ふたたび、こんにちは。
「
麻薬を使った戦争」に登場する里見甫について、ふたたび、取り上げる。
筆者の佐野眞一が、彼を“阿片王”と名づけたのは、アヘンに関する販売についてすべて里見がすべて引き受けたからだ。
その利益の管理を日本の国の機関がやっていたのは、「
麻薬を使った戦争」のとおりである。
すべてのアヘン取り引きを、彼が中国で独占できた理由は、カネを自分のふところに入れないで、ちゃんと動かし、そこに信用が生まれたことにある。
(※1)他の者たちは、里見にたかり、私利私欲に走った者ばかりだった。
(※2)その中でも、特に田中隆吉元陸軍少将は、最低の人間である。
仲間の児玉誉士夫に要らぬことをけしかけたりした。
(※3)巣鴨プリズンに収監中、あさましい連中は、残飯を争ったりさえしたという。
(※4)驚くことに、里見は和平工作もやっている。
(※5)和平工作に関することは、小倉音次郎の『長江の流れと共に―上海満鉄回想録―』にも記述があり、「満鉄若葉会会報」では、丸山進氏もこのことにふれている。
さらに、日本映画にも影響を及ぼしている。
映画監督であったマキノ雅広が、里見の様子を『映画渡世・地の巻』に描いている。
(※6)里見は、宏済善堂という里見機関で阿片を取り引きして儲けたのだから、極悪人なのだが、一言も弁解がましいことは言わなかった。
(※7)GHQの取調べでも、自分のやったことだけ正直に話し、知らないことは知らないと供述したという。
彼の性格を表すエピソードが残っている。
「
麻薬を使った戦争」にニセ札の話があるが、この使用テストは、里見がやったというのだ。
失敗しても他人にせいに絶対にしない!
信念を曲げない!
(※8)筆者の佐野眞一さんは、さかんに里見を持ち上げているが、実際に彼は、上海にいた時だろうが、阿片愛好者だったようだ。
(※9)この事実を見逃すことはできないだろう。
彼の性格から、本当は、宏済善堂という名前の通りに事業をやりたかった。
だが、彼が満州に行く前から、中国人たちは阿片を吸飲していた。
「どうにもならないか」という諦めというのは、私たちも酒で紛らしたりするのと同じように、当時の里見には、それが阿片だったのだろう。
私が筆者なら、そういう考察で締める。
中国人というのは、日本の愚考の証拠を取り壊さないで、そのまま利用する。
(※10)非常にしたたかである。
対立の火種がなくなったら、「偽満州国」へ旅行してみたくなった。
最後に
(※8)にある「人は組織をつくるが、組織は人をつくらない」という里見の言葉は、卓見である。
特に、公務員にあてはまるだろう。
公務員に就職する前の人間は、少しはマトモな人が多いと思う。
しかし、組織で要らないものに染まり、やがて無感覚になる。
定年前の公務員など、保身しか考えない人が多いのではないか。
これでは、人をつくれない。
(※1)
里見の個人財産に関しては、後に「週刊読売」(昭和30年6月5日号「生きている戦争商人―アヘンが彩る大陸秘史―」)でも取りあげられている。里見がインタビューに応じたのは、後にも先にもこれが一回だけなので個人資産以外の部分も含めて主要部分を紹介していおこう。
〈【問】戦時中上海でアヘンの密貿をやったといわれているが。
【答】確かに上海でアヘンの仕事はやっていた。が、密貿などとんでもない話で、そんなことをいう人は私を全くしらない人だろう。軍の委託をうけ、汪(精衛)政府の財源となる重要政策としてやったもので密貿なんて笑止千万のこと、正々堂々としたものだ。
【問】アヘンを取扱うようになった動機はなにか。
【答】安いものが高く売れる。アヘンはばく大な利益があるものである。そのため、どうしても不正事件が多く起こるのだ。軍部がやっても政府がやっても失敗した。自分のフトコロにいれようとする人が多かったからである。そこで民間人である私が一切の利益を離れ、これを引受けることにしたのである。日本人はごく少数、ほとんど中国人を使用するという私なりの方法をとって成功した。その総額をしっかりつかんで、その行方さえ見守っていれば、それでいいんだよ。
【問】しかしそれで随分もうけたといううわさがあるが、この点はどうか。
