない。
「商売をやってみたくないか?」と聞いても、「無理です」なのだ。
「給料をもらいたい。たくさんもらいたい。」とは言うが、その上には上がろうとしない。
強制的にやらせても、この場合、たぶんダメだろう。

ニーチェに糾弾されたローマ教会キリスト教は、邪教なのだから、派生してできた(だろう)統一協会など、もう完全に詐欺と同じだ。
話は脱線するが、統一協会とズブズブの関係にあり、しかも旧安倍派閥の裏金問題でもその金額が巨額であった萩生田議員は、軽い処分となった。
彼をまだ登用する自民党なら、もう見込みがない。
恥ずかしいと思わないのかね。

少し長くなるが、ここで、適菜収さんの「キリスト教は邪教です!」の翻訳について。
これは、超訳と呼ばれる訳し方である。
超訳にはいろいろな議論があって、原文に忠実に訳す翻訳業の人たちから異論が出ている。
しかし、副島先生は、日本人の理解できる範囲というのがあって、理解できるような訳しかたでないと、外国文化への理解は難しい、という観点から、優れた超訳なら、歓迎すべきである、としている。(※9)
実際に、「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」では、ドイツ語の原文、適菜訳、他の原文忠実訳などを比較し例示しているが、原文忠実訳では、意味が分からない場合が多い。(※10)
ドイツ語の原文を載せられても、私にはさっぱりわからないが、証拠として、載せているようなものである。




(※1)
 ニーチェは天才だから、ギリシア語とラテン語が、誰も近寄れないくらいにさらさらと読めた。
(「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」p153)
 ニーチェは20歳(1864年)でボン大学で学んでいるときに、フリードリヒ・リッチュル教授という人に、「天才が出現した」といって驚嘆された。
(「キリスト教は邪教です!」p132)

(※2)
ニーチェが宣言したとおり、ローマ・カトリック教会が、人間を奴隷にする思想を作ったのだ。「弱い者、虐げたられた人々、ほど神に愛されている」という巨大なウソを作って振り撒いた。そうして人類をローマ教会キリスト教の坊主(僧侶)である自分たちに額づく奴隷にした。同情、憐れみ、恩寵(神からの愛)、慈愛などの教え(教義)で、世界を支配した。まずヨーロッパの白人たちを洗脳し席巻し、そのあと植民地時代(1500年代。白人たちが支配したアジア、アフリカ、南米にもこのキリスト教という病気は広がった。ニーチェは、この偽善宗教をずっと、じっと厳しく見ていてその本性を見抜いた。だから、他人に簡単に同情(憐み)なんかするな、と断言したのだ。
(前掲書p61)

(※3)
 私は、ここに一冊の本を掲げる。この本は、『キリスト教は邪教です!現代語訳「アンチクリスト」』(講談社+α新書、2005年刊)という本である。書いたのは適菜収(1975年生)という若い評論家である。
『キリスト教は邪教です!』と書名で銘打っているからスゴいことだ。邪教とは、文字どおり、邪(よこしま)な宗教で、邪教や邪宗というコトバは「正しくない、人心を惑わす、よくない宗教」という意味だ。たしか、16、17世紀(西暦1549年から1641年までの92年間)に日本にしつこくやって来て、日本人を洗脳し乗っ取って、ローマ教皇への献げ物にしようとしたローマ教会キリスト教(とくにイエズス会)の宣教師(プリースト)である神父たちに対して、江戸幕府(徳川氏体制)が激しい恐怖感と憎しみを込めて命名したコトバだ。耶蘇教(会)はイエズス会のことで、キリスト教は天主教である。日本史学者たちは訂正しなければならない。
 この、ニーチェの『アンチクリスト』の超訳現代語訳の本は、自らの書名を「キリスト教は邪教です!」とはっきり書名で言い切っている。
(前掲書p69)

