こんばんは。
佐野眞一さんの「阿片王 満州の夜と霧」というノンフィクションを読んだ。
2005年に出版された本である。
これは、第二次世界大戦の前半、日本が建国して消滅した満州という国について記したものだ。
そこに深く関わった人物、里見甫(はじめ)とそれを取り巻く人たちの物語である。
佐野眞一さんが、書くに至った動機として「あとがき」に記しているが、なぜ、日本が高度経済成長を成し遂げることができたのか、その遠因は、満州にあるのではないか、という仮説を自分で立てていたからである。
(※1)その前段で、里見の息子の関する「故里見甫先生 遺児里見泰啓君後援会 奨学基金御寄附御願いの件」の文書を見つけた。
これに列記してあった発起人の顔ぶれが、異常であった。
本格的な取材は、これに端を発して始まった。
里見甫は、超のつく大物だったのである。
里見は、中国で阿片という麻薬を取引した日本人である。
阿片といえば、アヘン戦争であり、これを使って中国人を苦しめたのは、学校でも教える。
(※2)ところが、満州国建国から日中戦争に至るまで、日本人もアヘンを使って、中国人を苦しめている。
このことは、学校では教えない。
白人優越主義により、イギリス人たちは中国人をゴミのように扱ったのだが、日本人も真似をして、中国人をゴミのように扱った。
(※3)私は、過去、鈴木明さんの「南京大虐殺のまぼろし」という本を読んだことがあり、その続編、「新南京大虐殺のまぼろし」も読んだ(二つとも津波がどこかへ連れて行った)。
この中に、アヘンを日本軍が利用した話は、一つも書かれていなかったような気がする。
当時の中国社会、特に、上海社会は、人命を何とも思わない空気に包まれていた。
(※4)このような社会で、アヘンを使って、日本軍は戦争を行ったのだ。
そこに、「虐殺はなかった」というのは、明らかに無理があると思う。
里見は、アヘンの販売のみを扱い、アヘンの利益の管理は、日本の国家機関である興亜院が管理していた。
したがって、アヘンの莫大な利益で、日中戦争を戦うことができたのである。
国家機関が管理していた、といことは、当時の総理大臣以下、中国方面に関わった軍関係者は、すべて、アヘンのことを知っていた、と捉えていい。
そのメンバーが、上記、遺児奨学金の発起人たちである。
岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、佐藤栄作などなど。
で、昭和天皇はどうだったのか?の問うことができると思うが、天皇には、「アヘンを使ってはならぬ」という意志があったようだ。
(※5)日本軍は、中国の経済混乱も狙って、ニセ札も刷った。
(※6)何が大東亜共栄圏だ!
今でも、そんな都合のいい話をしている日本人がいるなんて、何と恥ずかしいことだろう。
麻薬で現地人を騙すなど、まともな人間のすることではない。
(※1)
日本は、敗戦後十年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。それは、わが国がいち早くアメリカの核の傘の中に入って、軍事防衛問題をほとんど、アメリカという世界の警察国家にまかせっぱなしにし、経済分野に一意専心することができたからにほかならない。昭和25(1950)年に勃発した朝鮮戦争による特需景気は、その先駆けをなすものだった。
だが、そうした側面もさることながら、日本の高度経済成長のグランドデザインは、かつての満州国を下敷きにしてなされたような気がする。時の総理大臣として、高度経済成長に向け号砲を打ったのは、将来の総理大臣を嘱望される安倍晋三の祖父の岸信介である。その岸が産業部次長として満州に赴任し、満州開発五ヵ年計画を立て満州国の経済政策の背骨をつくって、後に「満州国は私の作品」と述べたのはあまりに有名である。
世界史的にも類をみない戦後の高度経済成長は、失われた満州を日本国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。そんな思いが私をきつくとらえていた。戦後高度成長の象徴である夢の超特急も合理的な集合住宅もアジア初の水洗式便所も、すべて満州ですでに実験済みだった。
(「阿片王 満州の夜と霧」p9)
満州国の首都の新京には上下水道が整備され、東洋でははじめて水洗便所の敷設も新京からはじまった。大連には東洋一を誇る病院があり、市街地はアスファルトで舗装され、主だった住宅にはセントラルヒーティングが施された。主要都市のデパートには、日本内地でも入手できない高級舶来品があふれていた。
前掲の『実録・満鉄調査部』に、日本と満州の生活レベルを比較している箇所がある。
〈満鉄の、たとえば付属病院にゆくと、給湯装置は完備していたし、医療器具は自動化された滅菌装置のトンネルからベルトで流れてくるのだった。
満鉄本社には600台のタイプライターが唸りをあげ、電話はダイヤル即時通話であり、大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理され、特急「あじあ号」は6輌編成で営業速度130キロをマークしていた〉
満州国建国のプランナーは石原莞爾は、満州国を植民地化しようとするあらゆる勢力に猛烈に反対した。昭和12(1937)年の日中戦争勃発時、参謀本部作戦部長だった石原は、不拡大方針でことに臨んだ。石原が主唱する世界最終戦争の一方の主役たるべき東アジアブロックの形成が台無しになることを恐れたからである。
そして、最後は満州国の日本からの独立を主張して軍部の不興を買い左遷された。もし石原の主張通りことが進めば、石原はいわば日本のジョージ・ワシントンとなり、東アジアの一画に、日・漢・朝・蒙・満の5族を中心とした東アジア諸民族が居住するアメリカ合衆国なみの多民族国家が誕生していた可能性がある。
(前掲書p105)
(※2)
アヘンが中国で習慣的に吸飲されるようになったのは、17世紀はじめ、オランダの植民地だったジャワから明朝末期の中国南部にもたらせてからである。強い習慣性をもつアヘンは、一度体験すると忘れられない陶酔感があるところから、苦しい禁断症状をともなうにもかかわらず、たちまち中国全土に広がっていった。
イギリスの東インド会社による中国へのアヘン輸出がこれに拍車をかけた。東インド会社が植民地インドのアヘンを中国に輸出し、中国はイギリスに茶や生糸を輸出し、イギリスはインドに綿製品を輸出するという、有名な三角貿易システムが完成するなかで、中国におけるアヘン需要は増加の一途をたどった。
(中略)
清朝は増大する一方のイギリスからのアヘン流入に対抗するため、自国のケシの栽培を奨励するという一か八かの苦肉の政策をとった。これが裏目に出た。『東亜共榮圏建設と阿片對策』は、アヘン戦争の敗北によって清朝のアヘン輸入が強制的に増え、それが莫大な国家的損失をもたらした、と述べている。
〈支那が如何に地博物大にして富裕を誇ってゐたとしても、年々4700万両(現貨にして30億円)の銀がイギリスに吸飲せられてゐたとしたら、支那の滅亡は坐して待つのみであろう。支那が当時この銀流出に対抗し得る唯一の方法は、自國内に罌粟栽培を奨励してイギリスよりの輸入を防遏するより外に致し方がなかったのである。
道光帝は浩嘆しながらも涙を呑んで此の手を打ったのである。その結果として支那は無制限の罌粟栽培と、停止する処を知らない阿片の氾濫に、拱手傍観するより外に術はなかったのである。
支那が阿片戦争迠惹起して防遏しやうとした阿片嗜好の流行は、尚一層激しい勢で、全支に向って燎原の火のやうに燃え拡がって行ったが、直接の目的とした英国よりの阿片輸入は遂年激減して行く効果は明らかに現はれて來たのであった。歴代の清國政府は阿片禁断の方策を樹立しては取締に力を致して來たが、一旦之が習慣に染まった全国の癮者は、迚々強制し難いことは今も同じである〉
ではこの当時、中国にはどれだけの数の阿片癮者がいたのか。『東亜共榮圏建設と阿片對策』の著者は、最低で見積もっても人口全体の3パーセントはあると推定した上で、次のように結語している。
〈4億5000万の総人口中1350万といふ数字が一應擧げ得られる。この癮者が1人平均30両を消費すると仮定して4億500万両である。生産地の自場消費等低廉な価格も考慮して平均1両10元としても、40億5000万元に当る。是が一縷の煙として消費せらるゝのかと考へれば慄然たる計数ではないか〉
その後、中国ではアヘン吸飲に対し厳格な禁圧措置が何度もとられ、違反者を公開で銃殺刑に処することまで行われた。だが、アヘンを撲滅するには程遠かった。その温床となったのは、国民党政府が樹立されてもなお地方に数多く残存する軍閥の存在だった。
彼らにとってアヘンは貴重な収入源であり、配下の者たちの闘争心を煽る恰好の向精神薬だった。各地の軍閥はケシの栽培を争って奨励し、アヘン争奪がしばしば内戦の火種となった。軽量で高価なアヘンは、通貨と同等と見なされ、満州国が建国される前には、中国は再び世界最大のアヘン市場となっていた。
(前掲書p134)
(※3)
満州帝国とは、アヘンの禁断症状と麻痺作用を巧みに操りながら築かれた、砂上の楼閣のような国家だといってもよかった。
林郁の『新編・大河流れゆく』(ちくま文庫・1993年6月)のなかに、満州でアヘン工作に関わった元特務機関員の告白が紹介されている。
―私はアヘンを取り締まる一方で野放しにし、さらにスパイ工作にも使うという相反することを同時にくり返す現場にいて、これは支那民族の滅亡策だと思った。アヘンは性的興奮も一時つよめる。苦しい者は、生のあかしだと思って、飲んで性行為に溺れる。それで衰弱する。子どもは生まれなくなる。生まれても育ちにくい。それを承知でアヘンを使ったのは、相手を人間とみなかったからです・・・・。
この元特務機関員は、「アヘンは苦を忘れ、一時的に活力を与えられるだけでなく、性の快楽に心身をひきずりこむから、金銭より特務の役に立ちました」とも述べている。
(前掲書p139)
(※4)
スパイどころか、上海は人の命がいちばん安く、アヘンがいちばん高いといわれていたように、人殺しさえ日常茶飯事のことだった。白昼テロに驚く者はなく、血しぶきの飛び散る殺害現場を目にしても、みな魚の目のような無感動なまなざしをくれるだけで通りすぎた。人心の荒廃と風俗の貧廃は、20世紀のバビロンというにふさわしかった。
見せしめの処刑もあたりまえだった。ジョルジュ・バタイユの『エロスの涙』(森本和夫訳・現代思想社・1976年7月)のなかに、囚人を裸にして木の枷に縛りつけ、生きたまま、胸や下腹部をえぐりとって市中を引き回す中国の処刑の写真が紹介されている。それと同じことが、いやそれ以上に残酷なことが、日常的に行われた。農家で使用する大きな藁切り包丁をギロチンがわりに使った公開私刑さえ珍しくなかった。
(前掲書p197)
(※5)
塩沢は、里見の晩年の秘書を自任していた伊達に、里見の死後、こんな秘話を明かしている。
上海の宏済善堂は、軍が阿片取引に深入りするのを心配した昭和天皇が、しばしば「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見にその旨を含ませ、軍の隠れミノとするため発足させた。
塩沢は、阿片工作を密命した影佐を訪ね「阿片工作は陛下のご意志に背いているのだから、絶対外部に漏らさぬように」と釘を刺したという。
戦後、天皇の戦争責任が占領軍の間で議論になったとき、天皇が好戦的でなかったことの証拠としてこの話がもちだされたという。
(前掲書p165)
(※6)
ちなみに、岩畔は陸軍中野学校とならんで、神奈川県川崎に陸軍登戸研究所という秘密軍事組織もつくった。その登戸研究所について、岩畔本人が生前、次のような証言をしている。
〈登戸の研究所ではパスポートから偽造紙幣まで何でもつくった。中国ではドイツのザンメルという印刷機械で紙幣をつくっていたので、それと同じ機械をドイツにつくらせ船で日本に運んだ。中国の経済を混乱させるため大陸にバラまいたニセ札は、日本円で60億円は下らなかった。登戸でつくったものを大陸浪人を見つけちゃ渡して、大陸でバラまかせていた〉(「岩畔豪雄氏談話速記録」木戸日記研究会・日本近代史料研究会〈1977年6月〉)
(前掲書p35)
posted by T.Sasaki at 20:03|
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