日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2016年07月24日

明治維新に騙されるな!

みなさん、こんにちは。

小雨にもかかわらず、八戸館鼻岸壁朝市は大盛況。
しかし、八戸前沖のするめいかは、相変わらずの大不漁。
先週は、100個獲ったのが2回で、あとはダメでした。
金曜日には、主力の40入れの小さいいかが安くなり、がっがりしましたが、昨日は少し戻しました。

そんな中、魚類資源の敵、まき網船団が八戸にやってきています。
おそらくは、今夜から操業。
明日からの昼いかは、ますます不安です。
まき網漁業は、どの魚種を獲ってもいいんだから、「大不漁なのに、今年もまき網はするめいかを獲るのか?」でも書いたように、資源の少ないするめいかを自粛したほうがいい

いか釣りの歌といえば、「下北漁港」ですよね。
下北半島には、たくさんのいか釣り船がいて、数ならば、現在日本一かもしれません。
日本一というからには、他の地域のいか釣り船も減ったことも、その要因の一つになります。
昔々、私が小さい頃、岩手にも何百隻ものいか釣り船があったと聞きます。

NHK大河ドラマで放送された「八重の桜」の主役であった会津の人々は、その下北半島へと流されました。
斗南藩を作らされ、そこで生き延びました。
私は、原田伊織さんの書いた「明治維新のという過ち」を読み、長州藩出身のならず者たちに対する反感を、再認識しました(「中央政府 vs. 東北辺境」も参照)。
下北の船を見かけると、きっと会津出身の血も混じっているのだろうなあ、と思ってしまいます。

それでは、この本でメッタ斬りにされている人物を紹介します。
まずは、坂本龍馬。
彼は、お隣中国をアヘンだらけにした勢力の手先。
ぜんぜんヒーローではない。
彼を信奉する武田鉄矢さんは、少し考えたほうがいい。
また、元大阪府知事の橋下徹氏は、船中八策を口にしていましたが、そんなものは幻かも?
引用します。

 『船中八策』になると、これはもう、いつ、どこで発案したものか、全く分からない。そもそも伝わるような形の原案がそのまま存在したのかどうかさえ疑わしい。
(「明治維新という過ち」p14)


そして、よく持ち上げられるのが、吉田松陰。
しかし、彼は、単なる過激なならず者。
再び引用。

 「勤皇志士」などという。
 勿論、長州テロリストの“自称”であり、学校教育などを通じて今日までにそれが定着したに過ぎない。史実というものを尊重するならば、勤皇志士=長州テロリストと直訳していただくと間違いはない。
(中略。凄惨な記述の連続)
 仲間内でハクをつけるための無差別殺人というのは、まるでヤクザの世界の話のようであるが、長州テロリストが行った多くの暗殺は、その残虐さにおいて後世のヤクザの比ではない。ハクをつけるためという許し難い暗殺には、実は伊藤博文も手を染めているという説すら存在する。
 彼らは、これらの行為を『天誅』と称した。天の裁きだというのである。これは、もともと「水戸学」の思想に由来する。そして、自分たちが天に代わってそれを行うのだという。もはや狂気と断じるしかない。刃物をもった何とやらほど危険な存在はない。桂小五郎も吉田松陰も高杉晋作も、土佐藩の武市半平太、熊本藩の宮部てい蔵(←辞書に漢字がない)も、水戸藩の金子勇次郎も、皆こういうテロ集団の主導メンバーである。中でも吉田松陰は、その煽動者であり、その義弟となる久坂玄瑞は、超過激テロリストとしか表現の仕様がない存在であった。
(前掲書p76)


この文章の中に、水戸学が出てきますが、これには水戸黄門こと水戸光圀が関わっていて、本の中では、水戸光圀もメッタ斬り。
「諸悪の根源」という表現すら使われています。
そして、過激テロリスト、吉田松陰の考えが、日本を第二次世界大戦へと導いたのではないか、とさえ、筆者は書いています。

 例えば、松蔭の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。これを実行するのが、彼のいう「大和魂」なのである。一体、松蔭はどういう国学を、どういう兵学を勉強したのか。恐ろしいことは、長州・薩摩の世になったその後の日本が、長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松蔭の主張をした通り朝鮮半島から満州を侵略し、カムチャッカから南方に至る広大なエリアに軍事進出して国家を滅ぼしたという、紛れもない事実を私たち日本人が体験したことである。
(前掲書p124)

長州テロリストたちは、天皇にも刃を向け、「イスラム国」に引けをとらない文化財の破壊もやりました。

 「禁門」とは「禁裏の御門」の略称であり、これは御所の一部である。このあたりでの戦闘がもっとも激しかったので、長州過激派のこの侵攻を『禁門の変』とも呼ぶが、この戦闘中に長州勢は御所内部に攻め入り、御所に発泡、砲撃も行った。我が国の歴史上、御所が本格的に攻撃された唯一の事例である。
(前掲書p111)


 誰もが学校の歴史の時間に習ったはずの、この「廃仏毀釈」とは、俗にいう「明治維新」の動乱の中で、明治元年に長州・薩摩を中心とする新政権の打ち出した思想政策によって惹き起こされた仏教施設への無差別な、また無分別な攻撃、破壊活動のことを指す。これによって、日本全国で奈良朝依頼の夥しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗を強制されたりした。ひと言でいえば、長州・薩摩という新権力による千年以上の永きにわたって創り上げられた固有の伝統文化の破壊活動である。現代のイスラム原理主義勢力・タリバーンや「イスラム国」を思えば分かり易いであろう。
(前掲書p20)