(※4)
 適菜は、ニーチェ思想の中心部分を次のように訳している。

 二千年間も続いてきた、まるで精神病院のようなキリスト教の世界・・・・私は人類が精神病院になってしまった理由を、人類のせいにしないようにと気をつけている・・・・この現代において、キリスト教を信じているのは、本当に許されないことなのです。怒りを通り越して吐き気さえもよおします。・・・・キリスト教の神学者や僧侶、法王の言葉は、すべて大ウソであるという常識は、現代に生きる皆さん(すなわち今の日本人である我々もここに含まれる―引用者、加筆)はぜひとも承知しておいてもらいたい。まあ、奴ら(キリスト教の僧侶たち)だって、「神」がいないことくらいわかっています。「罪人」「救世主」「自由意志」「道徳的世界秩序」などがデタラメだということも。・・・・僧侶(なるもの)の正体も明らかです。彼らはもっとも危ないタイプの人間であり、他人の人生にたかる寄生虫なのです。
(前掲『キリスト教は邪教です!』90〜91頁)

 このように適菜は一点の曇りもなく明確に訳している。
 ローマ教会キリスト教は精神病院だ、とはっきり、ニーチェが断言して言い切ったことを、正確無比に日本語に置き換えた。素晴らしいことだ。
(前掲書p71)

(※5)
ガラリヤ湖のほとりでバプテスマのヨハネ(ジョン・ザ・バプティスト John the Baptist)が、イエスにバプテスマ(洗礼)を施して、権威を与えたように、自分より若い人々の才能を発見し、認め、彼らを励まし応援することこそは年長者のするべきことだ。

 第一に、(キリスト教は)「神」「霊魂」「自我」「精神」「自由意志」などといった、ありもしないものに対して、本当に存在するかのような言葉を与えたこと(引用者注。大きなウソという意味)。
 第二に、「罪」「救い」「神の恵み」「罰」「罪の許し」などといった空想的な物語を作ったこと。
 第三に、「神」「精霊」「霊魂」など、ありもしないものをでっちあげたこと。
 第四に、自然科学(ナチュラル・サイエンス)をゆがめたこと。彼ら(キリスト教)の世界観はいつでも人間が中心で、自然というものを少しも理解していなかった。
 第五に、「悔い改め」「良心の呵責」「悪魔の誘惑」「最後の審判」といったお芝居の世界の話を、現実の世界に持ち込んで、心理学(サイコロジー)をゆがめたこと。
 まだまだありますが、ざっとこのようになるのではないでしょうか。
 こうした空想の世界は、夢の世界とはまた別のものです。夢の世界は現実を反映していますが、彼ら(キリスト教)の空想は、現実をねじ曲げ、価値をおとしめ、否定します。
 キリスト教の敵は「現実」です。なぜなら、彼らの思い描いている世界と現実はあまりにもかけ離れているからです。彼らは現実がつらいから逃げているにすぎません。
(前掲『キリスト教は邪教です!』36−37頁)
(前掲書p101)

(※6)
誰でもみな平等、みな平等といって、優れた人間の才能を認めようとしない。そして、この「人は皆、平等(に神に愛されます)」という悪平等の思想を作ったのも、まさしくローマ教会キリスト教である。それから、「人の命は尊い」と老人を100歳まで生かそうとするのもローマ教会が煽動した思想である。「もう死にたいよー。体が痛いよー」と苦しんでいる老人と重病者たちを死なせることができないで牢獄(煉獄、プルガトリオ)の中に置いているのもローマ教会である。彼らこそが諸悪の根源なのだ。だから、「ニーチェはナチス・ヒトラーの思想の源流である」という悪質な宣伝が今もなされている。
 ニーチェは「誰でもみな平等」という愚かな考えを嫌った人だ。「どんな人でも一所懸命努力し勉強すればできるようになる」というのはウソだ。できないのに無理矢理学校の勉強をさせるのは子どもの虐めだ。勉強が向かない子どもには、さっさと職人の職種などの労働者にさせたほうがいい。そのほうがずっとその人のためだ。
 ずば抜けて頭のいい人間は、たいして恵まれない環境であっても、自分で伸びていく。大事なことは、社会が邪魔をしないことだ。少しの肥料と栄養とチャンスを与えることだ。十分な太陽の日差し(日光)と水と栄養、それは人間を育てるのにも大事なことだ。
(前掲書p155)

