みなさん、再び、こんばんは。
「
心に青雲」主宰者さんが、「学問」に触れられていたので、せっかくですから、これ、やります。
「学問」という単語、わかっているようで、わかっていないような、知られているようで、知られていないような、そんな感じの言葉です。
試しに、「
goo辞書」の「
国語辞書」で、「学問」を調べてみると、「一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語」とあります。
イマイチ、パッとした説明ではないですね。
じゃあ、英語では何て言うんでしょう?
「
goo辞書」の「
和英辞書」で、「学問」を調べてみたら、「learning; study」とあります。
ありゃりゃ、学習?勉強?
これは、あんまりだなあ。
「学問」について、副島先生が、何も書いていないはずがありませんよね。
ちゃんと書いています。
何と、「
学問道場」の「
今日のぼやき」001に、つまり、一番最初に、「神学(セオロジー)と学問(サイエンス)の 大きな闘い 2000/02/11」というのを書いています。
要約すれば、「学問」は、「science」であると。
「science」といえば、「科学」。
しかし、副島先生のまな板に載せられると、粉々に切り刻まれて、何も残りません。
日本語訳に欠陥があるのだと。
「科学」という言葉は、「
今日のぼやき」001によると、1930年代ぐらいから、流行りだしたらしい。
そして、この「科学」という言葉は何なのだ!、と怒っているのです。
怒りを引用。
それでは、いったい、この、「科学(かがく)」なる言葉の、「科」の「学」というのは、なにを意味するのか。誰か、答えてみろ。「科」の「学」というのは、なんなのだ?
「だから、それは、サイエンスの、日本語の訳語なんだから、それで、いいではないか」では、すまない! 馬鹿どもが! なーにが、「自然科学」で、「社会科学」もあります!だ。
(「今日のぼやき」001)
なるほど、「科」の「学」とは、何を意味するのでしょう。
「科」を「学ぶ」のかな?
一方、「学問」は、学び問う、学んでは問い、それからまた、学ぶ、そして、問う、の繰り返し。
これにより、いろんな法則や真実を発見するわけだ。
「問う」ことなしに、「学ぶ」だけだったら、うん、真実を発見できるかどうかは、確かにあやしいなあ。
だから、副島先生によると、「science」=「学問」≒「科学」であると。
興味深いのは、「science」という文字。
自然(nature,ネイチャー)の、natu(ナツ)と、本質(essence,エッセンス)のess(エス)と、サイエンス(science,スシアンス、「知るということ」すなわち、学問)のsci(スシ)の、この、3つともが、実は、すべて、『 神(god)から流れ出たもの』と言う意味なのである。これを、流出論という。私は、このことを、14世紀のイスラム神学を、調べていて分かった 。
(前掲)
本当かどうかは別として、神がすべての創造主なのだから、「science」も神が創ったもの一つ。
だから、神学の側から見れば、神から流出したものになります。
ここで、再び、引用。
サイエンス(近代学問) と、対決して、サイエンスと、大きく並び立つ人類の知恵の大柱がある。、それは、 神学(theology,テオロジー) である。日本人には、世界基準での「神」が、分からない。じつは、私も分からない。だから、神学と言われても、何の事だか分からない。 それでも、この神学なるものが、中世ヨーロッパ以来の、この500年間の人類の知恵の、巨大な構造物である。
(前掲)
つまり、神学と「science」は、全くの別物。
そして、この二つは、人間の知識の源である、ということ。
私たちの頭の中にあるものは、このどちらかから生まれたものだったんですね。
まあ、どっちでもあまり関係ないし、それがわかったからといって、何も変わりませんけど。
ではでは〜。
posted by T.Sasaki at 21:27|
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副島学問
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