【答】全くのデマだ。それを防止するために私が引受けたのだよ。アヘンというものは生産高の三分の一ぐらいしか政府にわたらないのが普通といわれていたが、私の場合、その大部分の収集に成功した。蒙疆政府の財源の八割は私が扱った。また私は同じアヘン関係の会社に関係していたので、その方の利益、給料で十分であった。一人暮らしで金ばかりもったところで、どうしようもないではないか。
【問】東条元首相に、多額な贈与をしたという話もあるが。
【答】アヘンの金は興亜院が直接管理していたので私はその行方については何にもしらない。個人で贈ったことは全くない。
【問】終戦後日本に帰るとき、現金になおせば何億という宝石や金の延棒を持ち帰ったというが・・・・。
【答】中国人の間でもそんなうわさがとんだそうだ。ところが持って帰ったのはバッグ二つ。それも中身はチョコレートとキャンディだったんだ。何しろ日本には甘いものがないというのでね、みやげにもってきたんだ。もともと私はそのまま日本にいついてしまう気持ちは全くなく、二ヵ月もすれば、また中国へ帰るつもりで、夏服一枚きたっきりで帰ってきたのだ〉
(「阿片王 満州の夜と霧」p250)
(※2)
里見が阿片で稼いだ資金目当てに、小遣いをたかりにくる輩はあとをたたなかった。
里見はピアスアパートの部屋に風呂敷に包んだ札束をいくつも用意しており、それを目当てに訪ねてくる憲兵、特務機関員から大陸浪人にいたるまで、いつも気前よく呉れてやった。
昭和17(1942)年の翼賛選挙に立候補して念願の政治家となった岸信介もその一人だった。前出の伊達によれば、このとき里見は岸に200万円提供したという。
「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」
(前掲書p173)
(※3)
田中はアヘン売買について調べるなら、里見だけでなく、児玉誉士夫も調べなければならない、そうでなければアヘン売買の全容を明らかにしたことにはならない、とも言っている。
この件に関しては、児玉に長時間取材した大森実の『戦後秘史T 崩壊の歯車』(講談社・1975年8月)が一つの傍証となっている。
児玉は大森実のインタビューに答えて、次のように述べている。田中がキーナン検事とともに、児玉に東京裁判の法廷でアヘン問題の証人になるよう要請し、証人になれば、「きみはその日のうちに巣鴨から帰れる」と甘言を弄した。だが、児玉が「オレはアヘンについては何も知らん」と言ってその申し出を断わったため、田中は「せっかくきみを助けてやろうと思ったのに」と言って怒り、里見に関して表沙汰になっていない事件をばらすと脅しにかかった。
結局、アヘン問題に関しては里見ひとりが東京裁判の法廷にたつことになった。それが決まると、田中は今度は「里見に頼んで、彼が証言することになった。きみなんかもういらないよ」と昂然として児玉に言い放ったという。児玉は、「田中は脳梅(毒)だた。あいつのおかげで十人くらい絞首刑にされた」とも語っている。
自分が起訴されなければ(田中は実際に極東国際軍事裁判で起訴されなかった)、硬軟とりまぜた策を弄して“犯人”を仕立てあげる田中のこの態度は、多くの日本人から、帝国軍人にあるまじき無節操さと批判された。
(前掲書p233)
(※4)
上海で里見のアヘン取引のパートナーとなった徳岡照が死の直前に綴った前掲の「徳岡ノート」に、巣鴨プリズンに収監中の里見の様子を記したこんな走り書きが残っている。
―巣鴨における里見の態度は極めて平静だった。巣鴨で面会した際も平然として自分の行く末を覚悟していた様子。里見は自己弁明は一切せず、阿片資金を私することもなったくなかった。これがA級戦犯を免れた最大の理由だったと思う。
―A級戦犯の大部分は、位人臣をきわめた連中だったが、残飯を争って貰うようなあさましい人間ばかりだった。その点里見はきわめて小食で、そういうことはまったなかった。同房の牧野(伸顕)内大臣が人を押し退けて残飯をあさっていたことを、里見が笑いながら恬淡として語っていたことを憶えている。
「徳岡ノート」には、GHQは里見のサムライ精神に感動したというニュアンスの記述もある。たしかに里見の供述には、自己正当化や責任転嫁の色はなく、逆に、里見の人間的おおきさのようなものが伝わってくる。
(前掲書p264)
(※5)
前掲の「徳岡ノート」で最も驚かせるのは、里見が終戦に向けての和平工作に動いたいたらしい事実がうかがえることである。徳岡の文字は乱れに乱れ、文意もはっきりしないところが多い。だが、繰り返し和平工作について述べているところからみて、この話の核となった事実があったことはほぼ間違いないとみていいだろう。徳岡が述べる里見の和平工作の概要は、およそ次の通りである。
