こんばんは。
ニーチェについては、3回に分けます。
いろいろとあるもので。
ニーチェという人は、「アンチクリスト」という本を書いた。
これを翻訳して日本に知らしめたのが、副島先生が取りあげた適菜収さんの「
キリスト教は邪教です!」である。
その後、ニーチェは「エッケ・ホモ」を書いている。
「アンチクリスト」を題名から想像すると、反キリスト教なのであるが、実際には、ニーチェは、イエス・キリストを嫌っていたわけではない。
(※1)むしろ、イエスを好意的に捉えている。
(※2)ニーチェは、ローマ教会の本質を捉え、偽善的な顔をしたペテロ・パウロ教を嫌ったのだ。
(※3)この時代、ローマ教会に逆らう、ということは、ほとんど誰にも相手にされなくなった。
その表現が、「エッケ・ホモ」である。
「エッケ・ホモ」とは、オランダ人画家のヒエロニムス・ボッシュの作品で、パリサイ人に囲まれ嘲笑され、やがて十字架にかけられるイエスを描いている。
この「エッケ・ホモ」を自分になぞらえた。
ヨーロッパで宗教戦争が起きたのを、私たちは学校で教えられ、「そういうのがあったなあ」程度の薄々とした記憶しかない。
これが曲者で、この時代、ヨーロッパでは、ローマ教会が、たくさんの人を殺した。
宗教が弾圧されたのではなく、宗教団体が、人々を弾圧したのだ。
(※4)このような背景を知って、ニーチェをはじめて理解できる。
ニーチェの死後、彼の本が、息長く読まれる理由はここにある。
彼の言うことは、こういうことだったんだなあ、と。
彼は、ドイツ民族が、ヴァーグナー(ワーグナー)の音楽によって、自民族優越主義を増長し、いずれ、不幸(第一次、第二次大戦)が訪れることも予見していた。
ここで、ヴァーグナーが出てくるが、ニーチェの才能を見出した一人がヴァーグナーであり、そして、ワーグナーとニーチェは、短期間だが同性愛者だった。
ヴァーグナーは、ルートヴィヒ2世とも同性愛だった。
(※5)200年以上も前からLGBTは現実にいて、しかも王様や芸術家、知識人たちに混じっていた。
今さらLGBTを認知せよ、などというのは、暇人の寝言にしか聞こえない。
「彼は変節した」として、その後ヴァーグナーとは決別し、今度は徹底的にヴァーグナー批判を展開する。
ニーチェは、一直線に進む天才であった。
(※1)
ニーチェは次のように書いている。「イエスは、善かつ正義なるものとされる者たちの魂を正確に見抜き、見透かし、こう言った。あれはパリサイ人(偽善者)だ、と。しかし、ふつうの人々は、そのように言う人(イエス)の言葉を理解できなかった。人々には真の人(イエス)の言葉を理解する能力がない」。善かつ正義なるものとされる者たち(すなわち、イエスを神棚に置き、イエスを崇拝させ、人々にひたすら拝ませたカトリックの大司祭たち)の底知れない悪に人々は気づかないのだ。彼らカトリック(イエズス会)の司祭たちこそは、現代のパリサイ人なのだ。パリサイ人たちは、底知れずズル賢い!人間(人類)をどこまでも騙す。
(「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!」p277)
(※2)
イエスはやはり自由な精神を持った人だ。なにしろ、イエスはすべての決まりごとを一切認めなかったのですから。
イエスは、生命や真理、光といった精神的なものを、彼の言葉だけを使って語りました。そして、自然や言葉といった現実の世界にあるものは、彼にとっては単に記号としての価値しかありませんでした。
(私たちは)教会にダマされそうになっても、こういった視点を忘れてはいけません。
イエスという人は、歴史学や心理学などの学問とも、芸術や政治とも、経験や判断、書物といったものとも、そしてすべての宗教とも、なんのかかわりあいもないのです。
イエスは文化も知らないので、文化と闘うこともないし、否定することもありません。国家、社会、労働、戦争などに対しても同じこと。
つまり、イエスは「この世」を否定する理由を持っていなかったのです。
「この世」は(キリスト)教会が作り出した考えであって、イエスはそんなことを思いついたことさえなかった(引用者注。ローマ教会は、イエスの死後ローマに現れた信者たちの集団だ。西暦64年、皇帝ネロの迫害でペテロとパウロが殉教した)。
イエスにはものごとを否定することはできません。
イエスは、論理を使って考えることもなければ、「信仰や真理が、きちんとした根拠をもって証明されるかもしれない」などと考えたこともありませんでした。
(前掲『キリスト教は邪教です!』82−83頁)
(前掲書p105)
(※3)
同じキリスト教の中で、正統派を自任するローマ・カトリック教会は、その正体はペテロ・パウロ教であるから、彼らは、本心では自分たちの神父が神に祀り上げたイエス・キリストを、本心では嫌っている。信じていない。救世主(Messiah,christ)が再び現れるかどうかは分からない、とする。だから、イエスという男よりは自分たちの歴代のローマ法王(Pope)のほうを拝みなさい、となる。ここがローマ教会(カトリック)がものすごくズルい点である。
(中略)
カトリック(ローマ教会)に対して、激しく抗議(プロテスト)する人々がヨーロッパに現れた。プロテスタントである。このあと200年間さらにヨーロッパ全土でたくさんのプロテスタントが殺された。それでもプロテスタント(新教徒)たちは信教の自由を勝ち取った(1648年、ウェストファリア条約)。
(前掲書p190)
(※4)
話を再度戻すが、この絵を描いたのは、ヒエロニムス・ボッシュ(Hieronymus Bosch 1450-1516)だ。このとおり、ものすごい絵だ。この絵は、北方ルネサンスのオランダ民衆の決起、そして血みどろの弾圧、虐殺が起きていた1480年ぐらいに描かれた作品だ。かつ、北ドイツではマルティン・ルター派のプロテスタント都市同盟(シュマルカルデン同盟)と、神聖ローマ帝国軍(皇帝カール5世)が血みどろのシュマルカルデン戦争(1546-1547)を戦い、多くの同盟都市が焼かれ、虐殺が続き、ルター派プロテスタントたちは、このあと100年間、負け続けた。
ドイツ三十年戦争(1618-1648)をこの中に含んでいる。こうしてほぼ百年続いた宗教戦争(ドイツ人の3分の2が死に、全土が焼け野原になった)とまったく同じ時代だ。多くのプロテスタントが、ローマ教会の名で、拷問にかけられ、木に首を吊られ、火あぶり刑にされた。だから今もある、ローマ教会キリスト教こそは人類の諸悪の根源なのである。だから、今からでもこの勢力を廃絶しなければいけない。このときオランダでも、スペイン帝国(こっちは神聖ローマ帝国の弟分。同じハプスブルク家)から独立するための、血みどろの戦争があった。この「オランダ独立八十年戦争」(1568-1648)が始まった不穏な時代の空気をボッシュは描いた。ボッシュは初期フランドル派と呼ばれる。そんなに生易しい男ではない。怒りを込めて真実を絵の中に塗り込めて今に伝えた。
ボッシュのこの「エッケ・ホモ」は、捕まって縄で縛られて、ぼろぼろになって引き立てられていくイエスを、エルサレムの多くの市民たち(パリサイ人)が城の下のほうから見上げて指さしながら、みんなで嘲笑っている。だから、「この人を見よ」(Ecce homo)とは、天才である私ニーチェをみんな見よ、という意味ではない。そうではなくて、逆に惨めに裸にされて引き立てられて、この後、十字架で殺されるイエスの姿なのだ。ニーチェは、自分は、このイエスそのものだ、と言ったのだ。預言者(prophet)であるがゆえに、誰からも理解されないで、変人扱いされて死んでいく人間なのだ、と。
このことを日本人は理解しない。ヨーロッパ近代が生まれるまでの苦しい闘いが分からない。誰が虐殺者なのか。誰が巨大な宗教(による)弾圧をしたのか。宗教(への)弾圧ではなかったのだ。このことを私たちは少しは本気で考えてみるべきだ。「宗教(信仰)の自由は、何があっても守られなければならない」と、寝言のようなことを言っていてはならない。ローマ教会キリスト教こそはヨーロッパ史で最大の弾圧者であり、虐殺者だったのだ。ニーチェは、自分自身のことを、イエスという男に仮託して、惨めに引きずり回されて殺された人間と同じなのだ、と自覚していたのだ。
(前掲書p53)
(※5)
ニーチェも相当にピアノが弾けて、みなの前で、ヴァーグナーとその家族、友人たちの前でもよく弾いている。その場の即興の曲を、夕食会のあとの語らいのときにもニーチェは弾いている。
「ニーチェ教授のピアノは、大学教授にしては、まあまあの腕前だね」
とヴァーグナーにホメられている。この二人の親密さは、こういう感じなのだ。
ヴァーグナーは、その前の少し若い頃(1864年くらい)、バヴァリア(バイエルン)国の国王ルートヴィヒ2世と愛し合っている。ミュンヘンの王室だけでなう、あのノイシュヴァンシュタイン城(“新白鳥石”城)でも、二人で芸術至上主義の夜をずっと過ごしている。バイエルン国の高官(宮廷貴族)たちが、自分たちの王様の、ヴァーグナーの異常な熱愛(同性愛)を相当に心配している。二人を引き離そうとして、いろいろ邪魔して画策した。
それでも国王ルートヴィヒ2世(1845−1886。ヴァーグナーより32歳下)は、ヴァーグナーの音楽・劇作に入れあげて支援金の散財を長年した。だから、バイエルン国の大蔵大臣(財務長官)がヴァーグナーに対して、ずっと怒っていた。後年、バイロイト祝祭劇場をヴァーグナー夫妻が造るときにも多大の支援をしている。
(前掲書p138)
posted by T.Sasaki at 17:26|
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