(※7)
 ニーチェの2冊目の本は、『反時代的考察』(1873−1876年、29−32歳)である。ニーチェはこの本で、ヘーゲルがやったように、歴史の問題を過激な刀で切り裂いて見せた。
 世界史という、人類の血だらけ泥だらけの歴史がもつ意味は、あの威風堂々の劇作家であるシラーが見抜いたとおり、善悪のどっちであれ、人間の歴史はその偉大さの記念碑であるとする。常に決断を迫られる、人間の生のエネルギーそのものは、肯定されなければならない。生きていることのエネルギーを弱めるものは、すべて否定されるべきだ。その代表がローマ・カトリック教会である。彼ら坊主たちが、人間に忍従と我慢と謙虚さを強いてくるとき、人間の生のエネルギーは弱められる。
(前掲書p220)

(※8)
 ニーチェは、社会主義者(ソシアリスト)や、共和主義者(王政打倒主義者)、民主運動活動家(デモクラット)を嫌った。社会主義者たちが、貧困層や労働者の哀れな現状と、その待遇改善を求めて彼らを煽動するのは、間違っている、とニーチェは保守言論人として撥ねつけている。以下にその証拠の文を載せる。

 革命論における妄想。
 ―あらゆる秩序の転覆を熱烈雄弁に煽動する政治的・社会的空想家たちがいる。そのときは、ただちに美しい人間性のもっとも誇らかな神殿がおのずから聳え立つであろう、と信じて。
 こうした危険な夢想には、人間性の奇蹟的で根源的な、しかしいまや埋もれてしまった善良さを信じて、社会、国家、教育、文化の諸制度に、今では埋められてしまったあらゆる罪を負うべきルソーの迷信が、まだ余韻を残しているのである。
 遺憾なことだが、そういう革命はどれも、もっとも遠い昔のとうに葬られてしまった凄惨で無節操なものだ。人間のもつ荒々しいエネルギーを、改めて復活させるという点で、革命は、多分に疲れてしまった人類のための今も一つの力の源泉ではありえよう。が、しかし決して人間性の整頓者・建築家・芸術家・完成者のものではない。このことを、人類は歴史上の経験から知っているのである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的T』池尾健一訳、ちくま学芸文庫、463節、一部改訳)

 このようにニーチェは、反革命であり、反社会主義者だ。それは、ニーチェが自分の先生であった(31歳上)ヴァーグナーやカール・マルクス、ドストエフスキーたちが参加した、燃えるような情熱による「人間が新しくなる。人類の理想の世界が出現する。建設ができるのだ」に対して、ニーチェは、そんなものは「空想、夢想、神殿建設・・・・凄惨で無節操・・・・」であり、「人類は(この敗れ去った空想たちのことを)歴史上の経験から知っている」と書いている。ニーチェは保守思想家である。だから、日本でも一部に受けるのだろう。
 別のところでニーチェがはっきりと書いているとおり、労働者たちは、それぞれの自分の仕事(労働)をすることで、その中で仕事の達成感と社会参加(仲間たちとの交友)、で喜びを感じていればいい。「それを、使用人(労働者たち)を主人(経営者、金持ち)にしよう、というのは間違った考えだ」とニーチェは言った。
 貧しい者たちの解放を唱える社会主義者(カール・マルクスたち)の思想は、「貧困者たちこそが天国に一番近い」「貧しき者たちほど神に愛されている」としたローマ教会キリスト教の巨大な偽善とまったく同じだと、ニーチェは激しく言い切った。それは「新しい千年王国の建設運動だ」と。キリスト教(パウロの思想。ローマ教会。および新教徒系も)と、社会主義(カール・マルクスたちの思想)のどちらも、現実の世界には有りもしない、実現することはできもしない千年王国(ミレニアム・弥勒下生。メシア[救世主]の再降臨 the Second Advent)を求める、人類の理想社会の実現を求める宗教である、とニーチェは言い切った。
 そして「労働者(サラリーマン)の解放」はついになかった。今も大半の人間は奴隷のままだ。自由人のふりだけさせられている奴隷の群れだ。人類はニーチェからあとの100年間の闘い(20世紀。1900年代の100年間)で、世界各国で、理想社会を希求する血みどろの激しい革命闘争はあった。しかし、資本家(経営者)という人間たち以外に、労働者(サラリーマン)にご飯を食べさせること、給料を払うことができる人々は出現しなかった。貴族や国王(王様)たちは形上滅んだ。しかし権力者(支配者)という特異な人々は残った。20世紀の100年間で、二つの世界大戦があった。
 多くの国々での社会主義革命は、二つの世界大戦を経て、戦乱のあとの平和によって、ニーチェが言ったことのほうが正しかったことが分かった。この地上にはキリスト教による、またマルクス主義による救済(サルヴェイション)の両方はなかった。だから私たちはニーチェの思想を認めなければいけない。カール・マルクスは言ったのだ。「ヨーロッパ社会に、今よりももっと大きな巨大な生産能力が生まれて、人間がみな働かなくてもいい(すべてロボットとコンピュータがやる)社会が生まれたときに、そのときに人類は(革命的暴動を経て)社会主義の段階の社会に到達する」と言ったのである。それでもマルクスの負けだ。いくら、マルクス主義思想を、いまだに国家の看板に掲げている社会主義国があっても、それらの実態は、キレイごとでは済まない。実情は悲惨である。やはり資本主義(カピタリスムス)の法則である、すべてお金で人間は縛られる、の法則で、どこの国も動いている。そしてロボットとコンピュータができない細々とした配膳係のような下層労働ばっかりを今も人間がやっている。この哀れな現実に私たちは顔をひきつらせて嗤うしかない。
(前掲書p94)

(※9)
 超訳というコトバは30年前(1987年)に一時流行った。超訳なるものを批判、非難する主に翻訳業の人たちの声もあった。総じて私は超訳に賛成である。超訳は一時代前の「ハーレクインロマン小説」の、平易で容易な日本(語)文への移し替えをやらなければ、読み手である日本人読者に負担がかかり過ぎることから起きた問題であった。この「超訳を許すべきか、否か」は、実は今も深刻に翻訳業界、翻訳家たちの世界に存在する。正しく原著者の考え(小説であったも)を平易かつ分かり易い翻訳文にして、読者に与えてくれるのなら、それは、外国文化の移入としてあるべきことである。
 適菜収の超訳の訳文は素晴らしい。もうこれ以上の、ニーチェ理解はない、というぐらいに、ニーチェが最後の思想として行きついた涯のところの集大成である『アンチクリスト(反キリスト)』(1888年、ニーチェ44歳の、脳がすり切れる直前の正気のときの最後の作品。前述した)を、正確無比にきわめて平易な現代日本語の文にしてくれている。適菜収という人は、非凡な才人である。彼のニーチェとゲーテ作品の日本語への置き換えこそは、もっぱら輸入業者でしかない私たち知識人層を抱える日本国にとって掛け替えのないものである。私、副島隆彦はこのように断言する。適菜収は、1975年生まれで、2005年に、わずか30歳のときに、この本を出版している。彼は私(1953年生まれ)より22歳下だ。大学を出て、出版社等に勤務していたそうだ。私は敵菜収を尊敬する。この人のニーチェ理解の正しさは天を衝いている。
(前掲書p70)