最悪は、世良修蔵という人間で、奥羽各藩が長州・薩摩軍という仮の政府軍に協力し、会津に攻めようか、和平しようか、躊躇している時、世良修蔵という長州のならず者が、仙台藩で暴れまわった。
それにキレた仙台藩士が世良を斬り、この時に、奥羽越列藩同盟が成立し、戊辰東北戦争が起きてしまった。
新潟から東北にかけて、政府軍と戦う破目になってしまったのです。

 「奥羽三関」という。勿来の関、念珠ヶ関、そして、白河の関のことであることは、中学の歴史の時間に教わった通りである。これらが設けられたのは、乱暴ないい方をするが、平安時代のことである。当時、東北の人々が蝦夷と呼ばれて、南方人から蔑視、敵視されていたことも周知の通りである。即ち、奥羽三関は、北に住む蝦夷の南下を食い止めるために設けられたものである。しかし、奥羽三関がその目的に照らして役割を果たしたことは、歴史上一度もなかった。正しくは、蝦夷と呼ばれた人びとが南へ攻め込んできたことはただの一度もなかったのである。奥羽三関が存在したから南下しなかったのではないことは、いうまでもない。
 歴史上の事実は、真逆である。攻め込むのは、常に南方人であった。世界遺産に登録された平泉を攻め、藤原氏の華麗な文化を滅亡させたのは源頼朝であった。豊臣秀吉は、小田原攻めの後、『奥州仕置き』と称して軍事力を以って奥州を己の勢力下に置き、これによって天下を掌中に収めるという野望ともいえる事業を完成させた。もっとも新しい南方人による東北侵略が、戊辰東北戦争である。
(前掲書p200)


今回の参議院選挙では、長州出身で日本の親分、安倍総理の自民党に、東北が反乱を起こしました。
たった一人しか自民党が議席をとらなかった。
きっとこの本をみんなが読んだのでしょう(笑)。
そんなわけで、福島原発をはじめ、東北地区は、今でも長州にいじめられている(と筆者は過激に書いているんですよ。この辺は、行き過ぎかもね)。

それにしても、長州のならず者のやることときたら、凄い!
同じ日本人とはいえない内容。
ちょっと長いですが、これを引いて終わりにします。

 明治元年(1868年)9月22日、鶴ヶ城開城。城下には戦死体が放置されていたが、西軍はこの埋葬を禁止した。これによって、死体が鳥獣に食い荒らされあり、風雨によって悲惨な状態となった。みかねたある庄屋がこれを埋葬したが、彼は明治政府民政局に捕縛され、投獄されている。この時、次は首を刎ねると脅されて釈放されたが、会津・飯森山にはこの庄屋の行為を顕彰する碑が残されている。多くの請願書が寄せられ、民政局が死体埋葬の許可を出したのは何と半年後のことであった。強く指摘しておくが、死体の埋葬を禁止したのは「民政局」である。
 また、終戦直後、西軍の兵は戦死した藩士の衣服を剥ぎ取り、男根を切り取ってそれを死体の口に咥えさせて興じたという。更には、少年たちの睾丸を抜くということもやった。何という暴虐か。これを行った西軍兵は、確実に武士階級ではなかったはずだ。心までもが下賤な人非人、外道というべきであろう。しかし、彼らは日本の近代を切り開いたとされている「官軍」の兵なのだ。
 死体の処理がまたむごい。大きな穴を掘って、筵や風呂桶に死体をぎゅうぎゅう詰めにし、まるでごみのように穴に投げ入れたという。これを、徴用した「賤民」(約七百名強)にやらせた。そして、この穴を「罪人塚」と呼び、あくまで埋葬とは区別したのである。更にむごいことに、この処理に敗れた会津藩士約二十名を立ち会わせたのである。
 「会津に処女なし」という言葉がある。会津の女性は、ことごとく長州奇兵隊を中心とした西軍のならず者に強姦されたということをいっている。
 前出の、会津戦争史を多面的に検証されている会津歴史研究会の井上昌威氏が『会津人群像二十六号』に「会津にある小梅塚」と題する一文を寄せておられる。氏は、膨大な文献を調査するだけでなく、会津各地に伝わる伝承、遺跡なども地道に調査し、会津戦争の実態を立体的に整理されている点で、その成果は高く評価されるべきものである。
 会津領内の女性が如何に残酷な被害を受けたかについては、この井上氏の検証結果を参考にさせていただく
 山縣有朋が連れ込んできた奇兵隊や人足たちのならず者集団は、山縣が新発田へ去っていたこともあって全く統制がとれておらず、余計にやりたい放題を繰り返す無秩序集団となっていた。女と金品を求めて村々を荒らし回ったのである。彼らは、徒党を組んで「山狩り」と称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。集団で女性を強姦、つまり輪姦して、時にはなぶり殺す。家族のみている前で娘を輪姦するということも平然と行い、家族が抵抗すると撃ち殺す。中には、八歳、十歳の女の子が陵辱されたという例が存在するという。高齢の女性も犠牲となり、事が済むと裸にして池に投げ捨てられたこともあった。要するに、奇兵隊の連中にとっては女性なら誰でも、何歳でもよかったのである。
 坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ娘・子供のほとんどが妊娠していた。医者は可能な限り堕胎をしたが、それよって死亡した娘もいたという。月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かも分からない。村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。村人は、これを「小梅塚」とか「子塚」と呼んだ。乳が張ってきた娘や子供は、自分の「小梅塚」に乳を絞り与えて涙を流していたという。井上氏は、実際にこの被害に遭った八歳の女児の末裔の方にお会いして直接話を聞くなど、各地を回って伝承や記録を精査されて、奇兵隊の蛮行の一部を明らかにされたのである。
(前掲書p263)
posted by T.Sasaki at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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