里見は終戦間際、フランス租界の瀟洒な屋敷に住む老三爺とい完全なアヘン吸飲者と頻繁に会っていた。その会見の多くには小生も同行した。老三爺は広東訛りの中国語をしゃべり、小生にはまったく理解できなかったが、里見はその点完全にマスターしていた。
老三爺と里見の会談は、連日三時間ほど行われた。議題はもっぱら重慶の対蒋介石工作だった。老三爺は太平天国の乱を鎮圧した曾国藩の末裔だった。そんな国民的英雄の血筋を引いていた人物だったkら、蒋介石も老三爺の言うことをむげにはできない様子だった。その上、老三爺は湖南の生まれだったので、同じ湖南の生まれで次第に勢力を増していた中国共産党の毛沢東とも精神的には結びついていた。 老三爺を通じて重慶側からもたらせた和平の条件は、鈴木貫太郎総理大臣を特使、米内光政海軍大臣を副使として派遣するなら、和平交渉に応じてもよい、というものだった。
これに対して里見は満鉄上海事務所所長の宮本通治に、重慶側から提案されたこの親書を託した。このとき日本側が交渉のテーブルにつくための前提条件として里見の考慮にあったのは、次のような腹案だった。
@日本側現職内閣の即時総辞職
A撫順炭鉱、南満州鉄道、大連埠頭、その他満州各地の大都市の権益譲渡を含めた満州国の消滅。
B台湾の領有問題については後刻相互に検討する。
Cこの条件がのめないときは、日本は首都を満州の長春に遷都し、徹底抗戦を辞さない。
だが、宮本通治の出発が遅れた上に、予想だにしなかったソ連軍の突然の参戦もあって、この和平工作は失敗に終わった。
(前掲書p204)
(※6)
里見とマキノの関係は、戦後、里見が住んでいた東京・成城の家をマキノが買い取るほど深い間柄だった。二人の関係は、マキノのところに突然かかってきた一本の電話からはじまった。
昭和17(1942)年、マキノが市川猿之助、原節子、高峰秀子らの豪華キャストで「阿片戦争」の製作発表をしてから間もなく、「わしは阿片の親分だ」と言ってかかってきた電話があった。聞くと、里見機関からだという。
マキノが電話で言われた通り、里見の東京での定宿になっている帝国ホテルに駆けつけると、初対面の里見は上機嫌でこう言った。
「阿片はアングロサクソンの代わりにわしがやっとるんだ」
そして、こうつづけた。
「マキノくん、20万円やるから、上海へ来い。これはわしの罪滅ぼしだ。たしかに現在の阿片はわしが握っている。しかし、儲けてはいないんだ。『阿片戦争』という映画を上海で撮れ」
里見は、アヘン戦争で大量のアヘンを海中に沈めて敵のイギリスに対抗した林則徐の名前を出し、その林則徐を主人公にした映画をつくってくれ、とも言った。
里見の申し出た20万円はマキノが固辞したため、結局、製作会社の東宝が受け取ることになった。里見が望んだ上海現地ロケも、スタッフが危険すぎると二の足を踏んだため、実現せずに終わった。
(中略)
マキノは最後に述べている。
〈東宝や松竹の映画が、そしてその後大衆の妻三郎映画が上海で上映出来るようになったのも、里見氏の金に支えられてのことであった。昭和17年(1942年)2月に日本軍がシンガポールを占領した時、東条英機総理は、里見甫から、蒋介石の金として20億円貰って、中国との戦争終結をする約束だったのを、東条英機は金だけ受け取って、総理をやめて逃げてしまったのだという話も聞いた〉
妻三郎映画とはいまでもなく、戦前のスーパースターの坂東妻三郎主演映画のことである。
(前掲書p169)
(※7)
里見は戦後、阿片について語ることはほとんどなかったが、ごく親しい関係者にはこんな主旨のことを洩らしている。
「安済善堂の安済は社会救済、善堂は慈善の意味です。目的と名称が違うといわれるかもしれませんが、批判は自由にして下さい。安済善堂の目的はもちろん阿片の販売です。その売上利益に対し、一定の課税を安済善堂が取った。その金を大本営に流したといわれますが、決済はすべて現地の陸軍部とやりました」
前述したように、阿片問題を直接管理していたのは興亜院である。里見は、そこに入った金が、大本営に献上されたり、現地派遣軍や特務機関に還流されたりしたかについては何も知らない、とも述べている。
(前掲書p190)
(※8)
昭和12(1937)年8月、第二次上海事変が勃発したとき、日本軍は敵の経済を攪乱するため、ニセ札を大量につくる謀略工作を計画した。ところが、いざニセ札が刷りあがりテストをやろうという段になると、みな怖じ気づいて引き受けようとする者もでてこない。
そこで手をあげたのが、里見だった。里見がフランス租界のハイアライ遊技場に行って試すと、一回目は無事通ったが、二度目に見破られて領事館警察に突き出され、ブタ箱に叩き込まれる羽目になった。
しかし、取り調べがはじまっても、里見は「オレ個人でやったんだよ」とシラを切り通したので、警察もやむなく里見を釈放した。
この一件で、陸軍内部での里見株は一段とあがった。その頃、第二次上海事変の戦闘は上海北方の閘北で膠着状態に陥り、日本軍は攻めあぐねていた。強攻すればいたずらに犠牲が多くなるばかりなので、ここは外交交渉で行くほかないという結論になった。
軍は考えた末に支那側に知り合いの多い里見に折衝役の白羽の矢を立ててきた。里見は伝手を求めてフランス租界で敵将とひそかに会い、折衝の結果、相応の大金を代償に支払うという条件で支那軍総退却の合意をとりつけた。
しかし、この約束に一抹の不安を感じた日本軍側は、代償金の前渡しを例のニセ札で行おうと言いはじめた。里見はこれに烈火のごとく怒り、軍首脳を怒鳴りつけた。
「何を言うか。これだけのことをのませておきながら、それに報いるのにニセ札とは何事か。そんなことで武士の一存が立つか」
里見のこの一言で信義は守られ、かねてからの打ち合わせ通り、敵は約束の日時に小銃を空に向けて発砲し、これを合図に総退却をはじめた。そして呼応した日本軍の総攻撃で、難攻の戦線もついに破れた。
(中略)
阿片という悪の華の世界にどっぷり浸かりながら、不思議なことに里見には、このときの日本軍がとろうとした組織悪のいじましさも、権力にたかることでしか生きられない児玉のような国士気どりのさもしさもない。
「人は組織をつくるが、組織は人をつくらない」
里見は晩年、秘書役の伊達によく、そう言ったという。
(前掲書p176)
(※9)
里見の遺体が荼毘に付されたとき、会葬者たちは、里見の頭骸骨が淡いピンク色に染まっていることに気がついた。しかし、それが阿片常習者の特徴だということに気づく者はほとんどいなかった。
(前掲書p428)
(※10)
里見と甘粕が接触し、交差した新京(現・長春)の旧関東軍司令部の、屋根に日本の天守閣を配したグロテスクな建物は、歴史の皮肉そのままに、いまは共産党吉林省委員会の建物となっている。
中国人民のたくましい現実感覚を物語るように、里見の案内で松本重治が泊まった大連の「ヤマトホテル」も、「国通」とロイターの通信提携契約が結ばれた旧新京の「ヤマトホテル」も、いまもそのままホテルとして使われているし、かつて東洋一の規模を誇った満鉄病院は、大連医院の本院として再利用されている。満鉄本社の壮麗な建物は、大連自然博物館となっていた。
それらの建物にいずれも「偽満州国」時代のものだということを示す表示が掲げられている。なかでも傑作なのは旧新京の人民大広場にある旧満州国国務院である。日本の国会議事堂を模してつくられたこの建物は、皇帝・溥儀がバルコニーから二万の兵を閲兵したことで知られている。
今は吉林省の医科大学の研究所に変わったその建物の一画の薄暗い展示室には、岸信介をはじめとする「偽満州国」要人の肖像写真が飾られ、鹿の角を粉末にした強精剤などと一緒にお土産品として売られていた。
このしたたかなビジネス感覚には思わず吹き出すほかなかった。こうした光景を見るにつけ、里見や甘粕が満州でやろうとしたこの善悪とは別次元に広がる索漠たる胸中に思いを馳せずにはいられなかった。
中国人民は、甘粕の謀略にも里見の宣撫にも、ほとんど心かき乱されることなく、大河の流れにも似た悠久の歴史を刻んだ。甘粕も里見も、行けども行けどもたどり着けない満州の地平線にも似た徒労感にとらわれつづけたのではないか。
しかし、里見も甘粕も賽の河原に石積みするにも等しい行為をやめることなく、時代の狂気そのままの暴走をさらに重ねていった。
(前掲書p129)
posted by T.Sasaki at 11:26|
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