日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年06月30日

車の基本は、走って、曲がって、止まる

4回目。

トヨタも不正か!というニュースが賑わっているが、ダイハツにしろ、トヨタにしろ、同じ系列会社が不正に関わった。
しかし、私は、トヨタの車はいいと思うし、ダイハツの車もいいと思っている。
何より、壊れない。
今まで乗ってきた中で、一番安定しているのが、トヨタ系列だと思う。

日産には悪いが、塗装が良くない。
ちゃんと洗っていないと、錆びやすい。
以前、日産アトラスというトラックを買った時には、後悔した。
中古でも、いすずの方が丈夫だった。

ホンダには悪いが、細かい部分がいかれやすい。
この前など、止まっていた私の中古プレオに、N-BOXがぶつかってきて、プレオはバンパーに傷のみ。
相手はパンパーが凹んで、あれは交換するしかない。
私のは、どうでもいい傷だったので、「何もしなくていいから」と言ったが、相手は車両保険を使いたいためか、事故証明を取るためにおまわりさんが呼ぶという。
時間がもったいなかった。
ホンダ車には、追突されたくない。
ほかに、車が動かなくなった、というのもある(笑)。

車は、走って曲がって止る。
この確実さが一番じゃないのかなあ、と思う。
私のは、かなり前のプレオだが、これが、何も付いてないので、車体が非常に軽い。
手回しの原始的な窓で、窓を閉めなくても、エンジンを止められる(笑)。
付属品は、原始的なエアコンのみ。
軽いせいか、平地は勝手に走っていくし、下り坂は、加速する一方。
おかげさまで、おまわりさんに捕まった(笑)。
軽くて車高も低いから、カーブも簡単に回れるし、ブレーキを踏めば、すぐに止まる(意外にも、アンチロックがついている。笑)
軽量プレオとCVTは非常に相性がよく、三陸道を走れば非常に快適で、プリウスユーザーに貸したら、「外見はカッコよくないが、走りはいいし、燃費も悪くない」と褒められた(プレオは、ダイハツミラのOEM車だから、ミラを同列と考えていい)。

今は、過剰な安全装置で、車体が重くなっている。
いくら安全装置が優れていても、事故はなくならない。
運転手が、無謀運転したりしたら、事故は起きる。
だから、そういう運転をしないように、更新時講習をみんなが受ける。
最近、流行っているらしいが、気を失ったり、突然死したら、もっと重大な事故は起きる。
今や、曲がれない車はないし、止まれない車は、100%ないだろう。
運転手の問題ね。

トヨタの認証不正について、まあ、国に従わなかった、というのが、見つかったというだけで、そんなに悪いことをしたわけではなかった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2be699694f28a4e15bfe79c2dffa928165dbb216(「Yahoo!ニュース」)

国に従わない、ということは、国に背いて、そして、国の認証試験より厳しくしているのだから、トヨタはエライ!
これが、不正かね。
アホらし。

もっとアホらしいのは、EVバカである。
EVは、環境汚染車である。
EVに使われているリチウムイオンバッテリーで、リチウムは、リサイクルできていない。

https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2201/26/news018.html(「MONOist」)

だから、回収したリチウムは、ただのゴミにしかならず、それも、ちゃんと隔離しなければならない。
しかも、EVのタイヤは、非常に減りやすい。

http://platinum-room.seesaa.net/(「Merkmal」)

EVが重量が重いためタイヤが減りやすく、加速や制動も強いため、ますます減りやすい。
軽量プレオとは、大違い!
そのため、タイヤの粉塵量も、非常に多くなるようだ。(※1)
充電する電源に関しても、電力会社の系統なら、化石燃料エネルギーだから、何も環境にやさしくない。
ソーラー自家発電からの充電ならば、まだわかる。

なぜ、ヨーロッパがEVバカになったか、というと、どうやら、ガソリンエンジンやハイブリッドで、日本にぜんぜん太刀打ちできないから。
それで、日本をいじめてやれ、というので、EVバカになったらしい。

https://president.jp/articles/-/45580(「プレジデントオンライン

しかし、頼みのEVも、ヨーロッパの思惑からはずれ、中国のBYDに占領されつつある。(※2)
欧米は、白人優越主義から、アジアやアフリカを鬼畜のように扱っていじめようとするから、こんなことになるのだ。
彼らは支配することだけを考え、モノづくりに向いていないのかもしれない。

BYDは、もともと、バッテリーメーカーだ。
だから、仮に車でこけても、やっていける。
これが強みだという。(※3)

トヨタの全固体バッテリーとBYDの競争になってきた。
EVの購入は、全固体バッテリーが開発されてからがいいだろう。
まあ、私には買えませんけどね。
30万円で買ったプレオで十分です。
ちゃんと、走って、曲がって、止まりますから。



追記の関連リンク

世界は甘くない。なぜ、日本のバッテリーメーカーはBYDのようになれなかったのか。
こりゃトヨタも抜かれるわ…テスラを超えた「BYD」を軽く見る日本人を待ち受ける「受け入れがたい未来」




(※1)
現在のEVは、「環境破壊車」として、まっとうなエコロジストがブチ切れるようなシロモノなんです。
 まず現在のEVが抱える最大の問題点は「バッテリー」です。高出力のリチウム電池の普及に伴いEVの性能も大幅に上がりましたが、このリチウム電池、充電・放電を繰り返すと急速に劣化します。スマホすら3年程度で衰えるでしょ。当然、高出力の電気自動車はそれ以上に短期間で交換しなければなりません。
 ここで重要なのは、廃棄となったリチウム電池の処理。実は依然として「リサイクル技術」の完成の目処が立っていなんですよ。
 レアメタルのリチウムは基本「劇物」です。リチウム鉱山の採掘では激しい環境基準が設けられるほどで、液化(イオン化)している以上、適当に廃棄すれば液漏れで環境を破壊しかねない。スマホなどのバッテリーは小さい分、処理もマシですけど、これが普通車クラスのEVとなれば、1台でスマホ千台分の量となります。そんなものを「主力車両」にすれば、「20年もかからずEV廃棄物汚染による深刻な環境破壊が起こるのでは」と予想するリケダン(理系男子)の意見は傾聴に値します。
 あと、バッテリーって寒暖に弱いでしょ。スマホでも寒い日は電池切れが早くなりますし、逆に真夏日ではバッテリーを冷却するために、やはり電力を消費します。冷却しないとリチウム電池は爆発しちゃいますからね。
 自動車は人の命を乗せて走ります。大雪の日、バッテリーが切れたら凍死しますし、夏場もクーラーが止まれば命に関わります。EV車両を長期間、野外に放置した場合、条件によってはバッテリーが爆発する懸念も強いのです。
 また普通車クラスのEVは通常のガソリン車やハイブリッド車に比べて大量のバッテリーを積む分、だいたい300キロ以上に重量が増します。現在のタイヤはガソリン車を基準に製造されていますから、重いEV車に装着するとタイヤ溝がガリガリ削れて、この大量のタイヤカスの粉塵被害は、すでに深刻な社会問題になっているぐらいです。
 つまりバッテリーの問題が解決しないかぎり、EVの本格導入は時期尚早なんですね。最もスターターや電動アシストの自転車、二人用のミニ車両に使う分にはEVは有能です。モーター駆動で静かなうえ自宅で気軽に充電できるのもメリットです。
 EVの本格導入は現在トヨタがリードする「全固体バッテリー」の実用化を気長に待ち、またリサイクル技術を含めた技術的なブレイクスルーが起こらないかぎり、普通車レベルの導入は「しないほうがいい」というのがEVに対する正しい認識となるわけです。
(「紙の爆弾」2024年7月号p36)

(※2)
なぜ、EUがこんな「狂気の沙汰」を強行しようとしてきたのかといえば、もちろん理由があります。このゼロエミッション車計画、実は内燃機関(エンジン)とハイブリッド技術で日本のメーカーに太刀打ちできなくなった欧州メーカーが泣きついたことで始まった、といわれているんです。
 実は欧米の自動車メーカーは、ガソリンエンジンを「完成された技術」として、1990年代以降、研究開発をおざなりにしてきました。結果、ガソリンの次は「グリーンディーゼル」と言い出したものの、盛大に失敗して電気自動車に飛びつくしかなかったわけです。
 当然、地道にエンジン開発を続けてきた日本のメーカーとの差は開くばかり。いまのF1はホンダエンジンを積んだレッドブルチームの勝率がこの3年、9割を超え、90年代のホンダ黄金期以上の格差を見せつけており、ここからも現在の欧州自動車メーカーが「新型エンジン」の開発競争に脱落している実情が読み取れるのです。
 そんなわけでスタートした「EU内から日本車(ガソリン車・ハイブリッド車)を排除、欧州メーカーが先行しているEVにバンバン補助金付けて売りまくる計画」。しかし、これまた盛大に失敗しております。
 その失敗の要因が今回、採り上げたBYDでございます。「比亜迪」と書いて中国の発音は「ビーヤーディ」。英語の略語じゃないんですね。
 さて、このBYDですが、現時点で「世界一の電気自動車メーカー」です。ついに化けの皮が剥がれて大規模リストラとリコールと環境破壊の訴訟の嵐が吹き荒れているテスラ(米)を尻目に、年間生産台数950万台、とくにEV補助金をばらまくEU内で荒稼ぎしております。
(前掲書p37)

(※3)
見た目は自動車メーカーでも中身はバッテリー会社。ここに、この会社の「強み」と「将来性」があると思うのです。以前、NHKが「激流中国」(07年)という経済発展する中国の大型ドキュメンタリーを放送したんですが「中国の自動車メーカーはエンジンが作れない」と、特許(パテント)の切れた70年代のカローラのエンジンをそのまま作って乗っけていると商会していて、けっこう、驚いたものです。
 自動車はエンジンをベースにして車体を開発します。そしてエンジンの開発は莫大な研究予算がかかります。つまり自動車メーカーは、金のかかるエンジン開発を行なうために、自動車を売って稼いでいるわけでして、いまだに新型エンジンを自主開発できない(金がかかるからやらない)中国や韓国のメーカーは「もどき」と言わざるを得ないのですよ。
 その点でBYDは違います。ベースがバッテリー会社だけに、最初からエンジン開発など眼中にないでしょうし、開発もバッテリーとモーター、その制御装置といったPU(パワーユニット)に集約できます。リサイクル技術も会社の存亡がかかっている以上、莫大な研究費を注ぎ込んでいるでしょうし、EUで荒稼ぎできたおかげで全固体バッテリーの開発ではトヨタと真っ向勝負できる体力をついています。
(前掲書p39)



posted by T.Sasaki at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

漁業を営む権利は、財産権である

3回目、こんにちは。

漁業法シリーズのつづき。

漁業法には、「漁業権は物権とみなす」という条文がある。
物権は、妨害排除請求権や妨害予防請求権を持ち、漁業権海域で、権利侵害が起こる場合、これらを適用できる。(※1)
埋め立て事業などの拒否、補償交渉などは、権利侵害が争点になるが、それらを判断する場合、漁業法ではなく、民法の規定によるものである。(※2)

物権は財産権の一つであるから、それを侵害すると、民法のみならず、憲法にも違反する。(※3)
したがって、「漁業を営む権利」で説明してあるように、自由漁業で実績と積み上げ、慣習上の権利に成熟した場合、それを侵害することは、違法行為となる。
漁業権にしろ、慣習上の権利にしろ、権利侵害となるのである。(※4)
権利というと難しいと思う人は、他人の新規事業により、生活が脅かされると感じた場合、それは権利侵害の可能性があると疑っていい。(※5)

憲法の財産権の規定から、実績と積み重ね、成熟した慣習上の権利を、その人から奪うことはできない。
この流れで考えれば、もちろん、大臣や知事が、実績のあるものに対して、漁業許可を取り消すことはできない。(※6)
私たちの生活上、慣習というのは、非常に重要な地位を占めている。
知事といえども、慣習を地域住民から奪ってはならない、ということが、以上のことからわかると思う。
住民は、生活をしていくのが最も大事であるのだから、許可を出してももらうからといって、知事や県を何ら恐れる必要はないのである。(※7)

一方、法律は万能ではないから、解釈のしかたで、濫用する人たちもいる。
何事も行き過ぎはよくない。
このことから、憲法で、「公共の福祉に適合するように」運用することが明記されている。(※8)

ここで、2そう曳きトロールのことに話を振るが、私は先日、県庁職員に言った。
2そう曳きトロールの許可は、もちろん、すでに財産権になっているから、これを水産庁が取り上げるのは権利侵害になるから、無理である。
しかし、強烈な漁獲圧で魚を獲るということは、日本の貴重な魚類資源に脅威であることは明白だ。
したがって、それをかけまわし漁法へと転換させるのは、公共の福祉となる。
公共の福祉に適合させるための措置であるから、権利侵害とはいえず、合憲となる。
と口説いたが、もちろん、「う〜ん」というだけで、快い返事はない。
面倒なのは、嫌なんだろうなあ。

強烈な漁獲圧で操業して、魚を獲り尽すのは、「悪」なのだ。
この価値判断から、法律の条文を導いていけばいいだけの話である。
旧漁業法でさえ第1条に「漁業生産力を発展させ」と明記されているからには、この考えは有効であり、改正漁業法には、「水産資源の持続的な利用を確保する」と、もっと積極的に書いてある。
あとは、水産庁に対して、論理的に意見するのみである。
水産庁管理漁業(つまり、沖合底曳網漁業)に対して、法の番人であるお役人たちは、非常にのどかである。

もう一つ付け加えるならば、沖合底曳網漁業の許可やその管理は、県がやるべきだ。
農林水産大臣は、県の意向を聞き、それを承認するだけでよい。
現地にいない人たちが、管理できるわけがないからである。

事実、数年前の、TAC制度に対する違法行為に対して、水産庁は何の指導もできなかった。
電話で指摘しても、水産庁は回答を避けた。
違法行為を容認したことになり、法の下の平等に、公務員たちが反したことになる。
これらは、決して消えない真実である。
バカじぇねーの!



(※1)
「漁業権は物権とみなす」という法の規定によって、漁業権は民法上の物権としての取り扱いを受けることになります。漁業法で物権を設定する根拠は、民法第175条の「物権ハ本法其田ノ法律ニ定ムルモノノ外之ヲ創設スルコトヲ得ス」という「物権法定主義」にあります。
 このことによって、漁業権は、民法物権編の諸規定の適用を受けることになります。そして、その効果としては、

  〇妨害排除請求権
  〇妨害予防請求権

という「物権的請求権」を持つということにあります。「妨害排除請求権」というのは、権利の行使を妨害している者がいれば、それに対して「やめてくれ、どいてくれ」と請求する権利です。
 また、「妨害予防請求権」というのは、権利の行使が妨害されるおそれがあるときに、侵害のおそれがある状態をなくすよう請求する権利をいいます。
 なお、物権的請求権には、もうひとつ「返還請求権」がありますが、漁業権は物ではありませんから、「取られたから返してくれ」ということは起こりえないので、「返還請求権」は除かれることを付け加えておきます。
(「海の『守り人』論」p60)

(※2)
 読者のみなさんのなかで漁業関係者であれば、漁業補償は何回かは必ず経験されているはずです。この漁業補償について考えてみましょう。はじめから結論をいいますと、漁業補償と漁業法制度との関係は何もありません。漁業補償に関係をもった人だけでなく、漁業関係者も含めて、ほぼすべての人が漁業補償と漁業法とは関係があると思っているようです。もともと、何の関係もないわけですから、「なぜ関係がないのか」と聞かれても、「関係がない」としかいいようがありません。
 こういいきってしまえば、もともこもありませんので、法律的になぜ無関係なのかをまとめてみることにしましょう。それは、漁業補償の根拠法律は民法であって、具体的には、損害賠償の規定である民法第709条がそれにあたります。すなわち、「損害賠償制度」が「漁業補償」の根拠法規なのです。民法第709条は、「不法行為」の規定で、次のように法文が書かれています。

  〇民法 第709条〔不法行為の一般的要件・効果〕
  故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ズ

 ようするに、この規定は、「違法に他人の権利を侵害した者(加害者)はそれによって生じた損害を被害者に賠償しなければならない」ということです。この規定(損害賠償制度)だけが漁業補償の根拠規定であって、他には何の関係ありません。
 ここでいう「他人の権利」についてですが、民法でいう「権利」は、法律で「○○権」と書かれた権利だけを意味しません。いいかえると、「生活に深く関係する利益」、これが「権利」と解釈されています。すなわち、生活にかかわる利益を侵害して損害を与えた者は、その損害を賠償しなさいというのが民法の規定が意味するところなのです。
(前掲書p67)

(※3)
 財産権の侵害に関しては、憲法29条が定められています。
 憲法29条1項は、「財産権は、これを侵してはならない」と規定しています。私有財産制を保障している規定です。したがって、財産権を侵害することは原則として憲法違反になるのです。 
(「漁業権とはなにか」p6)

(※4)
 海や川に存在する財産権の代表的なものは漁業権と水利権です。
 漁業権とは「漁業を営む権利」です。ですから、事業により漁業の水揚げが減少する場合には、「漁業権の侵害」が生じていることになります。埋立で水面が消滅する、ダムにより魚の俎上が妨げられる、護岸の周辺で漁業が営みにくくなり水揚げが減る、埋立工事水域で一定期間、漁業が制限される、埋立工事に伴う濁り等で水揚げが減る等々、いずれも「漁業権の侵害」にあたります。
 水利権は「流水を排他的・継続的に使用する権利」です。ですから、ダム建設に伴って、工業用水や水道用水に取水されたり、ダムに貯水することで水が濁りダムからの排水が恒常的に濁ったりする場合には「水利権の侵害」にあたります。
 漁業権も水利権も財産権の一種ですから、「漁業権の侵害」も「水利権の侵害」も、いずれも「財産権の侵害」にああります。
 海や川や海浜は、だれもが使用できる「公共用物」ですから、それを使用しながら利益を得る行為が可能で、その行為が長年続くと次第に「財産権」に成熟していきます。ですから、海や川や海浜に存在する財産権は、漁業権や水利権に限りません。ほかにも、いろいろな財産権が存在します。
 とにかく、埋立等の事業により自分の生活が脅かされる場合には、事業が財産権を侵害している可能性が強いですから、声をあげることが重要です。
(「漁業権とはなにか」p6)

(※5)
 事業によって生活が脅かされる実態があれば、調べていくと「権利の侵害」が生じているはずです。権利とは「一定の利益を自己のために主張することができる法律上保障された力」をいうのですから、生活が脅かされるような実態があるということは「権利の侵害」が生じていることを意味するのです。
(前掲書p4)

(※6)
 要綱2条5項で「許可漁業や自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有すると認められるもの」を権利と認めていることは前述のとおりであるが、要綱が「権利」と認めているということは、それを侵害する際に補償が必要ということであり、侵害に補償が必要ということは、当該権利が財産権であるということにほかならない。許可漁業や自由漁業は、慣習に基づいて財産権に成熟するのである。
 憲法29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と規定し、29条3項は、財産権を収用する場合には正当な補償をしなければならない旨、規定している。したがって、財産権に成熟している許可漁業の更新を拒むことは、きわめて困難なのである。
「海はだれのものか」p84)

(※7)
 漁民は、更新や切替えの手続きがあるため知事等に逆らえない、などと心配する必要なない。また、知事等に更新や切替えで恩義を感じる必要もない。漁民は、漁業を営み続けることで「慣習上の権利」を獲得しているのであり、許可の更新や免許の切替えは「慣習上の権利」に基づいて、知事等がおこなわなければならないのである。
(前掲書p86)

(※8)
 しかし、財産権を絶対化すると「公共の福祉」に反することになりがちです。そのため、憲法29条2項は「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める」と規定しています。
(「漁業権とはなにか」p7)



posted by T.Sasaki at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 漁業法の理解 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ほたて汁

ふたたび、こんにちは。

昨日の夕方、生協で、ほたての稚貝を安く売っていたので、ご馳走!

