みなさん、今度こそ、こんばんは。
熊本県を中心とした大地震には、びっくりしました。
日本の国というのは、災害列島である、という現実を受け入れて生活していかなければならない、ということを改めて実感させられました。
最近、私は、災害で失った本、それも竹内久美子さんの訳書シリーズを読んでいます。
この一部を、本好きの人に貸してあったのですが、「返してほしい」と頼んでも、一向にその兆しがないので、amazonの中古本を仕入れました。
よって、もし、貸した人がこれを読んでいたならば、返さなくてもよし。
もう相手にしなくてもよし(たぶん、相手はそうであると、私は解釈するしかない)。
その訳書シリーズの中に、「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」というのがあります。
これがまた、読む人によっては、感情的になってしまうと、まず読めない代物。
私みたいなクール?な人間なら、まず大丈夫。
中身は、継母が継子をいじめる可能性は少なくなく、これはしかたがないのである、というもの。
著者は、マーティンン・デイリー、マーゴ・ウィルソン。
この論文にさかのぼって、ロバート・トリヴァースという人が、「親の投資」という言葉を定義しています。
これについて、ちょっと引きます。
彼は1972年に発表された、後に非常に影響力を持つことになった論文のなかで、「親の投資」というものを定義しているが、それは子どもの将来の適応度(適応度とは簡単に言えば、生存と繁殖の可能性)を増加させるためにする親がする努力や与える資源のすべて、である。
(「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」p31)著者は、この定義を使い、次のように書いています。
そもそも親は、既にいる子どもの間で、あるいは今いる子どもと将来に生まれるであろう子どもとの間で、自分たちの投資をどう配分するのがベストであるかという問題に直面している。トリヴァースが示したこの問題の答えは、それぞれの子どもの立場からの配分と親の立場からのそれとでは、一貫してずれがあるということである。このような理論的発展は研究者を大いに刺激し、親の投資とその配分を測ろうとする研究が行われるようになった。そして当然導き出された考えは、子どもが本当にその親の子どもかどうかを示す手掛かりによって、つまりその本当らしさの程度に応じ、親が差をつけて投資を分配するだろうというものである。もし、投資の受け手が自分の子どもではないことを示す、何か進化的に信頼できる手掛かりがあれば、親の心理としては皆に等しく投資するのをやめる方向に進化してきたはずだ。実際、両親が子育てをする動物で、子どもがまだ一人前になる前に片親が死んだりいなくなったりして後から継親がくるとする。すると、そういう現象がはっきり起こるのである。
(前掲書p32)
人間以外の動物では、子殺しというのは、よくあることです。
と書くと、びっくりする人がいるかな。
でも、こんなもの、ダーウィンを知っている人なら、ほぼ常識です(これに関しては、「ハヌマンラングール」で検索すれば、他の動物に関しても出てくるはず)。
ナチュラル・セレクション(自然選択、自然淘汰)の世界は厳しい。
しかし、ナチュラル・セレクションがあったからこそ、人間も進化し、生き残ってきた。
人間の場合も子殺しが多く、読みたくない人がいるとは思いますが、実の親子の場合よりも、継親と継子の関係では、前者の数倍から数十倍多くなっています。
死に至らしめる子どもの年齢も、後者のほうが若く、しかもその方法もひどいやり方であり、嫌悪感が感じられるといいます。
これからもわかるとおり、実子と継子の両方に、同じ感情で接する、というのは、データ的に無理がある。
と書いてしまうと、みなさんから、反感を買うでしょう。
実際、この著者両名は、世界中から攻撃されているらしい。
ここでちょっと休憩し、本の巻末にある竹内久美子流の噛み砕いた文章を紹介します。
彼女は、要約を書く天才です。
慎重に論を進め、誤解を最小限に押さえようとしているデイリー&ウィルソンには悪いが、本書の内容をかなり端折って紹介すると、何しろ、
継子に対して、実の子と同じように愛情を注げと言われても無理である。実の親が実の子を虐待する傾向よりも、継親が継子を虐待する傾向の方が高いのも当然である。しかしそれでもたいていの場合、継親は継子を虐待するまでには至らない。それは人間の場合にはそうしてみても意味がないからである。世間の評判というものがあったりするからである。そして継父の場合には、何より妻が「私の子にそんなひどいことをするなんて・・・。あんたの子なんか絶対、産んでやらないからね!」と機嫌を損ねるのを恐れるからである・・・。
「恐ろしい考え・・・。よくまあそこまで人間を悪く捉えられるものだわね。そうだ、あなた方の心には悪魔がすみついているのよ!」
あるいは、
「私は継子も育てているけど、一度だって実の子と愛情のかけ方を差別したことなんてありません!他の継子のいる家庭を見たって皆さんおんなじです!」
といったところか。
念のために言うと、デイリー&ウィルソンの主張する、継子には実の子ほどには愛情をかけられないというのは、あくまでもそういう傾向があるということ。絶対にそうだという意味ではないのである。
(前掲書p104)
学問で積み重ねたデータから読み取れる結論を、「人間的でない」と一蹴し、否定してしまうことほど不幸なことはありません。
「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」のp86から、「我々にできることは何か?」という章が書かれてあり、現実にある継親継子間の虐待を認めない場合、その継子たちを保護することすらできなくなる、と危惧しています。
また、虐待をする前段階の親の悩みに関しても、次のように記述しています。
もし継親が悩んでいるアンヴァレントな感情や苦しみというものが、実は誰にでも現れるものなのだとわかったら、もし自分の連れ子を新しい配偶者が世話することを義務とはせずに相手に感謝の気持ちを持つようにした方がよいとアドヴァイスされたらなら、その方がよほど気持ちが救われるのではないだろうか。実際に成果を挙げている家族関係のセラピストはこういう現実を直感的に理解しているのだ。原則に則った理解だけがうまくいくのである。
(前掲書p92)なぜ、こんなことを、私が書こうとするのか!
あ〜、自分には、そんなことなど、縁のかけらもない。
いや、ところがそうではない。
誰もが、ナチュラル・セレクションの対象なのだ!
私のやっている、漁業に関する記述は、非常に気前が良すぎる、と思いませんか。
しかし、何のことはない、自分に「親の投資」をするだけの子どもがいないから(この投稿で、上述の必要とするところは、「親の投資」の引用だけ。でも、本の結論まで書かないと、著者の名誉にかかわってしまうし、みなさんもきっと知りたい)。
以前、つまり、津波前にこの本を読んだ時は、それほどの自覚はなかった。
しかし、時間が経った今、それを自覚してしまった。
もし、自分がまともな「人間」であって、すなわち、ちゃんと細君がいて子どもがいたら、こんなことは書いていないのではないか、と思っています。
でも、どうかな?
というのも、漁業で成功する本質というのは(たぶん、漁業だけではないと思う)、誰よりも自分の頭脳や体力を使う努力をすること、だと思うから。
自分の子どもにそういう資質があるかどうかは、別問題。
ここ「漁師のつぶやき」で、漁に関することを書いたからといって、それを鵜呑みにして成功できるわけがない。
私が漁という事業をするのに、最適ではないかなあ、と意見をするのは、ほんの信頼できる人間だけであり、その数は、日本全国合わせても、両手に足りない。
その程度。
ここには、そんな有益なことは書いていません(とはっきり書いておきます)。
戻って、ナチュラル・セレクションの話。
私が、そういうふうに教える、または、相談する相手を選んでいるのには、理由があります。
そう、ナチュラル・セレクション。
自然淘汰、自然選択というのは、個体が生き残るために獲得した遺伝的形質。
誰にでも、生き残るすべを教えるほど、世の中は甘くない。
男にしろ、女にしろ、人口が増えれば増えるほど、自分の生き残りに知恵を絞る(正しくは、自分の生き残りというよりは、自分の子孫の生き残りか)。
現在、岩手沖の漁業環境は非常に厳しい、というのは、岩手県水産技術センターがいちいち指摘するまでもない状況です。
そんな中で、私が知らない人間に対し、仲良くもない人間に対し、全部、教える?
そんなことは、決してない。
鮭にしろ、いか釣りにしろ、本当のところは、教えるはずがない。
もちろん、上には上がいて、私よりたくさん獲る船はいる。
その人たちは、もっと厳しい。
誰もが、確実なものは教えない。
ヒントは教えても。
教えれば、それは、ナチュラル・セレクションに反すること。
そういうわけで、ナチュラル・セレクションに関する本を読んで、自分のやっていることを自覚した次第です。
私は、話をしてみて、素直な人間であると思わない限り、打ち解けて話をするつもりはない。
岩手県沿岸漁業漁船組合の各部会会合に出席し、地区の都合による戦略的な話に付き合わせられて以来、素直な自分の人間性から、他人に疑いを持ち始めている。
だから、基本的に、自分にだけ有利になるような戦略的な話をする人間に対しては、特に、信用しない。
相手を陥れようとする魂胆を、相手に見せつけることで、相手の性格そのものを変えてしまう。
極端になれば、そういう事例ができあがってしまうことを、ここを読んでいる人は、自覚してほしい。
というわけで、信頼できる仲間と情報交換することは、特に、私以外の後継者がある船主さんたちには、大きな利益となり、ひいては、自分の子どもたちに、親のあらゆる資源を残すことができるのです。
だから、信頼できる仲間を大切にすることは、ナチュラル・セレクション、すなわち、淘汰の波をかいくぐる手段なのです。
今回のブログの題名は、「私が漁業に関する技術を公開する理由」だったのですが、中身は、「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」の読書感想文みたいになってしまった。
ところが、・・・。
ところが、途中で、その題名は、「私の夢」になった。
以前、漁運丸は、9.7トン型漁船2隻でやっていたのは、まあ、ずっと読んでいた人、あるいは、岩手の小型漁船に詳しい方は知っていると思います。
これは、モロに血縁関係に依存するもので、それこそ、ナチュラル・セレクションの産物。
私はこれを、再びやるのが、夢。
「もう1隻9.7トン型か、それよりも小さい船をやって、若いやる気のある人にいか釣りのやり方を教え、相手が自分より水揚げが少なかったら、私が威張る、という構図を描いてみたい。オレは、性格悪いから」と、仲間には言いふらしている。
これが、私の夢。
何となく、個体淘汰、特に、自分の遺伝子を一番、とする、ナチュラル・セレクションに反するように感じられるかもしれません。
しかし、私なりの解釈は、こういうこと。
ナチュラル・セレクションに耐えられる遺伝子、というのは、そういうもの(血縁関係による個体)だけではない、のではないか。
やっぱり、才能のある遺伝子が、生き残るのではないか。
だから、自分のもつ遺伝子は、大していいものではないらしいから(これには、異性の判断が重要であり、その判断に自分は適わなかったということ)、あとは、自分以外の遺伝子に、漁業をやっていく才能を託すしかない。
ということで、ナチュラル・セレクションをもとに厳しく指摘している「シンデレラがいじめられるほんとうの理由」を酒のつまみして、今のところ、経済的にもできそうにない「私の夢」を書いてしまいました。
ちょっと、考えすぎかな。