みたび、こんにちは。
最近、ある人が、若くして(70過ぎ)内臓疾患で、もう船に乗れなくなった、と聞いた。
彼が、暴飲暴食したのをあまり聞いたことはないが、とにかく、働きすぎだったように思う。
最低限度の少人数で、常に船を動かしていた。
相当に体格がいいか、相当にじょうぶであるか、そうでないと、無理すれば、年をとってから体のどこかにガタが来る。
他人の人生を想像すると、自分の人生は、どうだったか、ということを、誰しも自問するだろう。
私は、今がそういう時期のように思う。
過去、40歳後半までは、頑張った。
少々天候が悪くても頑張った。
でも、今の魚類資源の減少を見ると、頑張って魚を獲ることが、いいことなのかどうか、という問題に突き当たってしまう。
大臣許可漁業のまき網やトロールだけの問題ではない。
だから、ちょっと時化予報が出れば、休むようにしている。
最近は、頑張らない。
(といいつつ、頑張る時もある。笑)
頭の回転は、年を取るとともに鈍くなり、若い人には、まず、かなわない。
しかも、私の場合、いか釣りの船頭をやり始めてから、30年近くなってしまった。
こうなると、やる気は、若い時の半分もない。
広範囲にするめいか資源があるわけでもなく、狭い範囲に船が何十隻もいて、するめいかを獲っている。
運悪く、魚群を見つけることができなければ、もちろん、獲れない。
それほど、魚探反応が多いわけではない。
するめいか漁が楽しくできたのは、あちこち調査して、それが身になった時だった。
それほど、魚探反応がたくさんあった時代である。
今や、するめいかの漁が、楽しいとは思えない。
そして、前沖の漁業が、壊滅的であり、ますます、自分のやる気をなくしている。
鮭はえ縄も、調査して魚群を探し、縄を入れる。
昨年など、そういう話ではなくなっている。
かごにしても、獲り尽くした感がある。
常に、「もう潮時かも」と思っている。
とにかく意欲がなくなった(これをモチベーションがなくなったというらしいが、あえて私は日本語を使う)。
「悪魔の用語辞典」という本を読んだ。
こんな題名で堂々と出版するのは、副島先生くらいのものである。
これは、必読に値するが、いろいろな本を読んでいないと、たぶん、理解できないかもしれない。
結局のところ、世界で起こっているのは、強欲と愛との闘いということであり、宗教全般にそれは及んでいる、ということらしい。
次に引くのはその中の一文であるが、これは考えようによっては、私にも当てはまるし、みんなにも当てはまると思う。
昔、初期の頃の井上陽水さんが、「限りない欲望」という歌を作ったが、それを思い出してしまう。
お金儲けや利益を追求する行動そのものは正しい。否定するべきではない。人間が努力して自分にできる限りの良い暮らしをしたいとして金銭欲や財産を求めることは正しい。がしかし、これがある段階になると、どうもそれは周りの人々に迷惑をかけてしまう。特定の人間たちの強欲の行動はどうしても多くの人々の幸福に危害を加え、害悪をもたらす。だから否定されなければならなくなる。
(「悪魔の用語辞典」p34)私の父親の時代、鮭はえ縄の全盛期であり、それでも、鮭を獲れない人もいた。
それほど、魚群は固まっていて、そこに縄を入れた人が大漁した。
長年、鮭を大漁した人は、それほど多くない。
上記引用文のとおり、大漁した人は、強欲だったかもしれない。
するめいかもそうだ。
たくさん資源があった頃でさえ、うまく次々と魚探反応を見つけた人は大漁したし、そうでない人は、かわいそうだった。
どうなのだろう。
大漁した人は、強欲なのか?
私の場合は、たまに、反応をゆずったりしたから、強欲ではないと思う。
近年、私は、実験的なことをやっている。
花咲から一度八戸へ戻り、レーダーを修理し、再び、北海道へ来た。
これはもう実利というより、実験である。
どうなるか知らない。
が、少なくとも、強欲ではないと思う。
いろいろやってみて、知りたいことがある。
知識を得たいという欲は、強欲とは言わないだろう。
副島先生は、その欲がすごい。
尊敬に値する。
私は、欲が深いからこの世界の全体像を知りたいのだ。枝葉のことよりも大きな全体を知りたい。そのために生きている。そして死んでゆく。あれこれのウソの知識や部分真実に騙されて終わるわけにはゆかないのだ。人類の思想史(宗教史)の全体像(全体の姿)がわからなければ、偏った部分真実すなわち、個々の宗教や思想に騙されてしまう。
(前掲書p48)人生は一度しかない。
そして、私は偶然、生き残っている。
ただ強欲だけに走るのは、もったいない、と考えるようになっている。
posted by T.Sasaki at 18:18|
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副島学問
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