ホタテ稚貝汁.JPG

あさり汁ライクなほたて汁。

昔々、春鮭鱒のはえ縄をやっていた頃、沖に1週間もいるものだから、ご馳走に飢えている。
ある日、玉が流れてきて、上げてみたら、ネットにほたての稚貝が入っていた。
この頃は、ほたての稚貝を食べるなんて、誰も想像もしてなくて、「じゃあ、あさり汁の代わりだと思って、やってみっか!」と。
食べたら、絶品だった。

もっと小さいほうが美味しいと思う。

ほたてって、一種類しかないのかしら?
posted by T.Sasaki at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

暇すぎて

こんにちは。

あまりに暇なので。

いさだの浮き玉.JPG

いさだ漁の浮き玉の手入れ。
これに付いている受けひもは、潮が悪いと、すぐにプロペラに巻く。
特に、慣れていない乗組員だと、やるんですよ。
何年乗っていても、やるのもいる(笑)。
でも、ようやく少しだけ上達したかな。
ということで、まず、新品を使っても意味がないので、常に修善。

日陰は涼しいけど、太陽光線が強く、暑い!

posted by T.Sasaki at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月29日

不気味なジョージ・ソロス

3回目。

載せようか載せまいか考えたが、池上彰の番組を見たら、載せることにした。
ジョージ・ソロスが、裏で何かやっているのではないか、ということだ。
こういうことは、まず、日本のテレビや新聞で報道されることはない。

「Antifa(アンティファ)」という暴力組織(組織にはなっていないそうだ)がある。
黒人差別をなくそうというBLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動を、過激化させたのも、アンティファだ。
このことで、以前、トランプ大統領は、非難声明を出している。

https://www.bbc.com/japanese/52873099(「BBCニュース」)

この、ろくでもないアンティファに、ジョージ・ソロスが資金を出し、世の中を攪乱しているという。
行き過ぎたイスラエルのガザ攻撃に対し、アメリカの大学内で抗議活動が盛んであったが、それにアンティファが火を注いで過激的に扱われ、警官たちに取り押さえられたようだ。
ジョージ・ソロスの目的は何なのか、今のところ、はっきりしない。
アメリカ大統領選挙は、今後、何が飛び出すのか、わからないという。



ユダヤ系投資家のジョージ・ソロスが率いるオープン・ソサエティ財団が、BLM運動を過激化させたANTIFA(アンティファ)に今回も資金提供し、学生運動に紛れ込ませているとの指摘がある。結果、反戦デモだったものが、「過激な反ユダヤ主義」暴動としてレッテル貼りをされていて逮捕者が後を絶たない。
 実際、大学内でアンティファに襲われたジャーナリストが、同じ人物に20年のBLM暴動でも襲われた、と証言した。こうしてBLM運動の裏側が次々と明らかになっており、創始者の黒人女性が4軒もの豪邸を白人の多い場所に購入したなどと報道されて、資金の使い道に疑惑が生じてもいる。黒人が白人警官に殺される事件はいまだ起きていても、以前ほどの抗議運動に発展しなくなった。そうした中、ガザ情勢がソロスの次のネタになっているということだ。
 ハンガリー系ユダヤ人であるソロスが、パレスチナ活動家を背後から支援しているとの報道もあり、トランプ前大統領が「イスラエルは世界に誇る軍隊や防衛システムを持ち、ハマス情報にも精通しているのに、なぜ易々と攻撃をさせたのか」と疑問を呈した。トランプ自身が4年前の大統領選でソロスに妨害された立場から、イスラエルで行なわれているマッチポンプに疑義を抱いたわけだ。
 さらに極端な見方として、むしろアメリカがイスラエルにコントロールされていると主張する人もいたり、昨年10月のハマスの攻撃を契機とするガザ戦争、アメリカがイスラエルを支援しなければならない裏事情、そして国内で広がる反戦運動の過激化と、この一連の流れが半年後の大統領選に向けられて蠢いているという見方もある。もしそうならば、さらなる別の事態も懸念される。いずれにせよ、事態を俯瞰して見続けなければならない。
(「紙の爆弾」2024年7月号p74)



posted by T.Sasaki at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トランプとプア・ホワイト

ふたたび、こんにちは。

テレビニュースはアメリカ天国で、大谷選手かアメリカ大統領選挙。
トランプ対バイデンで、まるで、裁判にかけられている悪人とボケ老人の闘いだ。
変なバイアスのかかっている日本の報道機関は、なぜ、アメリカでトランプに人気があるのか、について、考察がない。
というより、知っていながら、隠しているのである。
アメリカ政治の裏側は、副島先生の古い著書、「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」に書いてあり、今でも、共和党、民主党の考えは、変わっていない。
このことを、私は、「漁師のつぶやき保存版」で紹介している。

http://www13.plala.or.jp/anchor/archive/seijitoha5.html

読むと、ミルトン・フリードマンが出てくるが、彼の正体がこの時代(「漁師のつぶやき」を書き始めたのが2002年)はわからなかった。
小沢一郎も、おそらくは、アメリカの利用されたと思われるし、小泉純一郎も、竹中平蔵を介してアメリカに利用された。
それでも、副島先生の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」を読んで書いたものだから、最終的な責任は、副島先生にある(笑)。
みんな、まんまと一杯食らったのだ。
だから、副島先生は、アメリカに関して、いつも「騙されるな」と戒めているのである。

さて、副島先生の著書では、関連することがたくさんありすぎるので、前後を読まないとわからないことも多い。
一発で、わかりやすい文章を転載する。
アメリカの伝統保守が、これでわかる。
伝統保守は、トランプの出現を待ち望んでいたのである。
悪は、民主党の強欲な人間たちなのだ。
それを根っからのアメリカ人は、私たちと同じように、「騙されないぞ」と考え、トランプを応援している。