(※10)
 もう一か所、示す。まず適菜訳から。

「神聖に大ウソをつく」というキリスト教の技術は、ユダヤ民族が数百年(引用者注。数千年ではない。本当にたかが数百年だ)にもわたって作りあげてきたものです。・・・・
 そういったデタラメなものに、全人類、そして最高に頭のよい人たちまでがダマされてきました。たった一人の人でなしを除いてね。つまり私(ニーチェ)をのぞいて。
 これまで『新約聖書』は純真で清らかな書物とされてきました。これは人をダマす高度なテクニックがあった証拠でしょう。・・・・
キリスト教のバカたちは「裁いてはいけない」などと言います。が、彼らは自分たちの邪魔になるものは、すべて地獄へと送り込むのです。彼ら(キリスト教の僧侶)は、「神が裁く」と言いますが、実際には彼らが裁いているのですね。・・・・
『新約聖書』は「道徳」で人をおびき寄せます。
「道徳」は、くだらないキリスト教の僧侶たちによって、差し押さえられました。彼らは「道徳」を利用して人々を支配できることを知っていたのですね。・・・・
 ほとんど妄想の世界です。・・・・
 こうして精神病院に入れられるべきユダヤ人たちは、自分たちに都合がいいように、あらゆる価値をねじ曲げていきました。
 このようなことが起きたのは、誇大妄想を持つユダヤ民族がいたからです。
 ユダヤ人とキリスト教徒は分裂しました。が、やったことはまったく同じこと。
 キリスト教徒とは、ちょっと自由になったユダヤ人にすぎないのです。

このように適菜収は見事に訳している。これ以上の素晴らしい西洋理解の日本文は有り得ない。至上の名文だ。ではその原文忠実訳は、次の通りだ。

 神聖に虚言するという技術としてのキリスト教のうちでは、全ユダヤ精神が、いく百年にもわたってユダヤ人の最も真剣に磨きあげてきた予備訓練や技術が、このうえない名人芸となっている。・・・・
 全人類が、最良の時代の最良の頭脳すらもが(おそらくは人非人とでも言うよりほかない一人をのぞいては―)欺かれてきた。
 福音書は無垢の書として読まれてきた・・・・これは、どれほどの名人芸でここでは演技が演ぜられていたかを語るなみなみならない暗示である。・・・・
 人は惑わされてはならない、「審くことなかれ!」と彼らは言うが、しかし彼らは、彼らの道に立ちはだかるすべてのものを地獄へと送りこむのである。彼らは神をして審かさせることによって、彼ら自身が審くのである。・・・・
 福音書は道徳で誘惑する書物である、とこころえて読むべし。道徳はこれらの卑小な者どもの手で差し押さえをうけているのである、・・・・彼らは、道徳で何をしでかしうるかを承知している!・・・・
 これこそ、これまで地上にあらわれた宿業きわまる誇大妄想の最もたるものであった。・・・・
 どんな種類の気狂い病院に入れても申し分ない卑小な最高級のユダヤ人どもが、あたかも「キリスト者」にしてはじめて余人全部の意味、塩、尺度であり、また最後の審判ででもあるかのごとく、おのれたちにふさわしいように価値一般をねじまげたのである。
 この全宿業が可能であったのは、これと近親な、人種的に血縁のある誇大妄想の種類、ユダヤ的誇大妄想がすでにこの世にあったということのみによる。
 ひとたびユダヤ人とユダヤ人キリスト教徒とのあいだに裂け目が開かれるやいなや、後者には、ユダヤ的本能がすすめたのと同一の自己保存の手続きをユダヤ人自信に対して適用すること以外には、なんらの選択もまったく残されていなかった。が、他方ユダヤ人は、それまでこの手続きをすべてのユダヤ的ならざるものに対してのみ適用してきたまでのことである。キリスト教とは「いっそう自由な」信条をもったユダヤ人であるにすぎない。
(『偶像の黄昏 反キリスト者』ちくま学芸文庫、原佑訳、1994年、232−235頁)

 この堅ぐるしいニーチェ原文の訳文を読むと、私たちは、頭がヘンになる。それでもこれが原文忠実訳である。いい訳文なのだ。翻訳者である原佑氏は何一つ間違った訳をしていない。正確に訳している。そして、それでこの分からなさである。これではニーチェ思想に従ってキリスト教、ローマ教会イエズス会を打ち破れない。彼らの正体に私たち日本人が行きつくことができない。私は適菜訳の中から抜粋で重要な箇所を選び出した。だから、厳しい原文忠実の訳文と照らし合わせ、適菜訳文を再度読むことで、「ああ、本当だ。ニーチェはこのようにこんんあスゴいことを書いていたのだ」と納得がゆく。
(前掲書p77)

posted by T.Sasaki at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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