みなさん、こんばんは。
先日、「
私の夢」で、「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」という本から引用しましたが、これは、「進化論の現在 DARWINISM TODAY」シリーズの中の1冊であり、全部で7冊、新潮社から出版されました。
しかし、これらはすでに絶版になっています。
生物は体のかたちを自分で決める(SHAPING LIFE)
シンデレラがいじめられるほんとうの理由(THE TRUTH ABOUT CINDERELLA)
農業は人類の原罪である(NEANDERTHALS,BANDITS AND FARMERS)
女より男の給料が高いわけ(DIVIDED LABOURS)
現実的な左翼に進化する(A DARWINIAN LEFT)
女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密(WARRIOR LOVERS)
寿命を決める社会のオキテ(MIND THE GAP)
このうち、
「農業は人類の原罪である」は、すでに紹介しています。
「シンデレラ〜」「農業は〜」と「女より男の〜」は、比較的読みやすく、他は慣れていないと非常に読みにくい。
「女より男の給料が高いわけ」は、フェミニストが読めば、卒倒しかねない代物で、卒倒しなくても、顔が引きつるでしょう。
これは、あとで紹介します。
「女だけが楽しむポルノの秘密」は、題名だけで男は興味深々、という感じですが、中身は、女と男の配偶心理に関すること。
男は、やればそれで済み、やる数が命。
しかし、女は、出産そのものが命がけだから、男と違い、結婚後、出産後のサクセスストーリーを求める。
という話です。
この「進化論の現在 DARWINISM TODAY」シリーズを翻訳した竹内久美子さんは、英語を得意としているわけでもないようで、巻末の解説で次のようにお詫びしています。
私はただでさえ英語は苦手である。もちろん何人もの方(それも英語のつわものとでも言うべき方々)に、お知恵を拝借した。それでも、残念ながらこの本から不明瞭な点を払拭することはできなかった。読み進めるうちに、わかりにくい箇所があったかもしれないが、こういう事情があるのだ。ご勘弁願いたい。
(「寿命を決める社会のオキテ」p118)実は、「生物と無生物のあいだ」を書いた福岡伸一さんが、同書で、彼女の「そんなバカな!」の“直訳”をやんわりと批判しています(p123)。
だから、英語のできる人は、原版を読むほうがもっとおもしろいかも。
さらに、「そんなバカな!」は、彼女のオリジナル著作だけれども、あまり評判がよくない。
amazonで検索していると、カスタマーレビューで、「誤解が多すぎる」「ドーキンスにタダ乗りしたトンデモ本」などなど。
しかし、「誤解が多すぎる」と感じるのは、読解力のなさを露呈しているようなものだと、私は思います。
ちゃんと読めば、進化論の考え方を、面白く紹介しているのだなあ、と。
そういう考えで読まないと、「ドーキンスにタダ乗りしたトンデモ本」というひがみっぽいレビューも登場するのです。
そして、伊藤嘉昭さん(おそらくは第一線の研究者なのだろう)は、教科書みたいな本「新版 動物の社会」で、何と、第9章のセクション2で、わざわざ「竹内久美子による社会生物学の人間社会への悪用」と題して、批判している。
読んでみると、「ん〜、もうちょっと大人になったら〜」と思わずにいられません。
同書で、「男と女の進化論」も批判の俎上にあげていますが、皮肉にも、「男と女の進化論」の巻末で、林望(はやしのぞむ)さんという方が、「実証と解釈―解説に代えて」と題し、次のように書いています。
ちょっと長くなりますが、御免ください。
世の中に、学問ということのわかっていない人が多いことは、これは仕方のない事実かも知れないけれど、なかでも、いちばん分かっていないところは、学問というものが、なにか「真実」を解きあかす魔法の鍵であるかのような幻想を抱いている人が(学者の中にさえ)多いことである。
絶対の真実、なんてそんなものは、この矛盾に満ちた現実の世界に在るはずはないのである。
(中略)
一つの社会に共通する行動の様式を、よく観察分析して、いくつかの要素に分け、それをつかさどる原理を推量して、「もしかして、これはこういう訳ではないかしら」と一つの「仮説」を作る。それを、社会学的に構築する場合もあるだろうし、医学的衛生学的に考えることも可能だろう。または、そのよって来たる歴史に思いを致す人もあるやもしれぬし、民族宗教的な意味付けをしたいというむきもあるに相違ない。つまり同じ現象を前にして、そこに想定される仮説は決して一つだけではないのである。
ともあれ、これを、まず実証のための目標と定めるのであって、こういうのを「作業仮説」という。
かくして、仮説ができたら、次の手順は、その仮説がどんな場合も正しいのかどうか、ということの「確かめ」をしなければならない。
これを「検証」といい、この仮説通りに事実が説明できたとき、それを「実証」というのである(ということは、同じ現象を前にして「実証」されることがらもまた一つではないということである)。
(中略)
この実証ということを注意深く眺めてみると、そもそも、無数に存在し、しかも連続的に変異する現実の事象についての「一つの解釈」が「仮説」なのであり、その仮説で現実を説明するのが「検証」なのであり、その例外をどう考えるかということもまた、明確に「解釈」なのだと断定してよろしい。
以上のごとく、結局、現実に対する、「観察」と「解釈」の総合として、「実証」があるということになるのである。それは「絶対の真実」の発見ということではない。
(中略)
学問的に正しい、ということはつまり叙上の手続きを経て「実証」され得たということの謂いであるが、それはどこまで行っても「解釈」であることを免れないのだから、あとはすべて、いかにたくさんの周到な実例を用意して、わかりやすい言葉で人を説得するか、ということにかかっている(むずかしげな分かりにくい言葉で言うのが学問的だと思っている人が少なくないのだが、それは一種の小児病的態度であると言ってよい)。極端な話、読んだ人が「ははぁ、なるほどなぁ」「ウーム、そのとおりだなぁ」と思ってしまえば、それは立派に「実証された」ということになるのである。おわかりだろうか。
私は、遺伝子の学問をよく承知していない。しかし、自分の子どもをつぶさに観察しながら、あたかも一人一人の子どもたちが、すべて私と妻との遺伝子をモザイクのように組み合わせて持っていることを実感する。そして、そのモザイクはまた、私と妻のそれぞれの両親の遺伝子のモザイクである。そしてさらに、その私たちの両親のモザイクは、そのまた両親たちの遺伝子のモザイクである。・・・・という風に思いを先祖に致す時に、私は、自分の存在というものが、とりも直さず先祖の意志の遺伝であることを思わずにはいられない。こうして、私には一見個人的素質や努力の総和のように見える現実のさまざまは、もしかしてすべてが先祖からの遺伝ではなかろうかというように見えてくるのである。
それを、私は「御先祖主義」という原始民族宗教的なタームズにおいて解釈する。
しかしそれは、竹内さんのような動物行動学者からすれば、「利己的な遺伝子」の意志であると、このように解釈されるであろう。
つまりどちらでもよろしいのである。
私自身、竹内さんの著書を何冊か読んで、たぐいまれな面白い本であると思った。いくらなんでもそれは穿ちすぎじゃないかと思うことも絶無ではないけれど、そんなことはすこしも問題ではない。なにしろ、これは複雑怪奇なる現実に対する、動物行動学的な「一つの解釈」である限りにおいてすでに十分実証的なのであり、その論述に「こりゃぁ、面白い。目から鱗だ」と思わされてしまったからには、それが学問的真実だと言って一向にさしつかえないのである。
それを、くだくだと詰まらぬ反証を上げて、大人げなく批判したりするのは、実のところ間違っている。
(「男と女の進化論」p217〜p225)
これって、もしかして、伊藤嘉昭さんへ向けた言葉?と思ったら、出版順序が逆でした(笑)。
林望さんに同感で、私に言わせれば、「彼女の著作は、ダーウィンの進化論とは何か、ということを面白く説明している。ダーウィニズムを日本の一般読者層に広めたのは、彼女の功績である」となります(実のところ、「新版 動物の社会」は、ぜんぜん面白くなく、一般読者向けではない。これではダーウィニズムは広がらない)。
感想に個人差があると思いますが、まあ、読んでみてもいいんじゃないですか(決して「読め」ではありませんからね。責任逃れ。笑)