 トランプが所属する共和党はGrand Old Party=GOPと呼ばれるように、現在ではアメリカ建国の精神を守ろうとする伝統と格式を持つ保守党である。
 その支持層は白人系が多く、良くも悪くもステレオタイプの「アメリカ人」だ。敬虔なプロテスタント教徒で聖書の教えを大切にする。
 その一方で、身一つのまま新天地に渡り、何もない荒野でがむしゃらに働き、「成功者」=アメリカン・ドリームになるべく果敢に挑戦する。それが開拓精神=フロンティア・スピリッツとなり、勝ち取ってきた「個人の自由と権利」を踏みにじろうとする国家や権力に対して猛烈に反発する。この傾向が国家に拡大されてモンロー主義を生んだ。
 極端なまでに権力の介入を拒絶する気質は、国家による福祉政策すら最少でいいと受け入れている。
 そして移民国家の文化として、サッカーではなくベースボール、オペラではなくミュージカル、音楽・映画・ドラマといったすべての大衆文化を「アメリカナイズ」。それを好きになれば、国籍や民族関係なく、ごく自然と「アメリカ人」へと変貌する。そんな効果的な移民の文化を育んできたのが本来のアメリカ人といえる。
 欲しいもの、楽しいもの、必要なもの、すべてメインランド(米本土)に揃っているのだ。だから、アメリカ人は他国への関心はおろか理解の程度も低いわけだ。第二次大戦前のアメリカ人はケンカを売らなければ、他国のことなど「基本どうでもいい」と考えていたほどだ。 
 共和党やその支持層は、この「第二次大戦前までのアメリカ人気質」が色濃く残っている。ライフスタイルも戦前と変わらない人も多い。
 問題は90年以降、冷戦終結で超大国となった結果、アメリカの巨大資本や権益者たちがアメリカ主導によるグローバル化と世界支配という「プラン」を推し進めてきた点にあろう。
 このプランに積極的に加担してきたのが民主党とその支持勢力(ウォール街の国際金融資本・エネルギーや各種資源を牛耳るメジャー・巨大IT企業群・大手メディア・投資家・富裕層といったエリート層)。彼らにすれば、ひきこもりがちで国際情勢への関心が薄く、他国への干渉や介入に否定的な「本来のアメリカ人的な気質」を持つ共和党の支持層は、邪魔な存在として排除すべき対象となった。
 そこで民主党勢力が仕掛けたプロパガンダが、「プア・ホワイト=貧乏な白人男」である。
 カウボーイスタイルを好み、分厚いステーキをほおばり、ベースボールやプロレスに熱狂してビールをかっくらう。そんな典型的なアメリカ白人(共和党の支持層)はバカだから、仕事は小汚い工場や農場などで安い賃金=ラストベルトにしかつけない。
 間抜けだから世界の趨勢が読めず、古くさい価値観にすがりついて新しい時代のアメリカ発展を邪魔する「害虫」とばかりのイメージを、2000年から現在に至るまで、ものすごい勢いで拡散させた。マイケル・ムーアの「アホで間抜けなアメリカ白人」が典型であろう。
 しかもグローバリズムの持つ悪辣さと強欲さを「隠蔽」するためなのか、この「プア・ホワイト」は、同時に「リベラル思想=きれいごと」をセットにして拡散した。反対すれば「非人道的」「時代遅れの価値観」「野蛮人」と、よりいっそう過激に攻撃し、反論できないようにするためだ。これが現在のSDGsへとつながる。 こうして2000年代、「プア・ホワイト叩き」が吹き荒れ、アメリカ的な精神と文化がバカにされた時代、屈辱に耐える共和党の支持層たちの前に颯爽と登場したのが、もうおわかりだろう。「ザ・アメリカン」なドナルド・トランプだったのだ。
 大富豪でありながらハンバーガーとコーラが大好物。ベースボールに熱狂し、果てはプロレス(WWE)にリングに上がる。肉をかっ喰らって何が悪い、成功すればグラマーな美女をはべらすし、ストレス発散にはマグナムをぶっ放す。ガス代をきにせずバカでかいアメ車を転がすのがアメリカの、アメリカ白人の正しい伝統じゃないか。
 だいたい他国の戦争でヤングボーイ(アメリカの若者)が血を流し、米国民の税金で戦費を賄うのはおかしいだろう、自国の防衛は自国でやれ、武器は売ってやるから、とガンガン吠えるのだ。
 LGBTといったマイノリティの権利、CO2削減といったエコやクリーン政策に、しゃらくさいと平然と反対の声をあげる。リベラル色が強くなり「言いたいことも言えなくなった世の中」でトランプは常に自分たちの思いを「代弁」した。なまじ政治実績があるだけに黙りこむ共和党の代表候補が多いなか、シロートのトランプだけが吠え続けていた。
 この男を共和党の代表としてなんとしても大統領選に送り込む。そして「本来のアメリカらしさ」を否定した民主党と、その勢力を叩きつぶす。これが12年以降、共和党支持層のコンセンサスとなっていたのだ。
 いずれにせよ、先にケンカを売ってきたのは民主党と、その勢力。当然、共和党のトランプ支持層は「正義は我に在り」と過激化する。
(「紙の爆弾」2024年7月号p102)



posted by T.Sasaki at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

漁業を営む権利

こんにちは。

それでは、約束どおり、漁業法の理解について、書いていく。
全部で5回の予定。
漁業法解説書のような例示はしていないので、わかりにくい部分は、アップデートしていくかもしれない。
最初の考え方さえ覚えれば、あとは、それに従っていけばいい。
決して難しいものではない。

海は、公共のもの、みんなものである。
川もそうであり、道路もそうである。(※1)
誰もが、自由に使用できる。
他に誰もおらず、一人で使用する場合には何も問題は起こらないが、複数や大人数で使用する場合、必ず、問題や争いが起こる。
それらを防ぐために、許可を受けて使用したり、排他的に使用したりする場合がある。(※2)
これが、基本である。

漁業法は、この基本に従う。
海を誰もが自由に使いたい。
しかし、それは、使いたい人がたくさんいるから、無理な相談というもの。
秩序を保つために、何も申し合わせないと、必ず、争いが起こる。
短気な人が多くいる場合(笑)、それは暴力を伴うだろう。
他人の道具を切ったり、ドロボーしたり。
やられたら、やりかえせ!
こんなことをしていれば、お互いが不利益を被ることになる。
それを防ぐためとして、みんなで話し合い、規則を作る。
これを漁業調整という。
漁業調整のことを定める基本的な法律が、漁業法なのである。(※3)

漁業調整は、はっきり言えば、その漁場の優先順位を決めることである。
実際の条文には、優先順位などという言葉は使われていないから、私たちは、漁業法や漁業権という言葉を聞くと、つい難しいものだと勘違いしていまう。
しかし、中身は、優先順位を決めるものなのだ。
こう書くと、「違う」という人がいるかもしれないが、じゃあ、利害で衝突する場合、どうやって解決するのか、という話になる。
みんなが「平等」という言い始めれば、解決できないのだ。
だから、優先順位と考えて差し支えない。
実は、ここのところが、昔、漁業の法律を作った先人たちの苦労だったと思う。
したがって、私たちが条文を読めても、中身を理解しにくいのはしかたがないことであり、昔の水色の本である漁協経営センター「水協法・漁業法の解説」を読んでもなかなか理解できなかった理由は、この辺にあると思う。

さて、漁業権やその他の権利に対する考え方について。
漁業権は、その名の通り、権利そのものであり、財産権である。
ところが、漁業許可は、権利ではない。
権利とは、漁業許可が出て、実際に実績を作り、初めて権利となる。
これを慣習上の権利という。
自由漁業も同じ扱いであり、生業として自由漁業の実績があれば、これも慣習上の権利となる。
漁業許可があっても、何の操業もしていなければ、それは権利とはなり得ない。(※4)

海、その他の公共用物ではすべて、「慣習上の権利」が成立し得る。(※5)
したがって、海面で漁業を営む「権利」、というのは、漁業法で定める漁業権のほかにも、慣習上の権利を含む。(※6)
海も川もその他も、公共用物に関しての権利は、同じと考えていい。
たとえば、山林原野や水利権などについて、定める公法はない。
したがって、すべて慣習に従っている。(※7)
一般の法律では、法律と慣習が矛盾する場合、法律のほうが優先されるが、法律で慣習に関して何ら制限がない場合は、慣習は、法律と同等の効力をもつ。(※8)
漁業法ももちろん、これに従う。(※9)

漁業法で定めてある狭義の「権利」を、漁業権と呼んでいるが、これには、共同漁業権、定置漁業権、区画漁業権がある。(※10)
さて、公共用物である海面で、漁業権が設定されている場合がある。
特に、共同漁業権海域などは広い範囲に及ぶ。
そこで、漁業者が漁業をしていない場合について考える。
この場合、一般人が、水泳をしようが、ジェットスキーをしようが、ダイビングしようが、自由にその海面を使用していい。
海が公共用物であるから、自由使用が原則なのだ。
釣りに関しても、権利者である共同漁業者たちが取り決めている魚種、漁法による制限に、その魚類や海藻類が指定されていないなら、自由にやっていい。
飽くまで、漁業権というのは、漁業をする権利であって、海面を占有する権利ではない。

しかし、勘違いしないでほしいのは、だからといって、決して漁業者の迷惑になるような行為はすべきでない。
迷惑行為は、権利の侵害とみなされる。
わざわざ漁協がダイビング・スポットを指定する例があるが、これには、迷惑行為を避けるため、という理由がある。(※11)

基本的に、自由使用は、どこであれ、他の人に、迷惑をかけないようにするべきものである。



(※1)
 直接に公共の福祉の維持増進を目的として、一般公衆の共同使用に供せられる物を「公共用物」といい、道路、公園、河川、港湾、湖沼、海浜などがそれにあたる。公共用物のうち、河川、湖沼、海などの水面および水流を「公共用水面」という。
(「海はだれのものか」p10)

(※2)
 公共用物の使用には、自由使用・許可使用・特別使用の3種があるが、原龍之介『公物営造物法〔新版〕』によれば、それぞれ次のように解説されている。

  @自由使用
  道路・河川・海岸・公園等の公共用物は、本来、一般公衆の使用に供することを目的とする公共施設であるから、何人も他人の共同使用を妨げない限度で、その用法にしたがい、許可その他何らの行為を要せず、自由にこれを使用することができる。これを公共用物の自由使用又は一般使用という。例えば、道路の通行、公園の散歩、海水浴のための海浜の使用、河川における水泳・洗濯のごときはそれである。
  自由使用によって享受する利益は、一種の反射的利益であって厳密な意味での権利でないと解するのが、従来の学説及び判例の考え方である。
  A許可使用
  公共用物の使用が、自由使用の範囲を超え、他人の共同使用を妨げ、もしくは、社会公共の秩序に障害を及ぼすおそれがある場合に、これを未然に防止し、又はその使用関係を調整するために、一般にはその自由な使用を制限し、特定の場合に、一定の出願に基づき、右の制限を解除し、適法にその使用を許容することがある。これを公共用物の許可使用という。
  公共用物の許可は、公物警察上の見地又は公物管理上の見地からの一般的禁止を特定の場合に解除する行為であるにとどまり、公共用物の特別使用とその性質を異にし、公共用物使用の権利を設定するものではなく、かつ、公共用物本来の機能を妨げない程度の一時的な使用を適法に行わしめようとするものである。
  公共用物の許可には、「公物警察権に基づく許可」と「公物管理権に基づく許可」がある。道路交通法による道路における道路工事又は作業、工作物の設置、露店・屋台店等を出すことの許可が前者、河川法による河川区域内の土地における工作物の新築・改築、土地の掘削、盛土・切土など土地の形状を変更する行為の許可が後者の例である。
  B特別使用(特許使用)
  公共用物は、本来、一般公共の用を供するための公共施設であるから、原則として、一般公衆の自由な使用を認めるのが、公共用物の用法に従った普通の使用形態であるが、時として、公共用物本来の用法をこえ、特定人に特別の使用の権利を設定することがある。これを一般には、公共用物の特別使用又は特許使用と呼んでいる。道路法・河川法等の各公物法は、この意味での特許使用を、例えば道路の占有、流水の占用等、公共用物の占用と呼んでいる。
  許可使用が単に一般的な禁止を解除し、一般的に公共用物本来の機能を害しない一時的な使用を許容するにすぎないのに対し、特許使用は、公物管理権により、公共用物に一定の施設を設けて継続的にこれを使用する権利を設定するものである点に特色がある。
  公共用物の占用関係は、特許(各公物法にいう「占用の許可」)という行政行為によって成立するのが普通であるが、特許の形式によらず、慣習法上の権利として成立する場合も少なくない。
(前掲書p78)

(※3)
 河川・湖沼・海面等は「公共用水面」であるから、原則として一般公衆の共同使用に供せられる。したがって、一般公衆の共同使用の一環として漁業も営むこともまた自由であり、漁業は本来、免許や許可を受けずに誰もが自由に営める「自由漁業」である。
 しかし、あらゆる漁業に自由に認めていたら、漁業によっては、水面を独占してしまったり、乱獲につながったりして、一般公衆の共同使用を妨げてしまう。そのため、そのような漁業は、「漁業調整」の観点から一般的に禁止されている。「漁業調整」とは、「漁場の総合的高度利用により漁業生産力を発展させるように、多種多様の漁業を各人ほしいままに任せず、全体的見地からその適合した地位におくこと」と説明されており、漁業法は、1条(この法律の目的)において「漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、・・・・」と、漁業調整を法の目的に謳っている。
 しかし、水面を独占したり乱獲につながったりするような漁業といえども、全面的に禁止して一切認めないことは、同じく「漁業調整」の観点から好ましくないので、特定の者に禁止を解除して認めることがある。それが「許可漁業」である。「許可」とは、法令による特定の行為の一般的禁止を公の機関が特定の場合に解除し、適法にこれをすることができるようにする行為をいうが、許可漁業の場合も、「許可」によって一般的禁止が解除されて営めるようになるのである。
(前掲書p10)

(※4)
 漁業は、本来、免許や許可を受けずに誰もが営める「自由漁業」であるが、一般公衆の共同使用を妨げてしまうような漁業は、「漁業調整」の観点から一般的に禁止されている。しかし、そのような漁業といえども全面的に禁止して一切認めないことは同じく「漁業調整」の観点から好ましくないので、特定の者に禁止を解除して認めることがある。それが「許可漁業」である。
 「許可漁業は、許可によって初めて営めるのだから、許可漁業が権利になることはあり得ない」という見解がある。しかし、それは「慣習上の権利」を踏まえていない見解であり、誤りである。
公共事業に伴う補償について定められた「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」(以下「要綱」という)の2条5項は「この要綱において、『権利』とは、社会通念上権利と認められる程度にまで成熟した慣習上の利益を含むものとする」と規定するが、この2条5項について、『公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱の解説』(国土交通省監修)は、「適例としては、入会権、慣行水利権、許可漁業あるいは自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有する権利と認められるもの等がある」と解説する。つまり、許可漁業を営み続ければ、「権利と認められる程度にまで成熟した慣習上の利益」、いいかえれば「慣習上の権利」になるのである。
 注目すべきは、許可漁業は許可によって権利になるのではないことである。許可によっては、一般的禁止が解除され、営むことが可能になるだけである。その段階では、許可漁業は単なる利益にすぎない。しかし、許可漁業が継続して行われ続けると、それは利益から権利に成熟していき、慣習に基づいて権利になるのである。
 要綱2条5項の解説に示されるように、許可漁業のみならず、自由漁業も、継続して行われ続けると利益から権利に成熟していき、「慣習上の権利」になる。
 要綱2条5項の解説からわかるように、「慣習」とは「古くからのしきたり」ではなく、「実態の積み重ね」のことである。許可漁業や自由漁業は、慣習=「実態の積み重ね」によって権利になるのである。
(前掲書p81)

(※5)
 公共用物に関する「慣習上の利益」が「慣習上の権利」に成熟することについて、原龍之介は次のように述べる。

  公共用物が一般に開放せられ、何人でも自由に享有できる利益に止まる限りは、単に公物の自由使用にとどまる。慣行上の公共用物の使用が権利として成立するためには、その利用が多年の慣習により、特定人、特定の住民又は団体などある限られた範囲の人々の間に、特別な利益として成立し、かつ、その利用が長期にわたって継続して、平穏かつ、公然と行なわれ、一般に正当な使用として社会的に承認されるに至ったものでなければならない。

 すなわち、公共用物に関する「慣習上の権利」の成立要因は、次の3つである。
 @その利用が多年の慣習により、特定の住民や団体などある限られた範囲の人々の間に特別な利益として成立していること
 Aその利用が長期にわたって継続して、平穏かつ公然と行われること
 B正当な使用として社会的に承認されるに至ったもの
 これら3つの要件が満たされたとき、より正確にいえば、@、Aを満たすような公共用物の使用が継続して行われ、Bを満たすようになったとき、「慣習上の利益」は「慣習上の権利」になる。
 したがって、「慣習上の権利」は、古くから存在し続けていなければ成立しないわけではなく、いつでも新たに創出し得るものである。
 「慣習上の権利」の存在は、権利とはお上から与えられるとは限らず、法律に明記されているとも限らないことを意味する。お上から与えられずとも、法律に明記されていなくとも、人々の日々の営みが権利を創り得るのである。
(前掲書p80)

(※6)
 要綱2条5項には、「この要綱において『権利』とは、社会通念上権利と認められる程度にまで成獣した慣習上の利益を含むものとする」と規定してあります。要綱の解説書には2条5項の「慣習上の利益」の事例として「入会権、慣行水利権、許可漁業あるいは自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有する権利と認められているもの」があげられます。ここからも許可漁業、自由漁業が成熟していくと財産権にあたることがいえます。
  許可漁業が権利になることに関して肝腎なのは、許可によって権利になるわけではないということです。許可がなされた時、及びその後しばらくは利益に過ぎないのですが、実態が積み重なっていくと利益が次第に権利に成熟していくのです。そのような権利を「慣習上の権利」と呼んでいます。「慣習上の権利」も財産権ですから、それを侵害するには補償が必要です。
(中略)
 新しくできる「慣習」もあります。許可によって生じた利益が続いていくと権利になるのですから。「慣習」とは「実態の積み重ね」と理解したほうがわかりやすいと思います。
 許可漁業も自由漁業も「慣習上の権利」い成熟していきますが、その権利の内容は「漁業を営む権利」ですから「漁業権」といえます。漁業法上は、免許を受ける漁業だけが「漁業権漁業」とされていますが、免許を受けない漁業も慣習に基づいて「漁業権」になるというになります。
(「漁業権とはなにか」p16)

(※7)
 山林原野の場合、私法である民法で「慣習に従う」と規定しているだけです。水利権はなにも法律ができなくて、慣習がずっと続いていて、「法の適用に関する通則法」3条に基づいて「慣習上の権利」とされているだけです。いずれも公法はまったく制定されていません。公法が制定されているのは、広義の入会権である「入会権・漁業権・水利権」のうち漁業権だけです。
(前掲書p45)

(※8)
 明治時代に欧米から近代法を導入する際、慣習と法律の関係をどう調整するかが大きな問題となった。
 法例2条(明治31年法律10号)は、慣習と法律の関係を「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反セサル慣習ハ法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ヒ法令ニ規定ナキ事項ニ関スルモノニ限リ法律ト同一ノ効力ヲ有ス」と規定した。わかりやすくいえば、公序良俗に反しない慣習は、法令で「慣習に従う」旨規定された場合、および法令で何の規定も設けられなかった場合、法律と同一の効力をもつ、ということである。したがって、ある事項について慣習と矛盾する法律ができれば、その事項に関する限りは法律のほうが優先する。
 しかし、「法律が制定されれば慣習が整理される」という見解は誤りである。法律の制定と慣習の形成は全く矛盾しない。法律が制定と慣習の形成は全く矛盾しない。法律が制定され、ある事項について慣習よりも法律のほうが優先する場合にも、法律は、それまでの実態に変更を加えるに過ぎず、法制定後も法律によって変更を加えられた実態が生まれ、それが続くことになる。つまり、法律の下で新たな慣習が形成されることを意味している。慣習は新たに創造され得るものであり、法律の制定と慣習の形成は全く矛盾しない。
 慣習とは実態が積み重なることによって形成されるものであり、その実態の根拠が何処にあるかには関わらない。実態の根拠が免許にあろうが許可にあろうが、根拠となる法律があろうがなかろうが、それらには一切関係なく、実態が積み重なることによって慣習が形成されていく。
 したがって、「慣習とは古いもので、ただ消滅していくもの」という見解も誤りであり、慣習は人々の営みが積み重なることによって不断に創造され得るものである。
(「海はだれのものか」p87)

(※9)
慣習は漁業法によって変更が加えられます(たとえば漁業法8条による第一種共同漁業権の漁業権行使規則に関する多数決原理の導入)が、慣習は漁業法よりも広く、漁業法に規定のない事項(たとえば第二種〜第五種共同漁業権の漁業権行使規則)に関しては慣習に従うのです。
(「漁業権とはなにか」p51)

(※10)
 一般に、漁業は、「自由漁業」、「許可漁業」と「漁業権漁業」に分類される。「漁業権漁業」とは、漁業が免許される共同漁業・定置漁業・区画漁業のことである。免許により漁業権が設定されるため「漁業権漁業」と呼ばれるのである。
(「海はだれのものか」p11)

(※11)
ただし、ダイバーが潜水を行う場合、ダイバーが直接水産動植物を採捕しなくてもダイビングの行為がの行為が漁業権者あるいは漁業行使権の侵害とみなされ、告訴されることもありうる。したがってダイバーは指定されたダイビング・スポットの利用の義務はないものの、漁業者との無用のトラブルを避けるため、指定されたダイビング・スポットを利用することになるのであって、このことがダイビング・スポット指定の法的根拠となっていると考えられる。
(「海の『守り人』論」p160)


posted by T.Sasaki at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 漁業法の理解 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月21日

コモンズとミュニシパリズム

こんにちは。

前回の「正常な自治」は、自治というのは、自ら治める、ということを原点として、その意識の高い世田谷区民、そして、世田谷区長に選ばれた岸本聡子さんのことを紹介したものだ。
だから、「正常の自治」とした。
もしかしたら、正常な自治に戻す運動が、ミュニシパリズムであるのかもしれない。(※1)

ミュニシパリズムは、地域主権主義、自治体主義と訳され、人間が最低限生きていくために必要なものを、コモンズとして捉え、それを新自由主義から、再び地域住民が勝ち取っていこうという運動のことを言っているのではないか、と私は読み取った。
コモンズとは、共有財のことであり、それを住宅や食料まで含めるという立場になっている。
新自由主義の優勢なEUでは、いろいろなものが民営化されたが、それをコモンズ(共有財)ととらえ、再公有化を実現させている。(※2)
それでは、EUでのコモンズの拡大について記していく。

イタリアでは、水道事業の民営化に対して、国民投票で異議を唱えた。しかし、各地でその投票結果に従わず、ナポリ市は先駆けて、公営化に踏み切った。(※3)
民泊事業の企業Airbnbが住宅を買占め、住宅不足に陥ったアムステルダム市は、Airbnbの規制に乗り出した。(※4)
Airbnb(エアビーアンドビー)とは、正式な宿泊施設ではなく、現地の住民が自宅など一般の住宅を宿泊施設として提供し、旅行者との間をインターネットで仲介する米国企業サービスである。
この企業の進出により、住宅価格や家賃が上がり、住民が困ることになった。
EU各地では、大手不動産会社が住宅を買占めた結果、家賃が上がり、一ヵ月4万円だったのが、10年後には、15万円にもはね上がり、3倍以上になった事例もあるほどだ。
3人から4人でシェアすることが、当たり前になっている。(※5)
規制緩和を推し進めるEUに対抗するため、現在、国境を越えた自治体どうしで、知恵をしぼっている。(※6)
中央政府は、困っている住民のために、全く役に立っていない。

水道と住宅をコモンズとするのは、なるほど、と思う。
しかし、それだけではない。
今や、住民の食にまでコモンズを適用し始めている。
それは、大手ネット企業の中間搾取が原因だ。
アルゼンチンでは、アマゾンのような民間のプラットフォームに対抗するため、国営のプラットフォームを設立しようとしている。(※7)

この流れからいけば、2そう曳きトロールをかけまわし漁法にし、沖合底曳網漁業を公営化しても悪くない。
あまりに漁獲圧の高い漁業は、魚が少なくなったら、漁をさせない。
あまりに減少しすぎた業類資源を復活させるためである。
根こそぎ漁業は、社会にとって、「悪」なのである。

最後に、女が搾取されていることにも触れている。
本当に社会に必要な仕事を「ライフメイキングシステム」とし、このシステムには、女性を低賃現で働かせている、という現実がある。
これに対し、非常に強烈な指摘であるが、軍事、武器、化石燃料、車、原発などを、「デスメイキングシステム」と呼ぶ。
「ライフメイキングシステム」で、労働者を低賃金で働かせ、金持ちたちは「デスメイキングシステム」で儲けるとは、何事か!と、いうことだ。(※8)
まったく、その通り!

EUで行なわれている新自由主義による規制緩和は、日本の比ではない。(※9)
EUは規制緩和による市場開放が進みすぎて、世界的な大企業ばかり潤い、住民は生きていくのが大変になっている。
日本は、まだマシだ。
今のうちに、ミュニシパリズムを浸透させていったほうがいい。
これにより、収入格差も小さくなるのではないか。



(※1)
 地方自治体の意である「ミュニシパリティ(munisipalitey)」から来ているミュニシパリズム(あるいはミュニシパリスト)は、政治参加を選挙による間接民主主義に限定せずに、地域に根づいた自治的な民主主義や合意形成を重視する考え方だ。ミュニシパリズムを掲げる自治体は、市民の直接的な政治参加、公共サービスの再公営化や地方公営企業の設立、公営住宅の拡大、地元産の再生可能エネルギーの促進、行政の透明性と説明責任の強化といった政策を次々に導入している。
(「地域主権という希望」p44)

(※2)
 この数十年、世界中で、国や自治体が本来もっていた公共的な役割をどんどん縮小し、水道や電力など住民生活に不可欠なインフラ事業まで、民間企業に委託してしまう民営化の流れが続いてきました。その結果、本来は住民のものだるはずの公共の財産が、営利の営利の論理で支配され、人々の生活を圧迫するといった問題が相次いでいます。
 私が長く暮らしていたヨーロッパでは近年、こうした民営化の流れがを止め、住民が地域の公共財産を自分たちで民主的に管理する仕組みを作り直そうとする動きが各地で生まれています。
 そして、こうした住民運動を母体として自治体ごとの市長政党がつくられ、首長や地方議会の選挙で勝利し、国の政府やEUといった大きな権力にお敢然と物申していく ― このような現象は、「再公営化」「ミュニシパリズム(地域主権主義、自治体主義)」、そして「恐れぬ自治体(フェアレスシティ)」という言葉でとらえられています。
(p4)

(※3)
 イタリア市民は公営水道の一部民営化を強制する法律を覆すために、2011年に国民投票を組織し歴史的な成功を勝ち取った。これによって水道事業から利益を上げることを禁止する憲法改正にこぎつけたが、多くの自治体がその精神に従わず、利益追求型の水道サービスの形態を変えなかったので、市民の怒りと失望は大きい。そのような背景があるなかで、マギストリス市長率いるナポリ市は、全国に先駆けて水道サービスの公的所有を確立し、水をコモンズ=公共財と位置づけた改革を行った。
(p45)

(※4)
 アムステルダム市は、Airbnbの規制にいち早く乗りだし、Airbnbの民泊を年間30日までと限定した(30日以上民泊を提供するということは、そこに居住している事実が薄いとみなす)。企業や資本家がAirbnb用に不動産を買い占めることが問題になっていて、他の首都同様、アムステルダムの住宅不足と価格高騰は深刻かつ緊急課題だからだ。
(p51)

(※5)
 住宅の不足と賃貸価格の高騰は、ヨーロッパの首都や主要都市に共通の、緊急かつ重大な課題になっている。私がかつて住んでいたアムステルダムはその筆頭で、20代〜30代前半の同僚たちは、高い家賃のアパート(1500ユーロ=約19万円)を3〜4人でシェアしている。一人暮らしは贅沢な選択になってしまった。10年前、私が家族3人で住んでいた、小さな公営アパートの家賃は当時400ユーロ(4万2500円ほど)であったのだ。いま、そのアパートは民間所有となり、家賃は1200ユーロ(約15万円)という。これだけ見ても、過去10年間の住宅市場の激変が見てとれる。
 アーティストの天国であり続けたベルリン市も、いよいよその波にのまれてしまった。ベルリンの住宅市場の85%が賃貸住宅であるが、2017年の1年で家賃がなんと平均20.5%も上がったのだ。2013年から2017年で実に2倍になった。もともと家賃が比較的安かったせいか、その変化は著しい。
 そのベルリンで、巨大不動産会社が所有しているアパート群をベルリン市が強制的に買い上げて公営住宅にするという住民投票提案が、にわかに注目を集めている。
(中略)
ドイチェ・ヴォーネン社は、現在11万戸のアパートをベルリンに所有している。全賃貸住宅の6.8%を同社が所有していることになる。これだけの規模で賃貸住宅を一社が所有することは、他都市ではめずらしいかもしれない。ロンドンでは最大手のグレンジャー社でも、所有するアパートは1500戸にすぎない。
 ドイチェ・ヴォーネン社はその巨大な経済力を駆使し、ドイツの比較的厳しい賃貸料金の規制政策の抜け道を探して、賃料を上げる抜群の能力で知られるようになった。規制は同地区内の平均的な値上げ率を基準にしているが、一地区を一企業がほぼ独占すれば、このような規制は機能しない。たとえば同社は、年金生活者が住むブロックを2005年に買い上げて、その途端に月100ユーロ(1万2500円)の値上げをした。年金収入の60%を家賃に充てざると得なくなった人も少なくなかった。
(前掲書p63)

(※6)
 住宅問題に立ち向かうのはベルリン市だけではない。「普通の人が住める街」のための住宅政策は、ミュニシパリズムを掲げる自治体やフィアレスシティの要のひとつである。住宅についてベルリン市は、バルセロナ市、アムステルダム市、ウィーン市などと積極的に協力している。過剰な観光化(オーバーツーリズム)、Airbnbなどのオンライン民泊プラットフォームの拡大、家賃の過剰な値上げ、住民視線ではないジェントリフィケーションは各都市共通の問題だ。
 しかし、ドイツ、フランス、スペインなど多くの国で、自治体は住宅価格や賃貸価格を包括的に規制することはできないとされている。総合的な住宅政策は中央政府の管轄であるしい。その背後にはEUの容赦ない緊縮財政や強烈な市場自由化政策がある。だからこそ自治体が力を合わせて、国家やEUを恐れることなく、学生、労働者、家族、移民が追い出されることなく住むことができる都市を守るために知恵を絞っているのだ。
(前掲書p69)

(※7)
 寡占化したグローバルサプライチェーンは広告とマーケティングを利用して、パッケージ化された食べものを高い値段で消費者に売りつけている。こうした流れに対抗しているのが、10年以上にわたる社会運動を基盤とするロサリオの取り組みである。食べものを公共財ととらえなおし、土地を投機対象からコモンズとして協同で管理する、脱資本主義的な実践といえる。
 コロナ禍で社会経済危機におちいったアルゼンチン政府は、社会運動からの提案を受けて、ロサリオの経験に基づいた国営食料会社と、アマゾンに対抗するような国営電子商取引プラットフォームの設立を法制化しようとしている。イギリスのメディア「オープンデモクラシー」は「国営アマゾンってどんな風? アルゼンチンに聞け」という記事をいち早く配信。記事によると、アルゼンチンのアマゾンに当たるメルカド・リブレに対抗する国営電子商取引プラットフォームは、とくに小規模な生産者と協同組合の製品を流通させるためのインフラをめざしているという。
(p230)

(※8)
 医療、病院、教育、食料(流通)、保育、介護、福祉、自治体サービス、清掃など、社会に必要な仕事のおよそ3分の2を女性が担っている。しかし、その価値は過少評価され、賃金は抑えられているか、もしくは無償である。『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)に筆者の一人ティティ・バタチャーリャは、このような分野を「ライフメイキングシステム(命を育む仕組み)」と呼ぶ。その対極は、軍事、武器、化石燃料、車、原発などの「デス(死)メイキングシステム」だ。
 資本主義は労働力を得るために、やむを得ずライフメイキングシステムに依存しながら、常にこれを攻撃してくる。賃金を減らし、民営化を推し進める。彼女は、命を育む仕組みを社会、政治、経済の中心にしなくてはいけないという。
(前掲書p166)

(※9)
 まとめるならば、国家主義や権威主義を振りかざす中央政府によって人権、公共財、民主主義が脅かされつつある今日、ミュニシパリズムは地域で住民が直接参加して合理的な未来を検討する実践によって、自由や市民権を公的空間に拡大しようとする運動だといえる。
 具体的には、社会的権利、公共財(コモンズ)の保護、フェミニズム、反汚職、格差や不平等の是正、民主主義を共通の価値として、地域、自治、開放、市民主導、対等な関係性、市民の政治参加を尊重する。ミュニシパリズムは普通の人が地域政治に参画することで、市民として力を取り戻すことを求め、時にトップダウンの議会制民主主義に挑戦する。政治家に対しては、地域の集会の合意を下から上にあげていく役割を、100%の透明性をもって行うことを求める。
 私は本書で、ヨーロッパでの「進歩的な」政治運動を称賛したいのではない。EUというプロジェクトが国際競争を最大化する新自由主義により統合された結果、ヨーロッパ域内は日本では想像を超えるくらい市場開放が進み、行くところまで行ってしまたのだ。そしてその影響は、労働者や若者に深く広く浸透している。EUという組織の構造的な非民主政はいかんともしがたいなかで、戦略的な対抗手段としてミュニシパリズムが成長しているのである。
(前掲書p53)





posted by T.Sasaki at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月20日

正常な自治

こんばんは。

東京世田谷区の現区長、岸本聡子さんは、自分が「立候補するぞ」という意志をもっていなかった。
選挙前の世田谷区は、当時の区長が打ち出した政策が、ことごとく区民の思いと反対のことになっていて、そこで「住民思いの杉並区長をつくる会」が結成された。
タイミングよく、その会を知って参加していたベルギー在住だった岸本さんは、「選挙に出したい人」に選ばれ、選挙の2か月前にベルギーから引越して、当選した。
すごい快挙だ。
そこには、杉並区民のパワーがあった。
「ひとり街宣」という取り組みである。
ボランティアが、「各駅にポスターを持って立とう!」ということだ。(※1)
現在、同じ手法で、都知事選の投票率アップという目的で、同じく杉並区のボランティアが街角に立っている。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/333537?rct=tokyo_suginami(「東京新聞」)

都知事選が77%にまでなれば、それは、政党信者の選挙ではなくなり、民意が反映した選挙になるだろう。

行政職員の意識も、特に高いように感じる。
当選した岸本さんの政策は、もちろん選挙公約として掲げられていた。
それを区役所職員たちが吟味検討し、仕分け作業が行なわれ、逆に、新市長へと提案された。(※2)
これほどのことを、どこの自治体もやっているのだろうか。
岸本区長の職員への諭し方もまた感服する。
過去に間違ったことは改めればいいし、どうしても変えられないところは言葉を尽くして説明すればいい(※3)
これは、政府・自民党に教えてあげたい言葉である。
そして、これもすごい!
区予算の一部も、住民参加決定型の予算に充てる。(※4)
こんな自治体、どこにもない!
住民の意見を汲む場合も、個人の好きな分野で意見を言ってもらう場も確保しようとしている。(※5)
アイディア満載の杉並区である。

ネットを使ったパブリックコメントという国の制度があるが、彼女は、これに批判的である。
「みんなの意見を聞きましたよ」という既成事実だけを作り、その意見は反映されることはない。
ただ、やってる感の演出のみである。(※6)
実際にパブコメで意見した人は、同意見だと思う。
パブコメにも集合的な力が必要で、その一つが強力な住民投票である。
ドイツでは2019年までに、何と!4000回も住民投票が行なわれているという。
彼女は、これを民主主義の練習と言っている。(※7)

彼女のいたベルギーには、日本の自民党みたいな政党があって、そこが子どもみたいに駄々をこねて、組閣もできず混乱した。
それでも、コロナ騒動もあって大連立の臨時政府が作られた。
組閣の際、半数が女性であり、それも、年齢の若い人たちが選ばれた。
それでも、政府によって、社会は動くのである。(※8)
日本の国会をはじめ、組織のトップに立つのは、高齢者が多い。
私は、50代になってから、自分の頭が鈍くなっているのを感じるのに、彼らは、よく頭が回りますな。

地域主権という希望」で紹介されている世界各地のミュニシパリズム(地域主権主義、自治体主義)は、岸本区長により、杉並区では実践され始めている。
これらのことを知ったら、俄然、東京都知事選の見方が変わり、面白くなってきた。
あとは、結果はどうでるのか、だ。

次回は、コモンズ(共有財)の捉え方とミュニシパリズムの発展について、かな?



(※1)
 ボランティアによる「ひとり街宣」はその代表です。大量の選挙ポスターを用意しても貼る場所がない。それなら一人ひとりがポスターを持って街頭に立とう、という取り組みです。選挙運動中、私がお休みで不在の日に、ボランティアの方から「じゃあ私がポスターを持って、一人で関前にたってもいい?」と提案があり、それならみんなでやろうという話になりました。「杉並区の19の駅の全部で立てば、ポスターを貼る以上に宣伝効果があるんじゃない?」と、分担してすべての駅をカバーすることにしました。仕事に行く前の時間や帰る前の時間など、それぞれが時間をみつけて連日立ち続けたのです。
(「地域主権という希望」p20)

(※2)
 前区長を支えてきた職員のあいだには、私に対する不信感や、もっと言えば反発を抱いていた人もいたでしょう。彼らがサボタージュして私に情報を伝えないこともできたかもしれませんが、いまから思うと、幹部職員のみなさんは、私の就任が決まったときから頭を切り替えて、新人区長の私を支えていこうという姿勢になってくれたと思います。
 後から聞いたところによると、私の当選から就任までに、役所の中では私の選挙公約を各部署あげて分析し、すでに実行しているもの、予算措置がなくても実現できるもの、予算措置が必要なもの、時間をかけて検討が必要なものに分類した仕分け作業がすでに行われていたそうです。
(前掲書p30)

(※3)
 職員たちも、さまざまな苦労を抱えて仕事をしています。過去のことを責めるのではなく、これからは別のやり方に変えていこう、という前向きな姿勢になれればいいのです。道路拡張にせよ児童館の問題にせよ、区の抱える悩みを正直に伝えて、区民と一緒に頭をひねっていけばいい。過去に間違ったことは改めればいいし、どうしても変えられないところは言葉を尽くして説明すればいい。そういう率直な姿勢でいいんだということが職員たちにも伝わって、全体として硬直した雰囲気が緩んだという実感があります。
(前掲書p31)

(※4)
 区の予算の一部を参加型予算として、一定額を区民が議論して使いみちを決めるというアイデアもあります。これに対しては、議会による予算の承認は議会制民主主義の根幹だとして批判的な人もいますが、やや的外れだと思います。参加型予算は、住民が払った税金の使途を自分たちで議論することで、自治の主体としての当事者意識を回復するツールなのです。全体の予算は、選挙で選ばれた議会が責任をもって決めますが、その前段階で、一部の使途を住民の討論に委ねると決めることは、議会軽視ではないと思います。
(前掲書p36)

(※5)
環境問題に関心がある人、子育ての当事者、地域の中小企業経営者など、住民の問題関心はさまざまです。各自の当事者性や、関心がある分野を入り口とすればいいのです。
 若い世代にも、地域に貢献したいとか、街を住みやすくしたいという気持ちを持った人はたくさんいます。しかし、仕事や子育てに忙しいなかで、ばくぜんとコミュニティに参加しましょうと言っても難しいでしょう。分野別、課題解決型にして、参加したくなる回路を複数つくっていくことが大事だと思います。
 こうして、多様な回路で住民の声を吸い上げ、区の意思決定に組み込んでいくことが、住民の主権者意識を育んでいくはずです。
(前掲書p36)

(※6)
 近年はパブリック・コメントとして個別の政策に住民の意見を募集することがありますが、多くの場合、行政側の方針が概ね決定した段階で行われ、それによって大きく方針が変わるということはほぼありません。大切な制度ではありますが、それだけということになると、「住民の意見もいちおう聴きました」というお墨付きのための制度となってしまいます。
 こうしたことが続いていくと、住民の中には、自分たちの意見は尊重されていない、意見を言ったとしても何も変わらないという無力感だけが残ります。行政側も住民の声をクレームのようにしかとらえず、どうすれば既定の路線を変えずに済むかばかりを考える。これでは、お互いに不信感が募るばかりの悪循環です。
 私に言わせると、パブコメのよくないところは、個人の意見にしかならないことです。行政から見れば、個人の意見にすぎないというのが逃げ道になってしまう。行政を動かせるのは、住民の声が横につながってコレクティブ(集合的)な力になるときです。
(前掲書p34)

(※7)
 住民(国民)投票は、議会制民主主義を補完する直接的な民主主義の手法として、基礎自治体レベルから国に至るまで、さまざまな国で採用されている。2021年9月には同性婚の合法化を問う国民投票がスイスで行われたのは記憶に新しい(そして可決された!)。賛否が分かれる問題を、利害や権力、政局などに影響される議会だけでに委ねるのではなく、住民(国民)に直接問うことの意義や正当性は高い。それ以上に、市民がさまざまな問題を主体的に考え、選挙を超えて意思表示する、民主主義の訓練の場として有効だと思う。そして、傲慢になりがちな為政者が、主権者の意見を丁寧に聞き続ける訓練の場としても。
 そんな民主主義の練習がドイツでは浸透しているようだ。各州で少しずつルールが違うとはいえ、すべての州で住民投票は法制化されている。ドイツ全体では2019年までのあいだに8000回を超える住民投票発議があり、4000回を超える住民投票が行われたというから驚きだ。
 現行のルールだと、ベルリン州では有権者の3%の署名を集めれば住民投票を発議できる。ただし、全有権者の10%以上が投票にいかなければ投票の結果は有効にならない。その上で、投票した人の過半巣が賛成すれば可決となる。これらの条件は、他の州と比べて比較的ハードルが低い。ベルリン州には住民投票を成功させやすい土壌があるともいえるし、直接民主主義を尊重する政治をつくってきたともいえるだろう。
(p221)

(※8)
 少し乱暴な比較になるが、日本の自民党とベルギーのN-VA(新フラームス同盟)は私にとって存在が似ている。自分と社会観の近しい人とはそのことを激しく共感し合える一方、自分のサークルを一歩出ると、気軽には批判できないところも同じ。日本での自民党と同様に、ベルギーでは積極的であれ消極的であれ、N-VAの支持者が多いからだ。特にフランダース地方では顕著だ。
 N-VAは複雑な顔を持つ政党であるが、フランダース・ナショナリズムや分離主義をアイデンティティとしており、とくに1024年以降の勢いはすごい。ベルギー連邦政府、フランダース地方政府、ベルギー選出の応酬議会銀のすべてで第一党である。経済面では自由市場主義で自由党と近く、文化面では保守的でキリスト教民主党と近く、地域ナショナリズムではより過激な極右政党「フラームスの利益党(VB)」と協調している。環境主義を装いながら原発は擁護。大企業減税を支持し、移民政策では強硬的。ベルギーに引っ越す際、候補地からフランダース地方の都市アントワープを最初に除いたのは、N-VAの牙城だからだ。
 2018年12月、国連で152か国が賛成して採択された移民保護の国際協定「安全で秩序ある正規移住のためのグローバル・コンパクト」にベルギー政府が賛成したことに反発して、N-VAは連立与党を離脱。当時の首相は責任を取って辞任した。それ以来、ベルギーでは政治的な混乱が続く。2019年5月の選挙後は、連立の交渉が実に約16か月も続き、その間、正式な組閣ができずにいた。しかし、そんななかでもコロナ危機に際しては臨時政府が樹立され、代理首相ではあるがベルギー初の女性首相となったソフィー・ウィルメスが舵取りを担い、踏ん張った。
 連立交渉が長引いた理由のひとつは、N-VAが「ベルギーがひとつの国としてまとまるのは無理」というイメージを国民に与えようとして、あの手この手の非協調的行動や威嚇するような発言を行ない、政治の混乱を強調したからだ。しかし結果的に、横暴なジャイアンであるN-VAは外されて、社会党、自由党、緑の党、キリスト教民主党など7党で連立の合意を果たしたのは痛快だった。これでやっと新しい政治の空気になった。
 ベルギーの内閣は首相も入れて大臣クラスが20人。2020年10月1日に発足した新内閣では、そのうち半分の10人が女性である。首相のアレキサンダー・デクロー(自由党)の44歳をはじめ、一番多いのは40代(12人)、次は30代(5人)、50代(2人)、60代(1人)という編成で、平均年齢44歳。右派で男性中心のN-VAが与党にいたらありえなかった編成で、これまた痛快。一番の若手は、イラク難民の父とベルギー人の母のもと、ブリュッセルで生まれ育った32歳のサミー・マハディだ。国務長官で難民・移民担当である。
(p204)



posted by T.Sasaki at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月18日

改正漁業法の説明会

こんにちは。

先日、暇だったので、県に電話をして、いろいろと注文をつけた。
大不漁に遭遇すると、暇を持て余して、漁師でさえいろいろと考え始める(笑)。
キリスト教の場合、「汝認識することなかれ」と言って思考力を奪い、神にすがる信者を「神はお選びになる」そうだ。(「邪教を信じるより、高貴に生きる!
笑ってしまう。

改正漁業法ができた頃、沿岸漁船漁業組合では当時、県に対して、改正漁業法の説明会を開催することを確か要請したと思う。
しかし、偽パンデミックのおかげで、それは中止となった。
一応、資源管理と漁業権水面を企業へ開放するということの2つが追加されたといわれているが、本当のところ、漁業者の誰もが、その条文など知らないのではないか。
だから、対応した職員(課長)には、県で説明会を開かなくても、各漁協へ、改正漁業法の説明会をするように指導しなさい、と伝えた。
水産庁と違って、県のいいところは、上司がでてくるところだ。
本当のところ、各漁協の中でも、ちゃんと理解している人がいるかどうかは、怪しいらしい。
そんなものなのか。
理事や組合長たちでも、相当の高齢の人たちが多い。
聞いてみようかな。

改正漁業法の要点は、次のリンクにある。

https://times.seafoodlegacy.com/coulmn-revised-fishery-act/(「Seafood Legacy Times」)


私は、先日も申した通り、改正前の漁業法の私流の解説をまとめようとしている。
改正点以外は、従来の漁業法を踏襲しているからである。
以前からこのブログで、少々紹介していた3冊の本がある。
「海はだれのものか」
「海の『守り人』論」
「漁業権とは何か」

「海の『守り人』論」は、漁業法の神様といわれた浜本幸生さんが主筆であり、これに一番弟子の熊本一規さんや水口憲哉さん、その他が参加している本である。
残りの2冊は、熊本一規さんの著書。

その前に、どうしても紹介したい本がある。
それは、東京都杉並区長の岸本聡子さんの書いた「地域主権という希望」。
今や、世界中の市民の側は、民営化された公共の事業を再公営化する流れを要求しているそうだ。
例えば、水道事業の民営化が行われると、企業は、不採算地域への水道インフラをカットしたりする可能性が大きい。
これに気づいた市民は、水道インフラをコモンズ(公共財)と捉え、さまざまな活動を行っている。
コモンズには、住宅の確保も含まれ、食料供給から流通までも対象になりつつある。
一般市民の最低限の生活を保障するものだからである。

その流れでいけば、水産庁の不手際で減少しすぎた魚類資源も、コモンズとして、認識されるようになるかもしれない。
魚類資源をコモンズという捉え方をすれば、もはや、民間企業の利潤追求のために、沖合底曳網漁業を行うことはできなくなる。
非常に漁獲圧が高く、徹底的にいなくなるまで獲り尽くす連中だからだ。
岩手沖には、今や魚がいなくなり、沖底船は、成長の遅いキチジばかり獲っている。
末期的である。
それを改善するためには、沖底の経営を漁協にするのが一番いい。
定着性の魚類資源をコモンズと考え、魚類が減少したら、船を休ませればいいのだ。
このまま漁業者の高齢化がすすみ、若者たちが定着しなければ、いずれ、岩手でさえ、一県一漁協となる。
そこで一気に、大臣許可の沖底を、漁協経営に編入するべきなのである。
この考え、悪くないと思うが。
posted by T.Sasaki at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする