日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年04月17日

気候変動の主因は、人為的なものではない

ふたたび、こんにちは。

日本で起こっている気候変動は、もちろん、世界中で起こっている。
その原因として、二酸化炭素犯人説が主流を占めているが、これに異を唱える先生たちがたくさんいる。

http://takahata521.livedoor.blog/archives/16066524.html(「メモ・独り言のblog」)

地球で起こっている温暖化は、何と!太陽系全体で起こっている。
これをどう説明したらいいのか?
単純に、太陽の勢力が強くなっている、という考えでいいのではないか。

https://earthreview.net/planets-in-the-solar-system-are-warming/(「地球の記録」)

化石燃料に依存する社会は、日本にとって、エネルギー属国を意味する。
だから、エネルギーの化石燃料脱却は、必須である。
しかし、世界の化石燃料供給が切迫しない限り、急ぐ必要もない。
気候変動は、人為的な問題よりも、宇宙的な問題だからである。
その点、電動化を急がず、トヨタのハイブリッド戦略は正しかった。

しかし、私たち漁業者にとって、海の酸性化の原因である二酸化炭素の充満は、いいものではない。
ここで少々の朗報である。
厄介者の二酸化炭素を、カーボン・ナノファイバーにする技術が開発されたという。
しかも、リサイクルも容易であるという。

https://karapaia.com/archives/52328750.html(「カラパイア」)

ありがたい。

温暖化を異常に心配する人へ。
200万年前の北極圏は、今よりも10℃以上気温は高かった。
それでも、大丈夫、生物は生き残ってきた。

https://karapaia.com/archives/52318443.html(「カラパイア」)

この「カラパイア」には、気候変動に関する面白い記事がある。
地球が滅びるのは、太陽に依存し、あと10億年後だと推定されている。

https://karapaia.com/archives/52318305.html(「カラパイア」)

10億年は、長い。
数年後には、白人優越主義を、撃退してほしい。
そうすれば、少しは、地球も穏やかになるだろう。
posted by T.Sasaki at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

タリバンは、話せばわかる人たち

こんにちは。

私たち日本人は、西側”の人間と言われる。
したがって、圧倒的多数の西側”の報道を信じるだろう。
しかし、西側報道のウソを、かなりの部分あばかれ、鵜呑みにする人も少なくなっているのではないか。
アフガニスタンのタリバン政権についても、相当の恣意性をもって、西側は報道しているように思う。(※1)

アフガニスタンの荒廃した土地に緑を作った中村哲さんは、世界に誇れる日本人である。
彼が殉職したのは、日本でも大々的に報道された。
私は、ペシャワール会の会員になったばかりで、よくわからないのだが、中村哲医師はPMS(ピース・ジャパン・メディカルサービス)という組織を作り、中村医師の死後も、医療活動や灌漑水利事業などを継続している。
ペシャワール会は、もともと中村医師のパキスタンでの医療活動支援のために、1983年9月に結成された組織であり、PMSも支援している。
アフガニスタンで、ふたたびタリバンが政権を担うようになってから、西側は経済制裁で足並みを揃え、日本も参加させられている。
その中で、タリバン以前のアフガニスタン政府の姿が浮かび上がってくる。
マフィアの存在である。
それでも、原理主義のタリバンのほうが、マフィアよりも強いようだ。
PMSや現地住民たちに言わせれば、マフィアよりも、タリバンのほうが歓迎されている。
灌漑事業などに対する現地住民の自立を促すPMSの活動で、それがわかってきた。(※2)
日本からの支援金が断たれて、灌漑事業継続の資金を捻出するために、用水路周辺の樹木を伐採し売却しはじめた。
幸いにも、植えられている樹木は再生が早い。
これらの植樹も、中村医師の功績である。

ところが、伐採で、問題が起きた。
伐採は禁じられているのだから、処罰される。
「せっかく緑が増えているのに、伐採するとは何事か」という話は、正しい。
しかし、灌漑事業の資金捻出のため、伐採せざるを得ない状況になっているのだ。
水がなければ、緑は育たない。
おそらくは、そういう説明がタリバン側へなされ、解決に至ったのだろう。
中村医師によると、タリバンは「話せばわかる人たち」だそうだ。(※3)

世界で起きている気候変動は、もちろんアフガニスタンにも干ばつをもたらす。
伐採せざるを得ない状況を作った西側に、責任の一端がある。
本当のところ、西側は、アフガニスタンの現地のことなど、どうでもいいのである。
白人の金儲けとメンツ。
白人優越主義しか頭にない連中なのだから。
(前出ニーチェによると、その根源となるローマ教会が最も悪い)



(※1)
 ペシャワール会は2022年12月に12年ぶりのアフガン訪問を果たし、その後5回の訪問が実現しました。PMS支援室メンバーは通算して、1年間のうち6ヵ月近くを現地での活動に従事したことになります。タリバン政権が2021年に復活し、戦闘が無くなり、治安が改善したことが、訪問できるようになったことの背景にあります。これが日本で報道されるアフガニスタンと実際に訪問して感じるアフガニスタンとの差異です。
(「ペシャワール会報 No.159 p2)

(※2)
 この問題を解決するヒントが2021年8月の政変時にありました。経済制裁が課せられ日本からの送金が不可能となったので、PMSでは資金を捻出するため用水路周辺や農場の周りに飢えられた柳やユーカリを伐採、木材や薪として売却しました。中村先生が進めた植樹は現在では百万本をゆうに超え、緑のトンネルが出来るほどになっています。また、ユーカリや柳は伐採しても再生が早いので、誇張して言うならエンドレスに換金できるのです。
 そこでPMSの提案は、@堰に関してはPMSが無償で補修を行い、Aそれにかかる重機のレンタル料等は、住民が用水路周辺に植えられた樹木を売って支払い、B用水路や護岸の補修工事については流域住民たちが行う、というものです。
 現タリバン暫定政権は国民に植樹を奨励する一方で、許可なしの樹木の伐採と土地の利用を固く禁じています。
 2021年8月15日の早朝7時、タリバンはジャララバードのPMS事務所のドアを叩き、土地の使用許可書、建物の使用目的、活動の内容などを取り調べました。PMSだけではなく全国全ての住宅、店舗、事務所等の調査を行い、土地の所有権利書や使用許可書を持たない建物については国土の借用とみなし、賃借料の支払いを命じたのです。
 PMSの職員たちはこの規則を歓迎しました。というのも、前政権時に、カシマバード用水路のすぐ脇に鉄筋コンクリートの家の建設が始まったことがあります。PMSと村人は苦情を申したてたものの聞き入れられず、灌漑局に陳情しましたが、「土地マフィア」による建設とわかると、政府の役人は怖がって対応しませんでした。タリバン政権になると、そのマフィアは早々に逃走したのです。
 今後PMSとしては、灌漑局や農薬局等と話し合い、樹木伐採の承認を得られることを願っています。
(「ペシャワール会報」No.158 p6)

(※3)
PMS支援室より
 本文で報告した樹木の伐採については、PMSは苦い経験と希望を持っている。タリバン政権に経済制裁が科せられたため、ペシャワール会は送金出来ない、また現地PMSは銀行から資金が引き出せない状況が続いた。今では引き出しに制限があるものの解決の道が見つかり全活動が通常通りに進められているが、一時は診療所の薬が買えず職員の給料も数ヵ月にわたって支払えなかった。そこでPMSは立派に成長していた用水路周辺や農場周りの樹木を売り、資金を捻出していた。
 ある日、責任者がガンベリ農場の奥で伐採作業をしている時、タリバン兵が来て責任者を逮捕するという。状況を察した職員が責任者にはジア医師の元へすぐに戻るように伝え、一方で近くのミラーン事務所で働くイスラム僧のムッラーハビブを呼んだ。僧の説明は効果があるだろうと期待したのである。しかし、ムッラーは拘束されてしまった。その時のジア医師の動きも早かったが逮捕の噂はすぐに広まり、シェイワやベスード、シギ村の長老たちが中村先生とPMSがこの地にもらたらした恩恵を説明し、ムッラーはすぐに解放された。
 中村先生が「話せばわかる人たち」と教えてくれた事を思い出す。今では伐採が必要になると農業灌漑局に理由を述べ作業をスムーズに行っていっる。
(前掲 p24)



posted by T.Sasaki at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月13日

カレンダーの教え 3

3回目。

説教カレンダーの3月は、次のように説教していた。

失敗から何も学ばなければそれは本当の意味での失敗となる

たいていは、失敗した時、なぜ失敗したのか、その原因を考える。
いさだ漁をやっていたが、思ったように網に入らないと、なぜ入らなかったのか、真剣に考える。
どの船頭もそうだろう。
考えない船頭は、とっくの昔に辞めている。
が、毎年、早く切り上げてしまう悪いくせを考えない私は、まだ船頭をやっている(笑)。

今夜のニーチェを書いた時点で、「老害」に登場するボロ住職のことを思い出した。
あんなボロ住職の言うことなんか、商売上の口上に過ぎない。
仏なんてものは、彼ら仏教界の人間たちが作ったもので、死んだら、灰になって、何も残らないのだ。
死骸はやがて自然界で巡回して、菌類その他の栄養成分になるだけだ。
アホらし!

喉の痛みを自分で治せなかった」で書いたように、もし、食道がんで死んでしまうことになったら、あのボロ住職の祈りに屈することになる。
そうなったら、非常に悔しい。
でも、そうならなかった。
老害を振りまく寺の住職に負けられない!
あっかんべー!

なぜ、あんなボロ住職が辞めないか、というと、私のように、誰も彼に意見しないから。
彼は、あの極小の声でお経を読んで、誰も文句を言わないから自分のやらかしている失敗を認知することがない。
だから何も考えず、「これでいいんだ」と勘違いする。
あのボロ住職は、一生の間、失敗を経験していないのかもしれない、あるいは、認知していないのかもしれない。
そうでなかったら、いつまでもやっているわけがない。
ニーチェみたいに敏感ではなく、非常に鈍感なのだ。
私は、あのボロ住職に、カレンダーが教えてくれた説教文句を、そっくりそのまま贈りたい(笑)。

失敗から何も学ばなければそれは本当の意味での失敗となる

posted by T.Sasaki at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自分の運命を愛せよ

ふたたび、こんばんは。

ニーチェ、最終回、たぶん。

ニーチェは、ローマ教の偽善を見抜いて糾弾したが、それだけではない。
どういうように人間は生きていくのか、という問いを自ら重ね、「永劫回帰」という考えに至った。
ニーチェ自身が病弱で、何度も体の調子が悪くなったり、良くなったりの繰り返し。
天才であるから、ズバっと意見すれば叩かれ、ローマ教会から攻撃され、それでも支援する人もいるから、自分を取り巻く情勢も、良くなったり悪くなったりの繰り返し。
だから、永劫回帰から逃れられない、という結論に達した。(※1)
彼は、永劫回帰を受け入れ、それを克服する方向へと進む。
それが「運命愛」であり、幸であれ不幸であれ、自分の運命を受け入れ、生きて行こうではないか、となる。(※2)

運命愛を受け入れる態度というのは、どうやら、不幸を前提としているようだ。
「にもかかわらず」という考えからは、社会生物学のハンディキャップ理論を思い出すが、彼の場合、これが人生だったか。よし、よかろう。それなら、もう一度味わおう!」ということになる。(※3)

弱者は神に救われる、というローマ教の戯言を否定したニーチェは、もう人間は、何かあっても、神のせいにはできない、と考える。
つまり、人間自身、自分自身の責任で生きていく、と。
それが、健全なのだ、と。(※4)

彼は、若い頃、ギリシア思想に感化され、ローマ教会が求めた「忍従と我慢と謙虚さ」なんてものより、もっと気楽に楽しく生きよう、と考えた。
そのために、LGBTをやったり、共同生活を試したり、いろいろとやった。
いろいろとやったし、勉強もやったし、一所懸命に考えることもやった。
人生なんてものは、宗教の規定するものなど、どうでもよく、自分の思ったとおり生きていけば、それでいい。
失敗は、永劫回帰と考え、できれば、次に同じ失敗をしないように、自分の責任で考える。
病弱な彼の人生は、激しかったのだろう、と想像される。

副島先生が「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」を出版してから、弟子の藤森かよこさんが、ニーチェに関するシリーズを3冊の本を出している。

「馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください」
「馬鹿ブス貧乏な私たちが生きる新世界無秩序の愛と性」
「ニーチェのふんどし いい子ぶりっ子の超偽善社会に備える」

誰の迷惑にもならない程度に、好きなように生きなさい。
ということのようだ。
これの裏は、もちろん、「奴隷になるな!」がある。
飽くまで、日本人を含むアジア人、アフリカ人をもてあそぶ白人優越主義者らの魂胆を見抜け、なのだ。



(※1)
 温泉地のマリエンバートと、スイスの保養地シルス・マリア(サン・モリッツのさらに山の中のほとり)で、ニーチェに新しい着想が湧きあがる。よい処だ。彼はこのシルス=マリアで新たに生きる勇気を得た。ニーチェはペーター・ガストに秘かに大きな思想の構想を書き送った。これが「ツァラトゥストラ」の原型だった。ここの山の湖で突然ニーチェを襲ったのは、「人生は気づいたら、同じことが何百回も繰り返されている。その場面に人間は出会い続ける」という思想だ。これが「永劫回帰」の思想だ。ドイツ語でEwige Wiederkunftという。この言葉をそろそろ皆で覚えましょう。だからこの「永劫回帰」は「己の運命を愛せよ」という「運命愛」という思想とセットである。
 永遠には、「二つの永遠」がある。ひとつは、無限で直線でどこまでも続く。もうひとつは円環である。円環しているとグルグルといつまでも回る。キリスト教は天地創造から世界の終末までを直線だとする。このとき「永遠」とは、直線の始まりと終わりとする。この動きの繰り返しだ。それに対してニーチェが尊敬するギリシア人たちは円環だった、と思いついた。ニーチェはこの後者の思考こそは素晴らしいものだ、と考えた。これはギリシア人の考えを再び受容することではなくて、同じことの永劫回帰(永遠の繰り返し)が突然彼に見えたのだ。この「同じことの永遠の回帰」は、そこから逃れることができない苦痛のニヒリズムとして本当に恐ろしいものである。自分の病気がまさしくこれだ。しかし、同時に、あるがままの自分の生を英雄的に受け容れ肯定することが崇高なのである。能動的ニヒリズムと、いきることの絶対的肯定は、ニーチェの場合、反ローマ教会の思想と常に対をなしている。
 だから、1880年1月の重い苦痛の日に、前出したマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク女史に次のように手紙を書いている。「この苦痛がどんなに苦しくても、私は私がはっきりと分かった自分の生について、偽りの証言をしません」。のちに有名になったニーチェの、“それにもかかわらず!”dennochの断乎たる精神は、彼が破壊的なアフォリスム(箴言)を世間に向けて投げつけることでこのとき表れたのだ。「それにもかかわらず」とは、「それでもなお、私はローマ・カトリック教会(が作って人類に押しつけたキリスト教)の奴隷の思想と闘う」、ということだ。
(「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」p253)

(※2)
1882年6月、ニーチェは母のナウムブルクの家から、5冊目の本の初稿ゲラをヴェネチアのペータ・ガストに送った。ヴェネチアにニーチェの本を出してくれる出版社があって印刷機があった。これが『悦ばしき知識』という本である。
 この本でニーチェは、ペシミズム(悲観主義、弱者の思想)を克服することに本気になった。ここで「運命愛」(amor fati)という言葉を打ち出した。運命への愛。自分の苦しい運命を自ら引き受けること。たとえどれほどの苦痛があろうとも自分の生を肯定することだ。それは打算的で計算づくの生き方の範囲をさらに超えることだ。生(生きること)の肯定は、イギリス人(ジョン・ロック)が考えるような、「幸せの総計は苦痛の総計を上回ることで合理的に根拠づけられる」のではない。生の肯定は、人間の厳しい「決意」によるものである。世の中が自分を悪しざまに扱ったからといって、自分の人生を罵り自傷するのは、間違っている。それは不自由で卑しい、奴隷の人間の徴である。自由で誇り高く、勇敢な人間は、たとえ、愛も信頼もなくしたときでさえ、自分の人生を愛し、信じる。したがって、ペシミズムとニヒリズムを克服することは、思想の課題ではなく、ひとりひとりの人間の問題である。ニーチェはひとりひとりの人間の価値を、その人がもつ道徳心の高さから測定(評価)することをしなかった。そうではなくて、その人が自分の人生にもつ「アモール・ファーティ(運命愛)」の能力で評価した。「こんなに苦しくても、それでもなお、自分は今のこの人生を生きる!」と言い切ることができる者、自分の人生を前に踏み進むことができる者のみが、永劫回帰にも耐えることができる。
 人々はこのような(ニーチェの運命愛の)態度を「宗教的」と呼ぶだろう。なぜなら、信心深い人は、世間が示す悪意ぐらいでは、自分の信仰心が揺れることはないからだ。しかし、ニーチェの己の運命への愛という新しい信仰には、宗教につきものの啓示(天から降りてくるもの)が欠けていた。だから本当は、ニーチェは自分の運命への愛を言うとき「信仰」のように話そうとしなかった。
(前掲書262)

(※3)
『ツァラトゥストラ』の核心に「権力への意志」、「超人」、「運命愛」、「同じことの永劫回帰」の思想がある。これらの考えには、ニヒリズムそのものの強い肯定がある。そして、その上でこのニヒリズムからさらに強いものとしてニヒリズムそのものの克服が同時に表現されている。
 永劫回帰(永遠に同じ経験に立ち戻りそれを繰り返す)の思想は、人生は果てしない苦しみだ、と考える者にとって、驚くべき発見である。この発見の恐ろしさそのものに自ら勇敢に耐えるべきだ、とする。自分の運命に耐えることがニヒリズムの克服の最初の一歩だ。ツァラトゥストラが要求するのは、そんな忍耐を遥かに超えるほど残酷なものだ。ツァラトゥストラが要求するのは、「それにもかかわらず」の思想である。すなわち、圧倒的苦痛にもかかわらず、それでもその苦しみを受け入れる運命への愛である。その魂はこう叫ぶ。「これが人生だったか。よし、よかろう。それなら、もう一度味わおう!」
(前掲書p270)

(※4)
「超人」の思想とは、道徳を否定する芸術作品の中で生きる天才の姿だ。社会ダーウィニズム(強者が生き、弱者は滅ぶ)的な「自然淘汰」(ナチュラル・セレクション)の肯定だとも理解される。すなわち、「弱い者は滅びてしまえ。強い者だけが生き延びるのだ」と。「神は死んだ」とニーチェは書いた(前ページ参照)。「神が決めるものではない。人間が決めるのだ」と宣言して出現した(オーギュスト・コントが創始した)ポジティヴィズムpositivismが、1822年に出現していた。このことで、「人類は神の殺害者だ」(神を葬り去った)となった。この時に、人間が存在することの目的は、人間自身の責任になった。もう神のせいにはできない。神の支配を拒絶した人間は、以後、自分自身を上に超えて高まらなければならなくなった。ニーチェの場合、この「上昇」(より上を目指すこと)が重要である。ニーチェは、魂の向上、上昇を常に追い求める。ニーチェという敏感で、病弱な人間が、燃えるような情熱を抱いて、精神と生命が結びついている「健全な人間」の像を追求する。
(前掲書p273)


posted by T.Sasaki at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

漁運丸が切り上げれば大漁になる

こんばんは。

木曜日に皆無食らって、切り上げ。

網のいせ直し.JPG

そしたら今日は大漁で、100万円越えだとか(笑)。
いつも、私が切り上げると大漁なんですよ、このいさだというやつは!
まあ、いつものことなので、乗組員たちも、「いいよ。いいよ」。
何より私自身が一番ダメで、「もう仕事したくない。温泉行きたい」という考えが、頭の中を占めてしまって。
昨年6月に、前沖に帰ってきてからというもの、断続的に漁にあたるものだから、「休もう。休もう」と思っていても、休めない。
ここで休んで、頭を少し冷やそうと考えている。

これには訳があって、最近の金市場が異常。

https://gold.tanaka.co.jp/commodity/souba/d-gold.php(「田中貴金属工業株式会社」)

で、7月に日本で新しい紙幣が出回る予定から、何も起こらなければいいが、と思っているが、この金の急上昇は、何だろう?と。
副島先生によると、この2024年がハイパーインフレ、新円切り換えで要注意だという。
そのインフレ度は、カネの価値が、最大で十分の一になる可能性があるらしい。
つまり、100万円が10万円、1000万円が100万円!
アメリカドルを世界中に刷り散らかしているから、いよいよ、ドルが崩壊し、日本の円に飛び火するのか!

雨風太陽の株をSMBC日興証券で買って、あとはそのままだが、その証券会社からのメールには、アメリカ株に関するセールスが非常に多い。
しかも、NISAを日本の国が推奨しているものだから、これって、日本人のカネをアメリカに貢ぐ構図なのかな、と疑ったりしている。
非常に怪しい。

カネの価値のあるうちに、必要なモノを買って(と言っても買うものもない)、温泉に行ってこよう(笑)。
そして、このまま何も起こらなければ、良しとすればいい。
posted by T.Sasaki at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月09日

キリスト教は、ウソに塗り固められた邪教である

3回目。
ニーチェについて、ふたたび。

ニーチェは、ギリシア語とラテン語をさらさらと読めた天才であった。(※1)
その天才が、ローマ教会キリスト教の偽善を見破った。
「弱者や虐げられた人こそ、神に愛される」などと大うそを世界中に広めた。
考えてみると、そんなことなど、あるわけない。
しかし、宗教を布教しようとする時、これは定番の言葉である。(※2)
そして、日本にキリスト教が日本に上陸する際、江戸幕府は邪教と見破っており、布教活動の妨害を行なった。(※3)

キリスト教は、精神病院みたいなものであり、僧侶たちは、他人の人生にたかる寄生虫である、とニーチェは断定した。(※4)
心にグサっと刺さる言葉を開発し、空想の世界を広げ、いや、妄想の世界を広げ、自然界の真実を無視し、現実逃避の物語を作った。(※5)
宗教とは、そんなものなのだろう。
そこに、心のよりどころを求めるのは自由であるが、広めるのは良くない。
しかも、それに異を唱える人たちを殺してきたのだから、ローマ教会キリスト教は、悪である。

ローマ教会は、変な平等主義をばら撒いて、個人の優劣をすべて同じにした。
神のもとでは、何でもできるのだ。
伸ばせば伸びる子も同じに扱い、育てることをしない。
ニーチェのような、洞察力のある、あるいは、本質を見抜く能力のある天才の出現を、宗教は嫌うのである。
この弊害が、現代社会の重しとなっている。
「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」を書いた副島先生は、この変な平等主義を否定し、伸びる子どもたちの芽を摘まないようにすべきだと言っている。
一方のローマ教会側では、「ニーチェはナチス・ヒトラーの思想の源流である」というデマを今でも流している。(※6)

ニーチェは、ローマ教会が説いた、忍従と我慢と謙虚さを否定した。
これにより、人間は、生きる力を失うと。(※7)
そうなのだ。
私たちは、忍従や我慢を誰に対してやらなければならないのか?
権力やそれを従える世界中の大富豪に対してか?
そう!
それがローマ教会の目的なのだ。
世界中の大富豪や権力者が、ローマ教会キリスト教を利用しているのだ。
さまざまな世界的施策を、私たちに強要する。

ニーチェは、社会主義もローマ教会キリスト教と同じだ、と切り捨てた。
根っからの労働者を、経営者へ故意に押し上げるなどというのは、無駄なことである。(※8)
私も、このことを少しわかる気がする。
もう何年も乗っている若者(20代)に、舵を握って着岸してみるよう促しても、「できません」なのだ。
スマホ世代の人で、車の運転も大好きでも、このような簡単なこともやりたがらない。
「商売をやってみたくないか?」と聞いても、「無理です」なのだ。
「給料をもらいたい。たくさんもらいたい。」とは言うが、その上には上がろうとしない。
強制的にやらせても、この場合、たぶんダメだろう。

ニーチェに糾弾されたローマ教会キリスト教は、邪教なのだから、派生してできた(だろう)統一協会など、もう完全に詐欺と同じだ。
話は脱線するが、統一協会とズブズブの関係にあり、しかも旧安倍派閥の裏金問題でもその金額が巨額であった萩生田議員は、軽い処分となった。
彼をまだ登用する自民党なら、もう見込みがない。
恥ずかしいと思わないのかね。

少し長くなるが、ここで、適菜収さんの「キリスト教は邪教です!」の翻訳について。
これは、超訳と呼ばれる訳し方である。
超訳にはいろいろな議論があって、原文に忠実に訳す翻訳業の人たちから異論が出ている。
しかし、副島先生は、日本人の理解できる範囲というのがあって、理解できるような訳しかたでないと、外国文化への理解は難しい、という観点から、優れた超訳なら、歓迎すべきである、としている。(※9)
実際に、「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」では、ドイツ語の原文、適菜訳、他の原文忠実訳などを比較し例示しているが、原文忠実訳では、意味が分からない場合が多い。(※10)
ドイツ語の原文を載せられても、私にはさっぱりわからないが、証拠として、載せているようなものである。




(※1)
 ニーチェは天才だから、ギリシア語とラテン語が、誰も近寄れないくらいにさらさらと読めた。
(「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」p153)
 ニーチェは20歳(1864年)でボン大学で学んでいるときに、フリードリヒ・リッチュル教授という人に、「天才が出現した」といって驚嘆された。
(「キリスト教は邪教です!」p132)

(※2)
ニーチェが宣言したとおり、ローマ・カトリック教会が、人間を奴隷にする思想を作ったのだ。「弱い者、虐げたられた人々、ほど神に愛されている」という巨大なウソを作って振り撒いた。そうして人類をローマ教会キリスト教の坊主(僧侶)である自分たちに額づく奴隷にした。同情、憐れみ、恩寵(神からの愛)、慈愛などの教え(教義)で、世界を支配した。まずヨーロッパの白人たちを洗脳し席巻し、そのあと植民地時代(1500年代。白人たちが支配したアジア、アフリカ、南米にもこのキリスト教という病気は広がった。ニーチェは、この偽善宗教をずっと、じっと厳しく見ていてその本性を見抜いた。だから、他人に簡単に同情(憐み)なんかするな、と断言したのだ。
(前掲書p61)

(※3)
 私は、ここに一冊の本を掲げる。この本は、『キリスト教は邪教です!現代語訳「アンチクリスト」』(講談社+α新書、2005年刊)という本である。書いたのは適菜収(1975年生)という若い評論家である。
『キリスト教は邪教です!』と書名で銘打っているからスゴいことだ。邪教とは、文字どおり、邪(よこしま)な宗教で、邪教や邪宗というコトバは「正しくない、人心を惑わす、よくない宗教」という意味だ。たしか、16、17世紀(西暦1549年から1641年までの92年間)に日本にしつこくやって来て、日本人を洗脳し乗っ取って、ローマ教皇への献げ物にしようとしたローマ教会キリスト教(とくにイエズス会)の宣教師(プリースト)である神父たちに対して、江戸幕府(徳川氏体制)が激しい恐怖感と憎しみを込めて命名したコトバだ。耶蘇教(会)はイエズス会のことで、キリスト教は天主教である。日本史学者たちは訂正しなければならない。
 この、ニーチェの『アンチクリスト』の超訳現代語訳の本は、自らの書名を「キリスト教は邪教です!」とはっきり書名で言い切っている。
(前掲書p69)

(※4)
 適菜は、ニーチェ思想の中心部分を次のように訳している。

 二千年間も続いてきた、まるで精神病院のようなキリスト教の世界・・・・私は人類が精神病院になってしまった理由を、人類のせいにしないようにと気をつけている・・・・この現代において、キリスト教を信じているのは、本当に許されないことなのです。怒りを通り越して吐き気さえもよおします。・・・・キリスト教の神学者や僧侶、法王の言葉は、すべて大ウソであるという常識は、現代に生きる皆さん(すなわち今の日本人である我々もここに含まれる―引用者、加筆)はぜひとも承知しておいてもらいたい。まあ、奴ら(キリスト教の僧侶たち)だって、「神」がいないことくらいわかっています。「罪人」「救世主」「自由意志」「道徳的世界秩序」などがデタラメだということも。・・・・僧侶(なるもの)の正体も明らかです。彼らはもっとも危ないタイプの人間であり、他人の人生にたかる寄生虫なのです。
(前掲『キリスト教は邪教です!』90〜91頁)

 このように適菜は一点の曇りもなく明確に訳している。
 ローマ教会キリスト教は精神病院だ、とはっきり、ニーチェが断言して言い切ったことを、正確無比に日本語に置き換えた。素晴らしいことだ。
(前掲書p71)

(※5)
ガラリヤ湖のほとりでバプテスマのヨハネ(ジョン・ザ・バプティスト John the Baptist)が、イエスにバプテスマ(洗礼)を施して、権威を与えたように、自分より若い人々の才能を発見し、認め、彼らを励まし応援することこそは年長者のするべきことだ。

 第一に、(キリスト教は)「神」「霊魂」「自我」「精神」「自由意志」などといった、ありもしないものに対して、本当に存在するかのような言葉を与えたこと(引用者注。大きなウソという意味)。
 第二に、「罪」「救い」「神の恵み」「罰」「罪の許し」などといった空想的な物語を作ったこと。
 第三に、「神」「精霊」「霊魂」など、ありもしないものをでっちあげたこと。
 第四に、自然科学(ナチュラル・サイエンス)をゆがめたこと。彼ら(キリスト教)の世界観はいつでも人間が中心で、自然というものを少しも理解していなかった。
 第五に、「悔い改め」「良心の呵責」「悪魔の誘惑」「最後の審判」といったお芝居の世界の話を、現実の世界に持ち込んで、心理学(サイコロジー)をゆがめたこと。
 まだまだありますが、ざっとこのようになるのではないでしょうか。
 こうした空想の世界は、夢の世界とはまた別のものです。夢の世界は現実を反映していますが、彼ら(キリスト教)の空想は、現実をねじ曲げ、価値をおとしめ、否定します。
 キリスト教の敵は「現実」です。なぜなら、彼らの思い描いている世界と現実はあまりにもかけ離れているからです。彼らは現実がつらいから逃げているにすぎません。
(前掲『キリスト教は邪教です!』36−37頁)
(前掲書p101)

(※6)
誰でもみな平等、みな平等といって、優れた人間の才能を認めようとしない。そして、この「人は皆、平等(に神に愛されます)」という悪平等の思想を作ったのも、まさしくローマ教会キリスト教である。それから、「人の命は尊い」と老人を100歳まで生かそうとするのもローマ教会が煽動した思想である。「もう死にたいよー。体が痛いよー」と苦しんでいる老人と重病者たちを死なせることができないで牢獄(煉獄、プルガトリオ)の中に置いているのもローマ教会である。彼らこそが諸悪の根源なのだ。だから、「ニーチェはナチス・ヒトラーの思想の源流である」という悪質な宣伝が今もなされている。
 ニーチェは「誰でもみな平等」という愚かな考えを嫌った人だ。「どんな人でも一所懸命努力し勉強すればできるようになる」というのはウソだ。できないのに無理矢理学校の勉強をさせるのは子どもの虐めだ。勉強が向かない子どもには、さっさと職人の職種などの労働者にさせたほうがいい。そのほうがずっとその人のためだ。
 ずば抜けて頭のいい人間は、たいして恵まれない環境であっても、自分で伸びていく。大事なことは、社会が邪魔をしないことだ。少しの肥料と栄養とチャンスを与えることだ。十分な太陽の日差し(日光)と水と栄養、それは人間を育てるのにも大事なことだ。
(前掲書p155)

(※7)
 ニーチェの2冊目の本は、『反時代的考察』(1873−1876年、29−32歳)である。ニーチェはこの本で、ヘーゲルがやったように、歴史の問題を過激な刀で切り裂いて見せた。
 世界史という、人類の血だらけ泥だらけの歴史がもつ意味は、あの威風堂々の劇作家であるシラーが見抜いたとおり、善悪のどっちであれ、人間の歴史はその偉大さの記念碑であるとする。常に決断を迫られる、人間の生のエネルギーそのものは、肯定されなければならない。生きていることのエネルギーを弱めるものは、すべて否定されるべきだ。その代表がローマ・カトリック教会である。彼ら坊主たちが、人間に忍従と我慢と謙虚さを強いてくるとき、人間の生のエネルギーは弱められる。
(前掲書p220)

(※8)
 ニーチェは、社会主義者(ソシアリスト)や、共和主義者(王政打倒主義者)、民主運動活動家(デモクラット)を嫌った。社会主義者たちが、貧困層や労働者の哀れな現状と、その待遇改善を求めて彼らを煽動するのは、間違っている、とニーチェは保守言論人として撥ねつけている。以下にその証拠の文を載せる。

 革命論における妄想。
 ―あらゆる秩序の転覆を熱烈雄弁に煽動する政治的・社会的空想家たちがいる。そのときは、ただちに美しい人間性のもっとも誇らかな神殿がおのずから聳え立つであろう、と信じて。
 こうした危険な夢想には、人間性の奇蹟的で根源的な、しかしいまや埋もれてしまった善良さを信じて、社会、国家、教育、文化の諸制度に、今では埋められてしまったあらゆる罪を負うべきルソーの迷信が、まだ余韻を残しているのである。
 遺憾なことだが、そういう革命はどれも、もっとも遠い昔のとうに葬られてしまった凄惨で無節操なものだ。人間のもつ荒々しいエネルギーを、改めて復活させるという点で、革命は、多分に疲れてしまった人類のための今も一つの力の源泉ではありえよう。が、しかし決して人間性の整頓者・建築家・芸術家・完成者のものではない。このことを、人類は歴史上の経験から知っているのである。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的T』池尾健一訳、ちくま学芸文庫、463節、一部改訳)

 このようにニーチェは、反革命であり、反社会主義者だ。それは、ニーチェが自分の先生であった(31歳上)ヴァーグナーやカール・マルクス、ドストエフスキーたちが参加した、燃えるような情熱による「人間が新しくなる。人類の理想の世界が出現する。建設ができるのだ」に対して、ニーチェは、そんなものは「空想、夢想、神殿建設・・・・凄惨で無節操・・・・」であり、「人類は(この敗れ去った空想たちのことを)歴史上の経験から知っている」と書いている。ニーチェは保守思想家である。だから、日本でも一部に受けるのだろう。
 別のところでニーチェがはっきりと書いているとおり、労働者たちは、それぞれの自分の仕事(労働)をすることで、その中で仕事の達成感と社会参加(仲間たちとの交友)、で喜びを感じていればいい。「それを、使用人(労働者たち)を主人(経営者、金持ち)にしよう、というのは間違った考えだ」とニーチェは言った。
 貧しい者たちの解放を唱える社会主義者(カール・マルクスたち)の思想は、「貧困者たちこそが天国に一番近い」「貧しき者たちほど神に愛されている」としたローマ教会キリスト教の巨大な偽善とまったく同じだと、ニーチェは激しく言い切った。それは「新しい千年王国の建設運動だ」と。キリスト教(パウロの思想。ローマ教会。および新教徒系も)と、社会主義(カール・マルクスたちの思想)のどちらも、現実の世界には有りもしない、実現することはできもしない千年王国(ミレニアム・弥勒下生。メシア[救世主]の再降臨 the Second Advent)を求める、人類の理想社会の実現を求める宗教である、とニーチェは言い切った。
 そして「労働者(サラリーマン)の解放」はついになかった。今も大半の人間は奴隷のままだ。自由人のふりだけさせられている奴隷の群れだ。人類はニーチェからあとの100年間の闘い(20世紀。1900年代の100年間)で、世界各国で、理想社会を希求する血みどろの激しい革命闘争はあった。しかし、資本家(経営者)という人間たち以外に、労働者(サラリーマン)にご飯を食べさせること、給料を払うことができる人々は出現しなかった。貴族や国王(王様)たちは形上滅んだ。しかし権力者(支配者)という特異な人々は残った。20世紀の100年間で、二つの世界大戦があった。
 多くの国々での社会主義革命は、二つの世界大戦を経て、戦乱のあとの平和によって、ニーチェが言ったことのほうが正しかったことが分かった。この地上にはキリスト教による、またマルクス主義による救済(サルヴェイション)の両方はなかった。だから私たちはニーチェの思想を認めなければいけない。カール・マルクスは言ったのだ。「ヨーロッパ社会に、今よりももっと大きな巨大な生産能力が生まれて、人間がみな働かなくてもいい(すべてロボットとコンピュータがやる)社会が生まれたときに、そのときに人類は(革命的暴動を経て)社会主義の段階の社会に到達する」と言ったのである。それでもマルクスの負けだ。いくら、マルクス主義思想を、いまだに国家の看板に掲げている社会主義国があっても、それらの実態は、キレイごとでは済まない。実情は悲惨である。やはり資本主義(カピタリスムス)の法則である、すべてお金で人間は縛られる、の法則で、どこの国も動いている。そしてロボットとコンピュータができない細々とした配膳係のような下層労働ばっかりを今も人間がやっている。この哀れな現実に私たちは顔をひきつらせて嗤うしかない。
(前掲書p94)

(※9)
 超訳というコトバは30年前(1987年)に一時流行った。超訳なるものを批判、非難する主に翻訳業の人たちの声もあった。総じて私は超訳に賛成である。超訳は一時代前の「ハーレクインロマン小説」の、平易で容易な日本(語)文への移し替えをやらなければ、読み手である日本人読者に負担がかかり過ぎることから起きた問題であった。この「超訳を許すべきか、否か」は、実は今も深刻に翻訳業界、翻訳家たちの世界に存在する。正しく原著者の考え(小説であったも)を平易かつ分かり易い翻訳文にして、読者に与えてくれるのなら、それは、外国文化の移入としてあるべきことである。
 適菜収の超訳の訳文は素晴らしい。もうこれ以上の、ニーチェ理解はない、というぐらいに、ニーチェが最後の思想として行きついた涯のところの集大成である『アンチクリスト(反キリスト)』(1888年、ニーチェ44歳の、脳がすり切れる直前の正気のときの最後の作品。前述した)を、正確無比にきわめて平易な現代日本語の文にしてくれている。適菜収という人は、非凡な才人である。彼のニーチェとゲーテ作品の日本語への置き換えこそは、もっぱら輸入業者でしかない私たち知識人層を抱える日本国にとって掛け替えのないものである。私、副島隆彦はこのように断言する。適菜収は、1975年生まれで、2005年に、わずか30歳のときに、この本を出版している。彼は私(1953年生まれ)より22歳下だ。大学を出て、出版社等に勤務していたそうだ。私は敵菜収を尊敬する。この人のニーチェ理解の正しさは天を衝いている。
(前掲書p70)


(※10)
 もう一か所、示す。まず適菜訳から。

「神聖に大ウソをつく」というキリスト教の技術は、ユダヤ民族が数百年(引用者注。数千年ではない。本当にたかが数百年だ)にもわたって作りあげてきたものです。・・・・
 そういったデタラメなものに、全人類、そして最高に頭のよい人たちまでがダマされてきました。たった一人の人でなしを除いてね。つまり私(ニーチェ)をのぞいて。
 これまで『新約聖書』は純真で清らかな書物とされてきました。これは人をダマす高度なテクニックがあった証拠でしょう。・・・・
キリスト教のバカたちは「裁いてはいけない」などと言います。が、彼らは自分たちの邪魔になるものは、すべて地獄へと送り込むのです。彼ら(キリスト教の僧侶)は、「神が裁く」と言いますが、実際には彼らが裁いているのですね。・・・・
『新約聖書』は「道徳」で人をおびき寄せます。
「道徳」は、くだらないキリスト教の僧侶たちによって、差し押さえられました。彼らは「道徳」を利用して人々を支配できることを知っていたのですね。・・・・
 ほとんど妄想の世界です。・・・・
 こうして精神病院に入れられるべきユダヤ人たちは、自分たちに都合がいいように、あらゆる価値をねじ曲げていきました。
 このようなことが起きたのは、誇大妄想を持つユダヤ民族がいたからです。
 ユダヤ人とキリスト教徒は分裂しました。が、やったことはまったく同じこと。
 キリスト教徒とは、ちょっと自由になったユダヤ人にすぎないのです。

このように適菜収は見事に訳している。これ以上の素晴らしい西洋理解の日本文は有り得ない。至上の名文だ。ではその原文忠実訳は、次の通りだ。

 神聖に虚言するという技術としてのキリスト教のうちでは、全ユダヤ精神が、いく百年にもわたってユダヤ人の最も真剣に磨きあげてきた予備訓練や技術が、このうえない名人芸となっている。・・・・
 全人類が、最良の時代の最良の頭脳すらもが(おそらくは人非人とでも言うよりほかない一人をのぞいては―)欺かれてきた。
 福音書は無垢の書として読まれてきた・・・・これは、どれほどの名人芸でここでは演技が演ぜられていたかを語るなみなみならない暗示である。・・・・
 人は惑わされてはならない、「審くことなかれ!」と彼らは言うが、しかし彼らは、彼らの道に立ちはだかるすべてのものを地獄へと送りこむのである。彼らは神をして審かさせることによって、彼ら自身が審くのである。・・・・
 福音書は道徳で誘惑する書物である、とこころえて読むべし。道徳はこれらの卑小な者どもの手で差し押さえをうけているのである、・・・・彼らは、道徳で何をしでかしうるかを承知している!・・・・
 これこそ、これまで地上にあらわれた宿業きわまる誇大妄想の最もたるものであった。・・・・
 どんな種類の気狂い病院に入れても申し分ない卑小な最高級のユダヤ人どもが、あたかも「キリスト者」にしてはじめて余人全部の意味、塩、尺度であり、また最後の審判ででもあるかのごとく、おのれたちにふさわしいように価値一般をねじまげたのである。
 この全宿業が可能であったのは、これと近親な、人種的に血縁のある誇大妄想の種類、ユダヤ的誇大妄想がすでにこの世にあったということのみによる。
 ひとたびユダヤ人とユダヤ人キリスト教徒とのあいだに裂け目が開かれるやいなや、後者には、ユダヤ的本能がすすめたのと同一の自己保存の手続きをユダヤ人自信に対して適用すること以外には、なんらの選択もまったく残されていなかった。が、他方ユダヤ人は、それまでこの手続きをすべてのユダヤ的ならざるものに対してのみ適用してきたまでのことである。キリスト教とは「いっそう自由な」信条をもったユダヤ人であるにすぎない。
(『偶像の黄昏 反キリスト者』ちくま学芸文庫、原佑訳、1994年、232−235頁)

 この堅ぐるしいニーチェ原文の訳文を読むと、私たちは、頭がヘンになる。それでもこれが原文忠実訳である。いい訳文なのだ。翻訳者である原佑氏は何一つ間違った訳をしていない。正確に訳している。そして、それでこの分からなさである。これではニーチェ思想に従ってキリスト教、ローマ教会イエズス会を打ち破れない。彼らの正体に私たち日本人が行きつくことができない。私は適菜訳の中から抜粋で重要な箇所を選び出した。だから、厳しい原文忠実の訳文と照らし合わせ、適菜訳文を再度読むことで、「ああ、本当だ。ニーチェはこのようにこんんあスゴいことを書いていたのだ」と納得がゆく。
(前掲書p77)

posted by T.Sasaki at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いさだ史上最高値!

ふたたび、こんばんは。

昨日で、いさだ漁を切り上げようとしたら、帰港中にたまたま魚群に出会い、そこが漁場となった。
同じ曳き方でも、入ったり入らなかったりで、先生たちも苦戦。
下手くその私が獲れるわけもなく、それでも市場に寄った。
史上最高値のキロ当たり296円!
大船渡では、350円との噂も。

異常な高値が出始めると、その漁業は末期的と言える。
いさだ漁業は、もう何年も持たないのではないか。
親潮が弱くなって、黒潮が強くなったのが、大きな理由らしい。

posted by T.Sasaki at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | いさだ漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

喉の痛みを自分で治せなかった

こんばんは。

2月末から3月初めにかけての断続的な大雪で、私は、久しぶりに風邪をひいた。
1日で治ったが、喉が痛くなった。
ご飯を食べるにも、唾を飲み込むにも、痛みをともなう。
半月ぐらい経っても、治らない。
そこで、先輩に相談したら、その先輩も、風邪をひいて喉が痛くなり、病院へ行って抗生剤を処方され、すぐに治ったそうだ。
「どうせ治るのなら、そのまま放っておけ」と考えて、我慢した。
「はちみつが救ってくれる」と。

一ヵ月経っても、痛い。
ご飯も思うように食べられるわけでもなく、酒も飲まなくなった。
毎晩、寝汗をかく。
そして、いよいよ体重が2kg減った。

私は、以前から気になっていた胸焼け、つまり、逆流性食道炎から、食道がんにいよいよなったかな、と思った。
胸焼け自体は、かなり改善されていたが、どうも自信がない。
「もう、ポックリでいいや。この世にあまり未練もないし」と考え、手遅れを歓迎したが、それでも痛みというのには、我慢がならない。
妹にも、「病院に行って、食道がんなら、それからいろいろと考えればいいじゃない!」とお叱りを受け、「そうだなあ。がんならがんであきらめ、身辺整理しておけばいいか」と考えなおし、病院へ行ってきた。

画像診断では、食道上部はきれいで、異常なし。
喉のみの炎症で、やはり抗生剤の点滴と飲み薬を処方され、翌日には、食欲もりもりで、体も元気になった。
乗組員たちには、「素直に病院に行っておけば、一ヵ月も苦しまなくてよかったのに!」とバカにされた。
自分の免疫力を過信したのが悪かったのか。

それでも、はちみつの効用はある。
確実にある。
私の逆流性食道炎は、ほぼ完治に近い。
ネキシウムという薬は、頓服薬程度しか利用しない。
これを真面目に飲んでも、逆流性食道炎は、治らない。
飲み続けなければ、また胸焼けを起こす。
飲み続けていても、飲んだ間際には、胸焼けを起こすようになる。

今日、こんな記事がアップされた。

https://nofia.net/?p=19298(「BrainDead World」)

ネキシウムという薬は、プロトンポンプ阻害剤だ。
プロトンポンプ阻害剤の長期使用で、がんのリスクが上がる。
やっぱり、薬の常用は良くない。

胸焼けで苦しむ人は、混ぜもののないはちみつを食べたほうがいい。
そして、食べすぎないこと。
この二つに尽きる。
posted by T.Sasaki at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする