日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2018年03月30日

日本語は万能?

再び。

このブログ、というか、私の書く文章、あるいは、日常での私の説明は、わかりやすいのではないか、と思う。
これは、乱読の賜物だと思っている。
わかりやすくする、というのは、ある意味、翻訳的なことである。
例えば、先日の「海はだれのものか」という本を初めて読む人は、理解できない人が多いかもしれない。
それを簡単に説明するのが、私のやったことであり、いわば翻訳的作業。

日本語だから、これができるのだそうだ。

と書いたら、「え?外国語はできないの?}という疑問を持つと思うが、答えは、イエス。
英語などを母語とする場合は問題ないが、この東アジア、東南アジアの国は、非常に困難なのだそうだ。
引用する。

 先ほども申し上げました通り、東アジアの旧辺境国(韓国やベトナム)は彼らのハイブリッド文字を棄てました。フィリピンは二重言語国ですが、知的職業の公用語は英語です。母語は生活言語として残っていますが、それで例えば国際政治や哲学を論じることはできない。そのための語彙が彼らの母語には存在しないからです。ですから、英語のできないフィリピン人は知的職業に就くことができない。他の旧植民地国はどこも同じ事情です。韓国でもベトナムでも母語しかできない人にはしだいに大学のポストがなくなりつつあります。その中で、日本だけが例外的に、土着語だけしか使用できない人間でも大学教授になれ、政治家になれ、官僚になれます。これは世界的にはきわめて例外的なことなのです。
(「日本辺境論」p239)


私たちにとって、日本語は日常であるから何も感じないが、非常に特殊な言語であるらしい。
全部説明するのはあまりに長くなるのでやらないが、日本語には、かな(仮名)とまな(真名)がある。
まなとは漢字のことである。
後から入ってきた漢字が「真名」であり、従来からあった音声言葉であるかなを「仮名」と表現することで、「日本辺境論」の著者である内田樹さんは、言語においても、日本人は、辺境人の受動的性格を示している、という。
ここで再び引用。

 土着の言語=仮名=女性語は当然「本音」を表現します。生な感情や、むき出しの生活実感はこのコロキアルな土着語でしか言い表すことができません。たしかに、漢文で記された外来語=真名=男性語は存在します。けれども、それは生活言語ではない。それを以ってしては身体実感や情動や官能や喜怒哀楽を適切に表すことができない。
 漢詩という文学形式がありますけれど、残念ながら、漢詩は限定的な素材しか扱うことができません。庶人の生活実感や官能は漢詩の管轄外です。
(前掲書p236)


つまり、事務的な学術的な作業は、男性的な真名の役割であり、日常は、女性的な仮名の役割である、というような使い方をされていた。
それを変えたのが、紀貫之。
「をとこ」の作業を、「をんな」言葉で書いてみた。
紀貫之「土佐日記」であり、日本で最初の、翻訳的表現の作業であった。

それが日本語の正しいとは言わないまでも、もっとも効率的な運用法になった。とりあえず、そういう言葉づかいをしないと私たちの社会では言葉はうまく人に届かないということが確かめられた。
 現に、私がいま使っているのは紀貫之伝来の語法です。本書が論じているのは「地政学的辺境性が日本人思考と行動を規定している」という命題ですから、当然さまざまな学術用語や専門用語を駆使しなくては論じられない。けれども、私はそれをできるだけ具体的な生活言語を使って論じようとしています。学術論文の形式ではなく、大学のゼミや居酒屋での同僚とおしゃべりのときのしゃべり方と同じ語法で語ろうとしている。そうしないと「何を言ってるかわからない」からです。
(前掲書237)


実は、私がいろいろと学んだ副島隆彦先生こそ、この作業を一生懸命やってきた人だ。
彼は、難しいことを理解しやすいように本に書いてきた。
たまに癇癪を起こして、日本語を、欠陥言語だとか面倒くさい言語だとか言っていたような気がするが、この翻訳的な作業のことを言っていたのだと今さらながら気付いた。

そんな面倒くさい日本語は、それでも、一つで全部の学問を学ぶことができるのだから、役に立っていると言えるだろう。



ここからは、余談になるが、日本語は、マンガを読むには、非常に効率のよい言語なのだそうだ。
それは、脳の構造と関わりがある。
漢字は表意文字であり、かなは表音文字。
表意文字とは、すなわち、図形であり、視覚的に脳で処理され、表音文字のほうは、音声的に脳で処理される。
脳の中では、日本語を使っている限り、これを同時に処理している。
したがって、マンガを読む場合、視覚的処理と音声的処理が、もっと簡単に行われることになる。
通常でさえ、同時処理をやっている日本人にとって、マンガは非常に慣れたもの。
したがって、マンガ読書では、日本人は世界一である。

この性質は、失読症(ディスレクシア)にも影響している。
失読症は、俳優のトム・クルーズが有名であるが、欧米語圏での失読症は、単に、文字を読めない。
しかし、日本の場合の失読症は、漢字が読めない場合とかなが読めない場合の二種類ある。
日本語は、本当に特殊だったのである。

今日、引いた「日本辺境論」は9年前の著作であるが、中古本で手に入れたにもかかわらず、すでに33刷目である。
日本人論として、ベストセラーであるが、それでも、けっこう難しい。
第3章の「機」の思想は、難しい。
何なのか、さっぱりわからない。
そこを除けば、良い本である。
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貴乃花、のこった

こんばんは。

貴乃花は、クビにならなかった。
しかし、よってたかって、言われたらしい。
まあ、しかたないか。

もし、貴乃花部屋でない力士が、モンゴル横綱連合に暴行を受けたなら、その部屋の親方は、警察に届けないで、相撲協会だけで解決したのだろうか。
そうであったなら、モンゴル横綱連合の問題は、こんなに大きくはならなかっただろう。

モンゴル横綱連合にとって、貴乃花が相撲協会に残ったことは、嫌なことかもしれない。
特に、白鵬はそうだろう。
顔や頭を叩いたり、エルボーなどの攻撃を、審判席からじっくり見られるのだから。
貴乃花を審判部に入れたのは、白鵬の傲慢防止のための、相撲協会の戦略か?

でも、あんないじめ体質を見せられると、そこまで頭の切れる人がいるとは思えない。
相撲協会のいじめ体質は、立川志らくさんが指摘している。

https://www.daily.co.jp/gossip/2018/03/30/0011116125.shtmlデイリースポーツ online
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2018年03月25日

相撲協会不信

再び。

先ほどの更新から、突然、相撲の話になって申し訳ないが、貴乃花が相撲協会で干されることになるらしい。

http://news.livedoor.com/article/detail/14479368/(「livedoor NEWS」)

そして、相撲界を追い出された貴闘力が、話した内容がこれ。

http://news.livedoor.com/article/detail/14481453/
http://news.livedoor.com/article/detail/14482198/

貴乃花は頭が良さそうだが、実は頑固で不器用であるようだ。
それはそれで、完璧な人間でない、ということから、親近感がもてる。
この中に、「現役時代に貴乃花が対戦相手と口をきいているところなんて一度も見たことないですからね。」とあるあたりから想像すると、八百長というか、相撲では「注射」というらしいが、そういうことをしなかったのだろう。
一方、休場している大横綱の名前を冠した白鵬には、きな臭い話はたくさんある。
私には、いつも顔面を叩く横綱、というイメージしかなく、「叩かなければ勝てないの?」とついつい思うのだ。
今日、優勝した横綱は、「よけなければ勝てないの?」である(今日の高安の横綱に対する張り手は意味があると思う。あれは高安のいろいろな感情がこもっている)。
思えば、横綱で、「受けてから勝つ」という相撲をとっていたのは、貴乃花や武蔵丸が最後のような気がする

ということより、今回の話は、最初のリンクについてである。

貴乃花部屋の貴公俊と日馬富士の暴力を、同列に扱っている点がおかしい。
貴公俊の暴力は、非常にわかりやく単純だ。
私に言わせれば、かわいいとしか言いようがない。
一方、日馬富士のほうは、横綱3人が居て、本当のところ、何が真実なのか、さっぱりわからない。
陰湿な感じがしないでもない。

記事の中には、「複数の親方からは『師匠を剥奪して、部屋を閉鎖すべきだ』との過激な主張も飛び出している。
私は、発言した親方の名前を知りたい。
貴公俊の暴力の全容はわかっているが、日馬富士事件は、わかったのだろうか。
暴力事件の質が違う。
これを同列に扱い、「辞めさせる」というのでは話にならない。
相撲協会は、本当に自浄作用がないのではないか。

本当にみんなが知りたいのは、横綱3人がかかわった事件が何だったのか、ということである。
posted by T.Sasaki at 20:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「法令遵守」が日本を滅ぼす

こんばんは。

いさだ漁業が、史上最高の勢いで、水揚げが伸びている。
キロ単価が120円で、1日の水揚げが100万円!
これを10回やれば、簡単に1000万円!
乗組員の欠員を待っていても、この状態だときっと誰も休まない。

一方私は、超ひまな状態なので、読書したり、調べものをしたり。
今日は、「法令遵守」が日本を滅ぼす、という本を読んだ。
元東京地検特捜部、長崎地検次席検事を務めた郷原信郎さんの書いたもの。

題名をみると、「おや?法令を守ることが日本を滅ぼすのかよ」と思ってしまうのだが、読んでみて納得。
法令のほうが、世の中についていってない、というもので、経済活動にその弊害が及んでいる、と。
だから、法令の根っことなっている、基本的なことに目を向けよ、ということ。

 法令の背後には必ず何らかの社会的な要請があり、その要請を実現するために法令が定められているはずです。だからこそ、本来であれば企業や個人が法令を遵守することが、社会的要請に応えることにつながるのです。
 ところが、日本の場合、法令と社会的要請との間でしばしば乖離・ズレが生じます。ズレが生じているのに、企業が法令規則の方ばかり見て、その背後にどんな社会的要請があるかということを考えないで対応すると、法令は遵守しているけれども社会的要請には反しているということが生じるわけです。
(「『法令遵守』が日本を滅ぼす」p100)

大切なことは、細かい条文がどうなっているなどということを考える前に、人間としての常識にしたがって行動することです。そうすれば、社会的要請に応えることができるはずです。
(前掲書p103)


このことは、JR福知山線の脱線事故で、被害者の家族が肉親の安否確認を問い合わせたのに、対応した医療機関側は、個人情報保護法を盾に教えなかった、という例をあげて説明したものである。
医療機関側は個人情報保護法を守った、ということなのだが、実際には但し書きがあり、それまで認識していなかった。
しかし、認識の前に、「これは教えなければ・・・」という普通の人間の考えるところを守っていれば、こんなことは起きない。
そういうことなのだ。

パロマ事件というのがあって、これで最終的に21人が亡くなっている。
法令の穴(著者は隙間と表現している)があったため、経済産業省の商務情報政策局製品安全課、経済産業省の外局のガス安全課、液化石油ガス保安課、という3つの部署があっても、事件の原因が追求できなかった。
一方、パロマ工業製と特定されているにもかかわらず、パロマ側は、不誠実だった。
引用する。

 パロマ側は、民事、刑事の責任回避のための訴訟対応を行なうという「法令遵守的対応」をとり続け、それが、メーカーとして必要不可欠な事故再発防止のための社会的責任を果たすことを妨げてしまいました。監督官庁の側でも、複数の組織や部署に所管が分散していたために、事故情報が一元的に把握されていませんでした。その結果、危険を認識することができず、事故防止のための抜本的な対策はとられませんでした。
 ガス給湯器の一酸化炭素中毒事故という極めて身近な問題に関して、日本の法令は、国民の生命を守るという最低限の機能を果たすことができなかったのです。
(前掲書p93)


この本では、過去の事件を例にして、最初の2つの引用を結論とし、各組織のコンプライアンスの提案を行っている。
一般にコンプライアンスとは、「法令遵守」と訳されているが、著者は、「組織が社会的要請に適応すること」と定義しているから、法令は、社会的要請に応える道具、とでも解釈できる。
逆に考えれば、社会的要請に応えないような法令は、ゴミである。

ここまで書くと、前回の「法律を悪質に解釈している2そう曳きトロール」は、この本を読んでから自信をもって書いたのではないか、と勘ぐられそうだが、偶然の一致である。
書いてから、たまたま読んでしまったから、あえてこの本を紹介しただけである。

この本の書き出しは、少し難しくて、あまりパッとしたものではないが、読んでいるうちに、なかなかの構成であることがわかる。
戻って読みたくなるのだ。
「あとがき」もよい。
スッキリする。



最後に、談合について少し。
リニア談合で、4社が捜査を受けた。

https://www.huffingtonpost.jp/2018/03/23/linear-shinkansen_a_23394110/(「ハフポスト」)

こういう専門的な大型工事案件をできる業者は、限られていると思う。
したがって、過去の談合が普通だった時代、すなわち、高度成長期には、違法な談合システムが公然と行われていた。
それでも、「予定価格上限拘束」という縛りから、それほど極端な建設業界の利益というのはなく、ほぼ適正な形で公共建設事業は行われてきたという。
談合システムは、建設以外の公共調達でも行われてきた。
一方、独占禁止法は、談合を取り締まり、低価格でより品質のよいものを生み出すという自由競争を促す法律である。
しかし、何の制限のない自由競争は、いつも摩擦や問題を起こすものである。

競争は常に万能で、あらゆる場合に善かというと、そうではありません。競争がその機能を発揮するのは、取引の当事者に情報が十分に与えられ、自己の責任で判断できる場合です。つまり、競争だけでは解決できないような問題、競争を機能させることが必ずしも適切ではない状況があるのです。
(前掲書p37)


たとえば、公共事業で造った橋やトンネルなどの安全性は、自由競争で担保されるわけではない。
あまりに低価格で落札して工事を請け負ったはいいが、安全性をおろそかにしたものを造ってもらっては困るのだ。
安全性は確保できても、今度は、その低価格落札の影響が、労働賃金を削る方向へ進むかもしれない。
この辺をすべて、法律で規定できるか、というと、非常に難しくなるだろう。

建物の安全性では、耐震強度偽装事件も起きた。
私がよく行く新潟の港のすぐそばには、有名な姉歯物件がまだある。
事件は、姉歯一級建築士、イーホームズ、ヒューザー、木村建設、総研などが関わった。
建築基準法があるにはあるのだが、複雑な構造計算書などのチェック機能が働かない環境であり、実際には、「会社の信用と技術者の倫理が日本の建築物の安全性を支えてきた(前掲書p80)」のである。
しかし、ここで、談合を全面的に否定する独占禁止法の運用強化が、事件の背景となってしまった。

 最近では、機能しない建築基準法に代わって建物の安全性を支えてきた施工会社の信用と技術者倫理自体にも大きな問題が生じつつあります。1990年代後半の建築不況の中、企業間での価格競争の激化によって極端な安値受注が横行し、その結果、工事の質を落として採算を確保しようとする手抜き工事、粗漏工事が横行していると言われています。設計の段階で耐震基準を充たしていても、施工工事段階で強度不足の建物が建築される危険性が高くなっているのです。
(前掲書p82)


本当のところ、リニア談合はどうなのか?
安全性を捨ててしまうような落札より、少々の談合は認めてもいいような気がする。
独占禁止法の適用範囲を柔軟にするしかない。
再掲するが、最終的に著者の言うとおりにするしかなさそうだ。

大切なことは、細かい条文がどうなっているなどということを考える前に、人間としての常識にしたがって行動することです。そうすれば、社会的要請に応えることができるはずです。
(前掲書p103)
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2018年03月22日

法律を悪質に解釈している2そう曳きトロール

こんばんは。

雨で暇なので、今日も県庁の水産振興課に電話をし、「捕まった漁運丸です」と名乗り、それでもいろいろと教えてもらった。
岩手県のWebサイトには、「漁業取締対象」というページがあり、ここに各漁業の違反行為が列挙されている。
こういうページがあったんだなあ(取締船の電話番号まで書いてある)。

この中に、沖合底びき網漁業もある。
注目してほしいのは、「禁止漁具・漁法」である。
網口開口板の使用を禁止している。
そして、これを記載している法律は、というと、「指定漁業の許可及び取締り等に関する省令」である。
この第17条には、次のようにある。

指定漁業者は、別にこの省令で定める場合のほか、別表第二の上欄に掲げる指定漁業につき、それぞれ同表の下欄に掲げる操業の区域若しくは期間又は特定の区域若しくは期間における特定の漁具若しくは船舶を使用し若しくは特定の漁法によつてする操業若しくは特定の種類の水産動物の採捕に関する制限又は禁止の措置に違反して当該指定漁業を営んではならない。

法律の条文というのは、読むのが疲れる。
この中の別表第二に、各指定漁業の禁止事項が書かれている。
全条文の下にある。

沖合底びき網漁業の欄の、「三」に、網口開口板の使用は、禁止とある。
隣の宮城県は例外であり、北海道にもあるが、オッターライン禁止ラインというのが存在し、かけまわしより操業区域は沖合となっている。
なぜ、網口開口板の使用を禁止したのか?
おそらく、その理由は、資源保護上の観点からだと思う。
それ以外の理由は見当たらない。

岩手県は、「指定漁業の許可及び取締り等に関する省令」第17条から、もちろん網口開口板使用禁止である。
現在の2そう曳きトロールは、網口開口板を使用していない。
しかし、2そうで袖網の両側を曳くのだから、網口は閉じない。
実質は、網口開口板を使用しているのと同じであり、条文中の「網口開口板」という文字を使っていないというだけである。
法律の抜け道を利用しており、悪質と言える。。
さらに、網口開口板1そう曳きトロールよりも網口は広く、2そうで曳く馬力アップ版だから、悪質極まりない。

小型船の「鮭を刺網で獲らせろ」裁判の背景の一つには、大臣許可のトロールが鮭を網で獲っていることにもあると思う。
ここで、先ほどの「指定漁業の許可及び取締り等に関する省令」第93条を載せる。

法第六十五条第一項及び水産資源保護法第四条第一項の規定に基づき、赤道以北の太平洋の海域においては、総トン数十トン以上の動力漁船によりさけ又はますをとることを目的とする漁業(中型さけ・ます流し網漁業及び法第六十六条第一項の規定による小型さけ・ます流し網漁業を除く。)を営んではならないものとする。ただし、漁業権若しくは入漁権に基づいて営む場合又はさけ若しくはますをとることを目的とする漁業についての法第六十五条第一項若しくは第二項又は水産資源保護法第四条第一項若しくは第二項の規定に基づく都道府県規則の規定による都道府県知事の許可を受けて営む場合は、この限りでない。

これは以前、どこかで引用したことがあると思うが、トロールはもちろん10トン以上であり、獲ってはならんのだが、「さけ又はますをとることを目的とする漁業を営んではならない」と条文にあるから、混獲なら認める、ということになる。

しかし、だ。
「指定漁業の許可及び取締り等に関する省令」第17条の別表第二の、大中型まき網漁業の制限事項には、「七」として、次のように書いてある。

さけ又はますの採捕であつて大中型まき網漁業の操業に係るもの(総トン数十五トン以上の船舶を使用して行うものに限る。)は、太平洋の海域においては、禁止する。

同じ指定漁業でも、まき網漁業は禁止できて、なぜ、トロール漁業は禁止できないのであろうか。

かけまわしでは、本当のたまにしか鮭は入らないといわれるが、2そう曳きは、鮭をたくさん獲ってくる。
早期群は、水温の関係上、水面付近へ浮いてくることは少なく、海底を泳いでいるのだろう。
一度網に入れたら、その群れの行動を予測し、次回も鮭を狙って網を使うらしい。
そうやって、2そう曳きは鮭を狙う。
もし、完全に禁止だったら、鮭を狙うことはしないだろう。
その分、各河川へ鮭が帰る確率は高くなる。

法律で禁止するのが無理ならば、岩手県の増殖賦課金を、水揚げの50%以上掛けれるようにすれば、2そう曳きは鮭を狙わない。
いや、80%でもよい。
混獲ならば、こんなカネは要らないはずだ。
このカネをほしいというのならば、それは、「鮭を目的」としているのだから。

仮に間違って鮭が入ったとしても、食べるか、それとも捨てることになるかもしれない。
が、それはそれで、底魚の餌になるのだ。
何より、2そう曳きが鮭を狙わなくなるだけで、河川遡上は、いくぶん増えるのである。

法律から、いろいろぐちゃぐちゃ書いたが、結論はこうだ。

2そう曳きトロールは、法律条文を、悪質に解釈した漁業なのである。

小型船の人たちは、ここを読んで納得したら、それを武器にして論陣をはってほしい。
私たちは、海のために、悪いことをしているのではないのだ。
posted by T.Sasaki at 20:57| Comment(0) | 漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月21日

漁業法の目指す未来

再び。

漁業は慣習が重要である、というのが、漁業権に対する理解からわかった。
しかし、目下の問題は、魚類資源の減少である。
漁業調整の基本法である漁業法は、ここで何を目指したらいいのか。

くどいようだが、漁業法第1条には、「漁業生産力を発展させ」という目的が書かれてある。
「漁業生産力を発展させる」とは、どういうことか。

世界有数の漁場である三陸沖をはじめ、日本の海に魚があふれていた時代、「漁業生産力の発展」は、よりよい漁法の開発、よりよい漁具の開発、よりよい探知計器類の開発であり、それにより、漁業効率が良くなり、確かに生産力は発展した。
しかし、生産力だけを向上させ、効率のよい漁業の制限をあまりしなかったために、魚類資源は非常に減少したのだ。

今後の「漁業生産力の発展」とは、何を指すのか。
それは、魚類資源を増大させる取り組みではないだろうか。
魚が多くならなければ、漁業生産力は発展しない。
したがって、効率のよい漁業には、大きな制限が必要になるのは言うまでもない。
「岩手県漁業調整規則」の第1条には、「漁業法」と並んで、制限法律である「水産資源保護法」というのが書かれているが、実際には機能しているとは言えない。

大型まき網漁業は、とんでもなく優秀な探知能力のある高価な魚探類を装備し、手加減しないならば、沿岸域にある魚類は、ほぼ取り尽くしてしまうだろう。
今や、彼らはそれを自覚しているのではないか(と思うが・・・)。
漁法自体、その気になれば、生きたまま放流できるのだから、厳しく資源管理“できる”漁業である。

沖合底曳網(トロール)漁業は、網を引き揚げた時点で、ほぼ網の中の魚は、瀕死の状態である。
小さい魚を放流する、などということはできない。
放流しても、海鳥の餌となるだけである。
したがって、まき網漁業のように、資源管理“できる”漁業ではないから、制限を厳しくすべきである。

岩手沖合を操業している2そう曳きトロールは、史上最悪の漁法である。
開口板トロールの馬力アップ版と理解してよい。
概念図は、全国底曳網漁業連合会のWebサイトでリンクしてある。

http://www.zensokoren.or.jp/trawl/trawl_fisheries.html(「一般社団法人全国底曳網漁業連合」)

トロールの3つの漁法のうち、船頭の腕前がわかるのは、かけまわし、である。
かけまわしは、網を入れる位置の正確性が問われる。
開口板と2そう曳きは、そんなものは要らない。
かけまわしに比べれば、極端に言うと、バカでもできる。
魚のいる場所を経験的に覚え、魚の移動予測と季節変動を加味すれば、きっと優秀な船頭といわれるだろう。
ただそれだけのことだ。

ある船主が言っていたのが、バカでもできる漁業は、小型船では、かご漁業である。
「バカでもできる」と私が聞いたときは、「そうかなあ」と疑ったものだが、なるほど、他の漁業に比べれば、バカでもできる。
これは何を意味するか。

かご漁業は、場所に道具を設置すれば、あとは、ただの餌交換である。
燃油代や餌代を差し引いても、丸々赤字で帰ることはほとんどない。
だから、経営的に簡単な漁業であり、それゆえに、ただやっているだけでよい漁業の一つであろう。
このことから、ある船主は「バカでもできる」と表現したのだと思う。

では、なぜ、私は「商売にならない」と言って切り上げたのか。
それは、普通の賃金を乗組員に支払い、船の償却分や道具の償却分、その他を考えると赤字になるから。
この判断は、その船の大きさにもよるし、家族労賃を考えない船主なら赤字ではない。

震災前後に、ある会合で水産技術センターの人と話したのであるが、彼は、新規着業者には、かご漁業を勧めるのだという。
理由は「やりやすいから」ということだったが、これは「バカでもできる」と証明したようなものである。

「バカでもできる漁業」というのは、すなわち、経営的に楽な漁業である。
2そう曳きトロールも同じ構造であり、かけまわしのように、船頭の腕前をそれほど必要としないから、経営側とすれば、船頭を選ぶ必要もなく、経営は楽である。
したがって、両漁業とも、淘汰されにくいと言えるだろう。

一般的に、政府の補助でもない限り、魚の資源量の増減により、漁船は淘汰される。
腕前のない船頭は、淘汰されるのである。
漁船数が減少していけば、魚の資源量は増加する。
他の条件がなければ、魚の資源量と漁船数は比例し、魚の増減で、倒産と起業が繰り返される。

現在は、冷凍技術や流通の発達により、魚価が上がっているから、資源量が減少しても減額分をカバーしていると言っていいだろう。
これだと、もともと経営的にやりやすい漁業というのは、ますます淘汰されにくい。
2そう曳きトロールにしろ、かご漁業にしろ、倒産したという話は聞いたことがない。
したがって、これらの漁業では、制限を強くしないと、魚を獲り尽くしてしまう。
経営的に楽な漁業が苦しくなったら、いよいよ、本当に海に魚がいなくなった時である。
現状のままでは、未来は非常に暗い。

漁業法第1条に戻るが、目的を「漁業生産力の発展」としているから、魚類資源を増大させる取り組みが、絶対に必要となる。
私は、ブログ冒頭の「日本の漁業が崩壊する本当の理由」を読んでからというもの、「魚類資源減少について」というシリーズを書いてきた。
結論は、ずっと同じ漁業をやっているのではなく、旬の魚を目的として獲る工夫をする、ということだと思う。
漁がなくなっても、それを獲ろうとする努力は、無駄な努力であり、資源を減らすだけである。

「旬の魚を獲る」ということを優先し、効率のよい漁業ほど制限を強くするという漁業調整を行っていくことで、「漁業生産力の発展」が可能になるのである。
posted by T.Sasaki at 21:30| Comment(0) | 漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明日は雨かな

こんばんは。

夕方まで曇り、というので、少し船の手入れ。

配管手入れ.JPG

これは散水配管だが、これにホーマックで売られている硬化剤を使わないタイプのFRP用ペンキを塗る。
意外にも、ゲルコートやトップコートより柔らかいためか持ちがよく、今では、型抜き以外はすべてこのペンキ。

配管手入れ2.JPG

これは、「八戸からバックしてしまった」に載せてある写真の後付け亜鉛。
交換は、1年で1回ぐらいでいいかも。
減ってはいるが、それほど減るわけもない。
久しぶりに散水を使えば、さすがに赤サビは出るが、亜鉛びきの配管が何十年持つか、チャレンジ。

明日は雨だから、寝てる。
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2018年03月20日

反撃の決意

こんばんは。

違反行為というのは、すぐに認めれば、開き直って好き放題に言うことができる。
好き放題と言っても、論理があってこそだが。

私の「すべて認めます」という事情聴取が、ある程度終わってから、次のように言った。

違反は違反で認めるが、私は、海のためには、悪いことをしているわけではない。
この3月から甲長8cmへと漁獲制限が厳しくなるから、もともと私は、2月いっぱいで切り上げるつもりでいた。
商売にならないような操業なら、道具をすべてあげる。
いいですか。
そのほうが、魚は増えるんですよ。
昨年までは、3月末であげた。
どうせ特別採捕なんて、商売にならないから。
一方、県南の人たち、彼らは、1年中、道具の漬けっぱなしだ。
ああいうやり方では、魚は増えない。
大臣許可の2そう曳きトロール、あれって、史上最悪の漁法なんですよ。
魚を減らす漁法であり、増えることはない。
開口板が悪いとはいうが、2そう曳きは、その何倍も悪い。
八戸のトロールは全船かけまわしで、冬季は1ヶ月に10日も出ればいいほうだ。
ここの2そう曳きは、休みが非常に少ない。
そこから考えても、岩手の2そう曳きの方こそ、悪いことをしている。
そうじゃないですか?

さらに、ブログの冒頭の本の内容を言った。

魚を減らす、ということは、国を売っていることにもなる。
外国、特にノルウェーなどの漁業先進国では、日本の魚が少なくなることを期待している。
そして、日本に魚を高く売り付けようとしているんですよ。
知ってました?

取調べをした人は、「知らなかった」と驚いていた。
私は、一応「被疑者」なのだが、それからは、被疑者というより、普通の1対1の人間の会話みたいになった。
私は、違反のことは、もうどうでもよかったので、言いたいことを言って、時には笑いをとったり、もう犯罪者という感じではなかった。

あらためて思うのだが、私は、そんなに悪いことをしたわけではない。
そして、誰かにこの話をすれば、ほぼ100%、2そう曳きトロール漁法のほうが、海にとっては大犯罪である、と結論する。

通報したのはトロールではないか、という噂を聞いてから、悔しくて、2晩眠ることができなかった(捕まってから数日後だったが)。
その時、「徹底的にやる」と決意した(完全に逆ギレ!)

昨日、漁協から帰ってきてから、県の水産振興課に電話で漁業調整規則のことを聞いたら、ネットで見ることができるから、と場所を教えてもらった。
さっそく見た。
が、いっぱいあるので、途中であきらめた。
時間ができたら、規則以外の法律も勉強しようと思う。

目的は、「2そう曳きトロールをかけまわしに転換せよ」。
posted by T.Sasaki at 20:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

スマホ中毒が日本を滅ぼす 8

再び、こんばんは。

スマホ中毒裁判は、検察の求刑を上回る判決。
求刑を上回ったということは、裁判官たちも、スマホ中毒を真剣に考えているのだろう。

https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0319/mai_180319_8944856370.html(「BIGLOBEニュース」)

何年前からだったかわからないが、金融機関で契約書を作る場合、「反社会勢力ではない」という文書に署名させられる。
借金する場合も口座を作る場合も。
今日、それを書いてきた。
対応した人は、比較的暇と思われる支店長代理。
遺産相続に関する相談セールスを話し出したので、私は反社会勢力に関することに話題を振る。

「スマホ中毒を知ってますか?」
「あれって、仕事をしなくなるんですよ」
「スマホ中毒は、反社会的ですよね」
「それを生むソフト会社やゲーム機メーカー、スマホメーカー、携帯電話会社なども、私に言わせれば、反社会勢力ですよ」
「これら全部を対象としたら、銀行、困りますね」

代理は笑っていたが、そんなボケた世の中だ。
忙しいから、あとは出てきた。

スマホ中毒は、反社会的なのだ。
posted by T.Sasaki at 21:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

毛がにを獲っていい漁業

こんばんは。

昔の新造船進水式」で昔を思い出したが、良かった時の思い出ある分、私は、まだ幸せなのかもしれない。
魚類資源が復活して、また良い時代が来ればいいと本当に思う。。
それが私でなくて、後の、やる気のある若い人たちであっても。

私は落ち込んでも、ほとんど一晩寝れば回復タイプなので、すでに日本海へ行くための準備をやっている。
来月初めからは、本格的に艤装しようと考えている。
その前にいろいろ用足しがあり、今日は、そのついでに漁協へ行って、参事に「とんでもない出来事」のお詫びを兼ねた報告をし、さらに、いろいろと言ってきた。

フェリー定期航路に関すること。
外国人労働者に関すること。
そして特に、毛がにの採捕についての不満(これに関しては、下のほうに記したものを主に言ってきた)。
こうなった事件の背景には、私が「2そう曳きトロールをかけまわしに転換せよ」と言っていることにあるかもしれない、ということ(「2そう曳きトロールをかけまわしに転換せよ」というのは、私が沿岸組合いか釣り部会での会合で提案したのが始まりである)。
取り締まり船に通報していたのは、トロール漁船ではないか、という噂もあること。

この通報に関しては、取締り事務所は、尋ねても教えてくれない。
「通常の夜間パトロール」とは言うものの、宮古湾から追跡してきた写真を見せられると、どう考えても、「通常の夜間パトロール」ではない。

自営業者がこのようになったら、もう恐いものはない。
行き着くところまで行く。

ここで、毛がにに関して、一般に言われていることを書く。
毛がにを獲っていい漁業は、かご漁業、そして、固定式刺網漁業である。
ほかに、大臣許可の沖合底曳網漁業があるが、あの道具では毛がには入らない。
ただ、毛がにの甲羅をつぶすだけである。
近年、甲羅に傷が多く、また、足が片側しかないものが多く見られるようになった。
これは、2そう曳きトロールの影響ではないか、という人もいる。

毛がには、早い時期ほど深い水深にいて、春の脱皮する時期にかけて、岸よりの浅い水深へと上がってくる。
私の経験上、大きい毛がにほど、深いところに多い。

かご漁業には、沖出し禁止ラインというのが存在する。
トドが埼以南は、問題なく200mという深い水深を操業することができる。
しかし、宮古市明神埼以北は、ほぼ水深160mという浅い水深に規制ラインがあり、それより沖合で操業してはならないことになっている。
今回の私の違反行為は、このことによる。
だから、違反行為の理由は、浅い水深に毛がにがいないから、というもので、ちゃんと供述調書にも記載された。

もう一つ、小型船で毛がにを獲っていい漁業がある。
それは固定式刺網漁業であるが、毛がにを目的として操業してはならない、というような条件が付いている。
だから、毛がにの採捕を目的として操業していい漁業は、かご漁業のみである。
固定式刺網漁業には、沖出し制限があるのかないのかわからないが、とにかく、深い水深を操業できるから、大きな毛がにを獲ってくる。
昔々、私が高校生の頃、漁運丸も固定式刺網漁業をやっていて、マダラを獲っていた(マダラは300m以深)。
許可条件が変わっていないなら、沖出し制限がないのかもしれない。

明神埼160m付近の規制ライン沖のやや北側には、固定式刺網漁業の人たちも操業している。
規制ラインより1マイル以上も離れているから、その間には、何の道具も入っていない。
「誰の邪魔にもならないから、ちょっとぐらい」というのが、まあ、私のやったことだ。

でも、よくよく考えてみると、岩手県の許可の出し方がおかしい。
「正式に毛がにを獲っていいよ」というかご漁業が、正式に獲ってはならない固定式刺網漁業より、不利な操業条件になっているのだから。
しかも、南は堂々と獲っているのに、北は獲ってはならん、と言っているようなものではないか。

「県の水産部は、何も知らないのかも?」

というのは、気の使いすぎ。考えすぎ。
県は、水深160mでは、毛がにが獲れないのを知っている!
獲れたとしても、ぎりぎり7cmの小さい毛がに。
事実、北ほど、一番小さい規格の毛がにがほとんどである。
だから、毛がにを獲っていいかご漁業の許可は、県南のための許可なのである。
同じ許可で、これほど条件が不平等なものも珍しい。

県は、県北の人たちに意地悪なのか?

そうではなく、大臣許可の沖合底曳網漁業との漁業調整がうまくいっていないことに、こんな不平等な許可の原因がある。
何か、昔に定めた申し合わせみたいなものがあるようだが、県もはっきりと示さない。
何十年もこんなことを続けているのだから、県のほうにも落ち度がある。

宮古市では、市民の税金で、毛がに祭りを開催している。
このため、宮古魚市場の毛がにの相場は、県内一である。
喜んで、釜石以南の毛がに漁業者も、宮古へ搬入する。
これではまるで、宮古市の税金を、県南の漁業者のために使っているようなものだ。
宮古市の毛がに漁業者は、あまりにもかわいそうだ。

腹が立つ。
posted by T.Sasaki at 20:49| Comment(0) | 漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

昔の新造船進水式

こんばんは。

暇なので、いとこが2年くらい前に持ってきてくれた進水祝いのビデオを観ていた(現在乗っている船)。
みんな若く、妹なんか、ふっくらした丸い顔。
いとこなんかガキで、私があやしていた。
25年前の映像だから、ホント、みんな若いこと、若いこと。
DVDに焼いた。

日付は、平成4年11月2日となっていて、ちょうど鮭延縄に間に合うかどうかの進水式であった。
今みたいな政府の補助金はなく、この頃はまだ船価も安かった時代で、船体が2100万円だったから、何とか自力で新船を造れた。
新造船となると、ある程度のその計画を立てなければならず、前年からすでに発電機類を購入していた。
だいたい全部で7000万くらいかかったそうだ。
今は、それが9000万から1億円の時代である(9.7トン型)。

この船は気仙沼の丸竹造船所で作った船であり、納期に間に合わないという理由から、ブリッジだけ大船渡の「こうしん加工」(もう漢字も忘れた。あるのかどうかも知らない)という会社に特注したため、従来の丸竹造船所の船とは、違う型になったのである。
これを造っている間、船主と船頭は気仙沼通いで、その代わり、私がダメもとで、古い方の漁運丸を任され、いか釣りの船頭をやらされた。
この時、船頭として芽が出てしまったため、その後、いか釣りだけは船頭を任された。

新人船頭を任された頃、2そう曳きトロールに漁生丸という船があった。
2そう曳きだから、相手があり、それは清福丸(清福丸の現在はまぐろ船のみ)。
当時は、違う会社で2そう曳きをやっていたりした。
現在でも、寿丸と蛭子丸がやっている。

その漁生丸の船主(山内漁業部)と私の父は、なぜか付き合いがあり、年末の付け届けは毎年やっていた。
漁生丸の船頭と私のおじは、釜石の黒森丸(今はない)で船頭と通信長という間柄から、付き合いがあった。
おじは口が悪いから、常に2そう曳きの悪口をいい、漁生丸の船頭は、「そうだよな〜」と相づちをうつ。
すごいデブであったが、そのせいか、気持ちも非常に大らかだった。
おじに紹介され、無線機で潮流を教えてもらったりした。
そのうち、漁生丸は、他の水産会社の負債をかぶり、最終的に廃業した。

あ〜、懐かしい。

この頃は、私の父の付き合っていた船主たちは仲が良かった。
ビデオを観て、長い時間が経つとどうしてこんなになるだろうと思わずにいられない。
○○丸、○○丸、○○丸と出てきて、歌を歌ったり、お酌(今でいうコンパニオン)とダンスをしていたり。
今は、この人たちは、喧嘩別れしたり、船をやめたりした。
私は、その息子たちに、「仲良くしなさいよ」と言ったが、どうも無理みたい。

どうしてこうなったか、というと、自分が悪いのに「悪かった」と潔く謝らなかったからではないかと思う。
後々まで尾を引く。
これは、漁師に限らず、どの世界でもそうだと思う。

新造船ができて、地元に廻航してくれば、お祝いの餅まきがある。
ビデオでは、「こんなに大勢来ていたんだなあ」というのがわかる。
子どもたちもたくさん来ているから、高浜港に寂しく繋がっている私の船を見て、餅を拾ったことを思い出すこともあるかもしれない。
思い出されても、今の私は、複雑な心境である。

景気のいい頃の漁運丸と比べると、天と地の差がありすぎる。

昔はよかった。

これは、うまくいっていない人の常套句である。
posted by T.Sasaki at 21:34| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

「ありのまま」か

こんばんは。

とんでもない出来事の取調べは終わったから、私は自由の身となった。
取締り事務所の職員の尋問は終わり、供述調書は検察へ送致される。
そこで、起訴されるか不起訴なのかは、検察での判断なのだそうだ。
だから、取締り事務所で、有罪とか罰金とか、そんなことはわからないらしい。

「自由の身になった」と大袈裟に書いたが、心理的にそう表現したに過ぎず、普段の生活は、ごく普段通り。
最初から自分のやったことを「認めます」だったから、供述もそのまま、ありのまま。
終われば、本当に、「自由だ」と。

この心境は、まるでちょっと前の「アナと雪の女王」let it go 。
見てはいないが、曲を思い出して、youtube で、「let it go」「May.j」を検索したら、いろんな人が歌っているのがわかった。。
映画は、松たか子なのか。
youtubeのコメントを読むと、May.jは、あまり人気がなかったのかな。
わからない。
テレビでは、頻繁に見たような気がしたけど。
歌自体、息遣いが聞こえるくらい全力で歌っていて、あんなに上手なのだから、私は、May.jの歌唱力を素晴らしいと思う。
外国の人の歌も聞いてみたが、英語版でも、May.jは、素晴らしい。

この let it go という歌には、誤解されている部分もあるようだ。
youtubeコメントには、May.jのほうが、ディズニーから正式なオファーが来て「エンドソング」を歌い、松たか子のほうが、アフレコで映画の中に入れられた、ということらしい。
つまり、日本版 let it go のオリジナルは、May.j。

「アナと雪の女王」は妹が見たが、何がよかったか聞いたら、「歌がよかった」というのには笑った。
「じゃあ、見ないほうがいいのか」と聞いたら、何も返事がなかった。
この映画は、女の人に断然人気があったらしい。

「ありのままの姿見せるのよ」

女がそんなことを言うと、「え?本当かよ?」と勘ぐるのだけれど(笑)、でも、今の自分の心理状態では、「アナと雪の女王」を見たいような気がしないでもない。
posted by T.Sasaki at 21:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

許可とは

再び。
それでは、「海はだれのものか」の続き。

正直にいうと、私は今まで「許可」というものを理解していなかった。
漁業権について」で少し触れているが、許可とは、禁止していることを解除する、という意味であるそうだ。

 漁業は、本来、免許や許可を受けずに誰もが自由に営める「自由漁業」であるが、一般公衆の共同使用を妨げてしまうような漁業は、「漁業調整」の観点から一般的に禁止されている。しかし、そのような漁業といえども全面的に禁止して一切認めないことは同じく「漁業調整」の観点から好ましくないので、特定の者に禁止を解除して認めることがある。それが「許可漁業」である。
(「海はだれのものか」p81)

法律というのは、非常にまわりくどい。
しかし、許可が禁止の解除という役割を担っているのがわかると、なるほど、謎が解けた。
例えば、あわびやかぜ(うに)である。
それらは、一般的には、採捕禁止なのだ。
しかし、各漁協の正組合員という特定の者に許可して、初めて採捕できるわけだ。
したがって、それ以外の人たちは、どうやっても採ることはできない。

ところが、わからないことがたくさんありすぎる。
いか釣り漁業で旅すると、各県ごとの許可が必要であり、もちろん、自県の許可も必要である。
5トン未満のいか釣り船は、自由漁業扱いなので、もともと、5トン以上の漁船はいかを獲ってはならない、という法律があるのかもしれない。
そのため、各県で、それを解除するために、許可を出している、という解釈なのだと思う。

こうなると、何を獲ってよくて、何を獲ってはならない、というのは、漁業法以下、すべての法律や漁業調整規則を調べなければならない。
私たち漁業者には、とんでもない話だ。

岩手県漁業調整規則は、Webのどこにあるのだろう?
探せない。
自分の足で探すしかないのか。
posted by T.Sasaki at 21:05| Comment(0) | 漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

変わる誕生日

再び、こんばんは。

7年前のことは、すでに過去のものだ。
7年前にたくさん死のうと、昨日、一人きりで死のうと、個人にとって、その重さは同じだと思う。

1ヶ月前に、血縁的に少し遠いが、おじさんが亡くなった。
比較的、付き合いがあるために、線香をあげに行ってきたのだが、そこで、びっくりするような話を聞いてきた。
題名にあるとおり、誕生日が変わっていた、というものである。

生前、その故人の誕生日をめぐり、家族内でいろいろ言い合ったらしい。
住民票や運転免許証の記載の誕生日が正しい、と思いきや、当の本人は、小さい頃の思い出では、誕生日はある行事と一緒に祝ってもらったから、記載の誕生日とは違う、というが、周りの人は、ボケ扱いをして信じない。
ところが、亡くなってから、いろいろ手続きをしているうちに、戸籍の原本をたどった。
そして、生まれ故郷の戸籍が出てきた。
そこにあったのは、故人の記憶の通りの誕生日だったのである。
それがどこで変わったか、というと、結婚した時、職員が誤って書き写したらしいのだ。

今みたいに電子化などなかった時代であるし、届出と誕生日の違いもわかったりわからなかったりした時代だから、そんなことも起こったのだろう。
しかし、もしかして、戸籍が変わる時など、よく確認したほうがいい。
間違いは今でも起こっているし、日本最高の頭脳が結集している財務省ですら、文書の捏造をやっているのだから。

いろいろな申請などの時に、本人確認できない事態になったら、大変である。
posted by T.Sasaki at 20:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

震災遺構は、残したい人たちが維持費用を払えばいい

こんばんは。

毎年、この日のテレビは、つまらない番組ばっかり。
仕事を終えて、しかたなくテレビを見ていたら、大槌町役場の保存か壊すか、をやっていた。
保存派の主張は、まあどこにもあるような震災遺構っていう目的のものである。
これはどう考えても、明らかに税金の無駄遣いなのである。

保存するにしても、まるっきり維持しないでいく、という方法もある。
崩れたら、崩れっぱなし。
いずれは、ただのゴミの山になる。
そうなる間に、子どもたちがそこで遊ぶだろう。
たとえ、立ち入り禁止にしても、子どもは、そういう場所に入りたがるものだ。
少なくとも、私の小さい頃は、そうだった。
親が、「危ないから行くな」と言っても、そんなものは聞かない。
そんなものだろう。

そこで、子どもが怪我なんかすると、特に今の親たちは「放置していた自治体が悪い」と言い出し、マスコミもそれに加担し始める。
そして、補償問題となり、自治体が支払う破目になる。
そのカネは、結局はみんなの税金で支払われる。
そして、その廃墟は撤去される。
撤去費用も税金だ。
これらのカネを、「震災遺構を残せ」と言っている人たちが、自治体の代わりに責任をとって払ってくれるだろうか。

次に、保存する震災遺構を、常にメンテナンスして維持していく場合を考えるが、これは、「いつまで?」「ずっと永遠に?」という問題に突き当たる。
過疎はどんどん進み、だれがこの維持費用を払うのか?
宮古でいえば、田老観光ホテルであるが、旧田老町民なのか?
維持費用を払えなくなった時は、たぶん、上記のような経過をたどるだろう。

丁寧に考えれば考えるほど、震災遺構というのは、税金の無駄遣いなのだ。

余談になるが、たぶん各家庭のポストに、共産党宮古支部?から、市政に関するアンケートがあったと思う。
宮古市の市議会議員の選挙が近いからだろう。
それにも、震災遺構に関する意見を書く欄があった。
私は、「あんなの税金の無駄遣い」だと書いた。
もちろん、閉伊川水門のこともあったから、あれはクソだらけだと書いた(もちろんクソだらけとは書かないよ。表現の話)。

さらに、共産党のダメな点も書いた。
私は、思想的に正反対だから、共産党を好きでない。
まず、頼ることはありえない。
posted by T.Sasaki at 20:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月09日

心は広く

こんばんは。

法律のことばっかり書いていると疲れるので、ちょっと「もぐもぐタイム」。
取引先からもらったカレンダーに、次のように書いてあった。

忙しさは美徳ではない
心を亡くすと文字が教えている

私は性格が悪いので、このことをいとこに当てつけて言ったら、「自分のことじゃないの?」と切り返され、「心を亡くすと書く字なら、忘れるもあるでしょ」と教えられた。
つまり、ボケが進むのも、心を亡くすということなのか。

そんな私は、ご存知の出来事で、時間的に体力的に余裕がある。
したがって、いろいろと考えている。

今日の夕方のニュースでは、近畿財務局職員の自殺が報じられ、国税庁長官が辞任した。
自殺がなかったら、辞任しなかったのか?
真実はどこにあるのかわからないが、自分の落ち度は潔く認めれば、事態は複雑にならず、辞任や退職はあっても、自殺までいくこともなかったのではないか。

もし、私も、自分のやったことを「違う」と言い張っていれば、それを取り繕うために、いろいろなことを複雑に考えなければならず、仕事もできなっただろう。
先のことも考える余裕もなくなる。
ご飯を食べても、美味しくない。

日本人には、せっかく武士道というのがあるのだから、潔く生きていけばいいと思う。
精神的に余裕があれば、心が大きくなるし、行動も広がる。
自分で楽しみながらご飯を作り、酒を飲む。
これが最高。

私の場合、酒がなくなれば飲まない。
何かで頂いた酒は、なくなるまで毎日飲むが、買ってまで飲む気にはなれない。
スーパーに買いものに行ったついでに、ご褒美に缶チューハイを1缶買う程度である(ケチ!)

私は、先の冬季オリンピックで、小平選手の心の大きさに感心させられた。
敗者に対する気配りは、銀メダルの韓国選手に学んだものだと、小平選手は言っていた。
あの写真は非常に美しいと思う。

http://www.sankei.com/pyeongchang2018/photos/180226/pye1802260020-p1.html(「産経ニュース」)

しかし、ほかの感動物語は、私がひねくれ者のせいか、あまり感心しない。
以前、このブログでも書いたが、現在のオリンピックはテレビあってものであり、NHKでさえ、視聴者に感動を与えるように、編集し放送している。
オリンピック選手の努力は並み大抵ではないのはわかるが、一般人でも、並み大抵ではない努力をしている人もいるのだ。
活躍したオリンピック選手たちには光があたり、いろいろなご褒美もちゃんとくる。
しかし、一般人は、友だちや親類などそれを見ている人しか知らない。

「元気を与えたい」とか、よく聞く言葉だが、日本の金メダルの数が多くなったからといって、私たちの生活が良くなるわけではない。
オリンピック選手やスポーツ選手の活躍はショーであり、娯楽なのだ。
酒の肴なのだ。
私は、むしろ、友だちや知り合いの頑張っている姿や成功した話のほうが、ずっと楽しい。
そして、その相手と酒も飲める(笑)。

話は脱線したが、小平選手の行動は、私的には、国民栄誉賞ものだ。
しかし、金二つや金銀銅をとったスケート選手がいるなかで、金と銀の選手に国民栄誉賞を与えたら、喧嘩のもと。
だから、きっと彼女は、一生もらえないだろう。
でも、私は与えたい。

私も失敗した人に、「尊敬しています」とは言わないまでも、「いろいろと教えられました」程度のことを言える人間になりたい。
posted by T.Sasaki at 20:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

浜本幸生さんについて

こんばんは。

漁業権までは書き、次は、漁業法のことに触れようと思ったが、漁業権のことで、浜本幸生さんを無視するわけにはいかない。

昨日の引用に、「共同漁業権論」、正確には、「共同漁業権論−平成元年七月十三日最高裁判決批判」があったが、これは、浜本幸生さんの遺作であり、出版されてから、すぐに亡くなったらしい。

「海はだれのものか」に巻末のほうに、「付論 浜本幸生さんのこと」がある。
これを読めば、著者の熊本一規さんの先生が浜本幸生さんであることがわかり、また、浜本幸生さんがどういう人だったのか、というのもわかる。
その一端を表現した文章を載せる。

 浜本幸生さんが、99年11月4日、逝去された。水産庁に50年に入庁されて以来、ほぼ一貫して漁業法の解釈にあたってこられ、また、大分の風成裁判をはじめ、漁業法の解釈をめぐる多くの裁判でも証人として立たれた元水産庁漁業調整官である。「漁業法の神様」と呼ばれ、漁業界や中央・地方の官庁の漁業調整担当者には知らぬ人がいないぐらいの存在であった。退職後もしばしば水産庁から問い合わせを受け、氏の見解がそのまま水産庁の回答になることが続いた。漁業法に関して、最後は、水産庁も裁判所も含め誰もがこの人の判断を仰ぐ、文字どおりの「漁業法の神様」だった。
(中略)
 茶目っ気旺盛で自由奔放な浜本さんは、お世辞にも行儀のいい方ではなかった。管理されるのが嫌いで、「学校嫌い」「病院嫌い」といわれていた。中学では、教師がよってたかって放校処分にしたそうだから、また水産庁でも、入庁してまもなく、「生意気だ」と言って上司に殴って有名になったそうだから、奔放さも並み大抵ではない。訪ねていくと、よく足を机に上げて、思索に耽ったり、本を読んだりされていた。私の訪問に気付くと、ちょっと照れたような表情で足をおもむろに下ろされ、相手をしてくださった。あんな格好が許されていたのも、水産庁で別格(神様)扱いされていたからだろう。
(「海はだれのものか」p188)


1999年とは、平成11年であり、その後、平成13年に漁業法が改正されたのだから、本当のところ、水産庁は、ちゃんとした人間のいるところなのかもしれない。
熊本一規さんも、「海はだれのものか」のあとがきで、次のように書いている。

 他方、共同漁業権の総有の権利であることを守ってきたのは、明治時代以来、一貫して水産庁である。水産庁は、開発利権とは無縁であり、漁民の立場に立って行政を行っているからである。
(前掲書p196)


ところが、現実の水産行政は、「全国の小型漁船漁業」vs.「まき網漁業及び沖合底曳漁業」の構図の中にあり、各県の許可漁業と国の指定漁業と対立しているように見える。
しかも、魚類資源が減少している中、どう考えても、指定漁業側には、分がないように思う。

「海はだれのものか」に書いてあるとおり、明治時代から水産庁の漁業調整に関する部署は、ずっと漁業法を守ってきたのであろう。
水産庁の組織は、漁政部、資源管理部、増殖推進部、漁港漁場整備部に分かれていて、漁業調整課は資源管理部にある。
そして、資源管理部は、もちろんのこと、TACを受け持っている。

ここからは、私の推測になるが、きっと、資源管理部の内部は、対立しているのではないか。
なぜなら、漁業法第1条に、「漁業生産力を発展させ」る、と書いてあり、現在の指定漁業は、逆に漁業生産力を衰退させているからだ。

この事態を、浜本幸生さんは、どう考えているだろうか。
posted by T.Sasaki at 20:16| Comment(0) | 漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月07日

漁業権について 2

こんばんは。

昨日のつづき。

漁業権は、だいたいわかったとして、今日は、漁業権は誰のものか、について。
これには、社員権説と総有説がある、と昨日書いた。

簡単に言えば、社員権説というのは、漁民は漁業協同組合に所属しているのだから、漁業権は、漁協にある、とする立場であり、一方、総有説は、関係漁民全員に漁業権はあるのであって、漁協にあるのではない、という立場である。
これは、埋め立てなどで漁業権の扱いが問題になる場合、埋め立てしたい側が、誰の同意を取り付け誰に補償するのか、という点で重要になってくる。

漁業法の法律改正などを行う水産庁側は、総有説をとる。

漁業法の前身は明治漁業法であり、これは日本独自の法律である。
一般的な法律などのように、外国の法律の継受ではない。
このことは、「漁業法の神様」と呼ばれた浜本幸生さんの「海の『守り人』論」に書いてあった。
私は、この本を最初の数十ページのみ読んで、その後、津波で流失した。
いろいろな本を買い置きしておくと、途中で別の面白そうなのを読んでしまうので、完読しなかったことを後悔している。

明治時代には、漁協を規定する水協法という法律はなく、しがたって、漁業権を行使していたのが、各地区の関係漁民であるのは、明白である。
現在ある漁協は、小さな漁協が合併したものが多いはず。
したがって、細部にわたる漁業権の海域は、一つの漁協の中に、いくつも存在する。
今でも、地区の関係漁民にしか、その海域の漁業権は与えられていないのである(少なくとも宮古漁協はそうである)。
合併したからといっても、他の海区のあわびやうにを採ることはできない。
この事実からもわかるとおり、漁業権は、漁協にあるのではなく、関係漁民集団にあるのである。

しかし、社員権説を主張する人もいた。
昨日の少し触れたある収用委員会で国土交通省側についた山畠正男氏と佐藤隆夫氏である。
そして、何を考えたのか、平成元年に、最高裁が、社員権説に軍配をあげた。

「昭和37年の漁業法改正に伴い、組合員の共同漁業を営む権利は入会権的権利から社員権的権利に変わった」
「漁業補償を受ける者は漁協である」
(「海はだれものものか」p20)


この昭和37年の法改正がくせ者であり、これには、批判が渦巻いている。
「海はだれのものか」の注釈にある浜本幸生さんの「共同漁業権論」に、次のように記してあるという。

「実は、昭和37年の漁業法改正をしたグループは、水産庁生え抜きの技術屋を除いては、岩本道夫企画室長以下、はじめて水産庁に来た連中で構成されていました。それに、『新漁業法の解説』の執筆者には、内閣法制局での法案審議を終わった後の人事異動でやった来た者も、加わっています。この『新漁業法の解説』には、ほかにも間違いが多く、また、まやかしの記述も多いのです。それで、昭和40年頃の水産庁長官が、「集めて焼いてしまえ」と言ったほどの代物です(それに対して、現行漁業法の立法関係者が書いた水産庁経済課編『漁業制度の改革』は、水産庁では「バイブル」と呼んでいます。)」
(前掲書p18)


「集めて焼いてしまえ」とは。穏やかでない。
そして、平成13年の漁業法改正で、水産庁は逆襲し、最高裁の判断に再考を求めたのである。
ここで再び注釈から引くが、最高裁も、自らの判決を快く思っていないらしい。

 2000年6月、中村敦夫参議院議員に対する最高裁事務局の回答によれば、「共同漁業権の補償を受ける者」が争点になった下級審まで含めた過去の判例のうち、約8割が「補償を受ける者が漁民である」と判示しているという。筆者の把握しているものとしては、大阪地裁昭和52年6月3日判決、大分地裁昭和57年9月6日判決、大阪地裁昭和58年5月30日判決、名古屋地裁昭和58年10月17日判決、福岡高裁昭和60年3月20日判決などがある。
 ちなみに、筆者は、中村議員をつうじて、平成元年最高裁判決をめぐり最高裁事務総局との討論を申し入れ、いったは承諾を得たものの、最高裁事務総局から依頼されて予め筆者の見解をまとめた小論を送ったところ、出席を断られ、討論は実現しなかった。その際、最高裁事務総局が「出席しない代わりに教えます」と言って教えてくれたのが、この点、および平成元年最高裁判決が小法廷判決であり、大法廷判決ではないので、将来覆される可能性はあるという点の2点であった。
(前掲書p141)


結論は明白であり、漁業権は、漁協ではなく、関係漁民にあるのだ。

慣れていない人には、難しいかもしれない。
結論だけ覚えていればよいと思う。
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2018年03月06日

漁業権について

こんばんは。

漁業権を理解することは難しいし、説明するもの難しい。
理解が難しいのだから、説明が簡単なわけがない。

各漁協には、必ず、「水協法・漁業法の解説」という本が置いてあるはずだ。
水色の本である。
漁協の理事たちは、読んでいるはずの本であるが、理解しているかどうかはわからない。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784874090503(「版元ドットコム」)

ここで、少し、漁運丸の先代のことについて書く。

先代の船主、すなわち、私の父親のことだが、私の父は、家にカネがなかったから、同級生たちが、宮古水産高校(当時、宮古では優秀だったらしい)に進学しても、仕事をするしかなかった。
中卒で、しかも、卒業とは名ばかりで、幼少の頃から、ほとんど仕事ばっかりしていた。
あまりにかわいそうなので、小学校の先生が迎えに来ることもあったそうだ。
これには、私の祖父が戦争に引っ張って行かれた、というしかたがない事情がある。
当時、高浜で、最もボロな服を着ていて、その証拠写真が、最近出てきた(八戸のおばが、あるアルバムを持っていた)。
それほど、貧乏であった。
戦後は食べるものがなく、木の根っこを食べたりして生きながらえたそうだ。
「おしん」の大根飯のほうが、「まだマシだった」と父は回想する。
その父は、現在、デブである。

その後、いろいろなことがあって、宮古漁業協同組合の理事になる。
理事になる前は、高浜地区の総代であったから、いろいろな文書が漁協から配布される。
ろくに学校に行っていなかったから、ちょっと難しい漢字が読めず、片手にはいつも、辞書を持っていた。
それで、しばしば、私に意味や用法を聞くことがあった。

漁協の理事になって、もっと大きな難関があった。
「漁業法」や「水協法」という法律を理解しなければならない。
組合から、一度だけだったらしいが、「水協法・漁業法の解説」という水色の本が配布され、それを勉強していた。
私が読んでも、非常に難解な本で、5回ぐらい読んで、何となく、全体的なイメージがわく、というくらいの本である。
それを、私の父は、理事になった、という使命感から、一生懸命読んでいた。
その後、何度も「漁業法」は改正されているから、そのつど、私の父は、自分で「水協法・漁業法の解説」を注文して買って読んでいた。
だから、津波前には、私の家には、何冊も「水協法・漁業法の解説」があった。

今、漁協の理事になっている人たちには、これくらい努力している人がいるのだろうか。

岩手県にも、いろいろな水産団体があって、震災1年前に代替わりしたこともあり、それらの会合に私が出席することになるが、たまに、「お前の父は、こうだった」とか、批判的なことを言われたりした。
しかし、今思うに、漁協経営や漁業法のことに関し、各団体の役員は、私の父に比べ、勉強不足である。

私も、自分の思ったことをはっきり発言するタイプなので、会議に出席すれば、いろいろな局面で集中砲火を浴びる。
もう慣れっこになり、少々のことでは動じなくなった。
ある団体の長ですら、「この人は、ちゃんと勉強しているの?」と思わざるを得ないことを発言したりする。
ホント、こんなものか、と、がっかりさせられるのである。

「水協法」は、まだ勉強する気がないが、「漁業法」については、だいたいの大きな理解にたどり着いた。
漁業法の第一条には、次のように書かれてある。

この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によつて水面を総合的に利用し、もつて漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。

つまり、漁業法は、漁業調整の基本的な法律であり、その目的が、「漁業生産力の発展」と「漁業の民主化」である、ということ。
こうやって読むと、普通のことのように思われるが、「民主化」というのが、どうも胡散臭い。
何をもって、「民主化」なのか、考えざるをえない。
民主化というと聞こえがいいが、完全な民主化などありえないのである。

漁業する権利を漁業権というのが、狭義の漁業権は、岸寄りの海面漁業に設定される。
埋め立てなどで、漁業権をめぐって、漁業補償がなされる、あれである。
しかし、広義の漁業権は、許可漁業、自由漁業にまでも及ぶ。
これには、私もびっくりした。
このことを説明している本が、前にも少し触れた熊本一規さんの著した「海はだれのものか」である。

彼は、ある収用委員会(それも日本で初めての漁業権収用決裁申請である)で、次のことを提起している。

「正しい法解釈ならば、法律のあらゆる条文を説明できるはずである」こと。
「一つの条文でも説明できない法解釈は正しい法解釈とはいえない」こと。


つまり、法解釈をねじまげるな、ということである。
副島隆彦先生の「法律学の正体」によると、法解釈というのは、とんでもない数に上るようだ。
だから、「こじつけじゃないの?」という類の法解釈も存在するらしい。
それを防ぐための提起である。

この収用委員会で、国土交通省側は、山畠正男氏と佐藤隆夫氏に依頼したが、最終的に、熊本一規さんに論破され、あとで書くが、漁業権の社員権説と総有説の論争は、総有説に軍配があがっている。
この本を読むと、なるほど、総有説が正しいのが、わかる。
再度書くが、漁業権について、理解したいのならば、「水協法・漁業法の解説」を読むよりも、「海はだれのものか」が近道であると断言してよい。

さて、漁業権の本質は何か、というと、それは、「慣習上の権利」である。
これを簡単にいえば、ず〜と何十年もその漁業を正式にやっていれば、それは、成熟した慣習上の権利となり、広義の漁業権となるのである。

ここで、「許可漁業は、漁業権ではないのか」と言われそうだが、そうではない。
実績が重要なのである。
引用する。

 注目すべきは、許可漁業は許可によって権利になるのではないことである。許可によっては、一般的禁止が解除され、営むことが可能になるだけである。その段階では、許可漁業は単なる利益にすぎない。しかし、許可漁業が継続して行われ続けると、それは利益から権利へと成熟していき、慣習に基づいて権利になるのである。
 要綱2条5項の解説に示されるように、許可漁業のみならず、自由漁業も継続して行われ続けると利益から権利に成熟していき、「慣習上の権利」になる。
 要綱2条5項の解説からわかるように、「慣習」とは「古くからのしきたり」ではなく、「実態の積み重ね」のことである。許可漁業や自由漁業は、慣習=「実態の積み重ね」によって権利になるのである。
(「海はだれのものか」p82)


この中で、「要綱」という言葉が出てくるが、これは、「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」のことであり、もちろん、ここで問題になっているのは、埋め立ての話である。
そして、要綱2条5項というのは、

この要綱において、『権利』とは、社会通念上権利と認められる程度にまで成熟した慣習上の利益を含むものとする
(前掲書p82)

としており、さらに、国土交通省監修の「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱の解説」では、

適例としては、入会権、慣行水利権、許可漁業あるいは自由漁業を営む実態が漁業権と同程度の地位を有する権利と認められるもの等がある
(前掲書p82)


との解説がある。
この場面で、関係漁民の同意なくして、埋め立てることはできない。
埋め立てれば、権利侵害となり、損害賠償となる。
その場合の賠償額も、同意が必要である。

この慣習上の権利は、何も難しいことはないと思う。
先人たち、つまり、明文化した法律のない時代に、何が社会生活を規定していたか、というと、その地域社会の慣習である。
他所から突然やってきて、海を埋めたら、その地域住民は、当然怒る。
だから、話し合いも持たず、慣習を打ち破るような行動は、慎むべきものなのである。

裁判により判決の結果などから、熊本一規さんも、次ように慣習法の重要性を訴えている。

 判決が「慣習に基づく権利」を否定した背景には、司法界に、行政に反する判決を出さない傾向がきわめて強いことに加え、「慣習に基づく権利」を認めようとしない風潮があるように思われる。
 しかし、慣習法は、いいかえれば、司法や行政に依存せずに地域社会を運営するための規範であり、成文法ではカバーし得ないさまざまな事項についての「住民の知恵の結晶」ともいうべきものである。慣習法に基づいて地域社会が運営されるということは、いいかえれば、慣習法によって住民自治が成り立つということである。近年、地方分権が盛んに叫ばれているが、慣習法は、地方分権どころか、住民自治を実現するのである。
 また、慣習法を熟知しているのは地域住民であり、地域に住んでいない裁判官や学者ではない。慣習法の存否が当該慣習法を全く知らない裁判官によって判断され、慣習法を熟知している地域住民がその判断に従わざるを得ないというのは、実はおかしな話なのである。
(前掲書p178)


以上のことから、従来から何十年と行われてきた鮭延縄漁業を妨害する宮古室蘭フェリーは、地域の慣習を乱すものである、と判断できる。
拡大解釈とはなるが、今回、私が説明会を求めた理由は、まさに、ここにある。
しかし、この拡大解釈は、実際に行われている。
例えば、青森県三沢地区では、いか釣り漁業者は、水揚げ実績にある割合を掛け算して、米軍基地の漁業補償金を受け取っている。
これは、岸寄りの漁業権海域の話ではなく、沖合い許可漁業のいか釣り漁業の話である。
青森県には、核燃がらみや原発がらみで、こんな類の似た話はよくあることである。

よく考えてみてほしい。

海はみんなものだ。
だから、誰にでも同じように、平等に使用できる権利がある、と、みんな主張したとしよう。
この場合、お互い「平等」を言い合って、何も決定できない。
「民主化というと聞こえがいいが、完全な民主化などありえないのである」と書いたのは、こういう意味からである。

ここで、昔々から住んでいた人たちの慣習の登場である。
海面利用は、太古の昔からあった。
それは、海幸彦、山幸彦の時代からである。
何十世代と慣習法は、繰り返されてきた。
繰り返されてくる間に、もちろん、少しずつ洗練されたり、変化したりするが、それでも、ずっと漁業をやってきているのである。
だから、その慣習法は強く、他所からきた人間が、勝手な振る舞いをすることはできない(この慣習法は海だけでなく、社会一般に通じるものだと思う)。

そういうことなのだ。

長くなったが、漁業の権利は、慣習上の権利である、と結論づけてよい。
posted by T.Sasaki at 21:42| Comment(2) | 漁業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月04日

スマホ中毒が日本を滅ぼす 7

こんばんは。

今日は毛がに祭りだったらしいが、私は、今日を境に、毛がに漁を切り上げ、他船のいさだ漁に乗るつもりでもあった。
ただし、S丸かI丸のどちらかである。

S丸には、いさだ漁を教えてもらうために乗せてもらった過去があるからであり、I丸は、兄弟でやっていて、非常に人間性にあふれる人たちだから。
しかし、S丸はやらないと言うし、I丸は、乗組員が余っていると言う。
だから、あきらめた。
いさだ漁は腰を傷めるから、無理して乗っていいのは、この2隻のみ。

私は、若い時にいさだ漁で腰を酷使したから、今、あまり自信がない。。
腰や関節は、消耗品であり、ほどほどに使ったほうがいいと思っている。
自分の船でやるときは、乗組員の負荷を減らすために、考えるところがあり、変えるところは変えるつもりでいる。

私の同い年の友に、とんでもなく仕事をする人がいる。
八戸の人である。
若い頃からいか釣りの凍結船に乗っていて、現在は、小型いか釣り漁船に乗っている。
私の2倍から3倍ぐらいは体を使ったようで、一昨年、腰が壊れ、手術した。
腰の手術は、間違えば、車椅子の生活を余儀なくされるくらい、失敗もあることを私は知っている。
心配したが、八戸労災病院には、その道の名医がおり、彼は、今では、普通に仕事をしている。
この出来事は、人間の頑張りには、やはり限界があるのだ、ということを示していると思う。

しかし、である。
今のあんちゃんたちは、自分の体を使いなさ過ぎる。
あまりに動かないために、体力がなくなり、デブになり、むしろ不健康である。
その上、スマホ中毒になり、ゲーム中毒になり、精神的にも不健康である。

何度もここに登場しているが、八戸に、日本最後の大型いか釣り船、開洋丸がある。
私のおじが乗っているものだから、いろいろと話を聞く。
ここ2年くらい景気が良く、水産高校卒業の新人でも、1000万円前後の給与があったのだそうだ。
現在のいか釣りの凍結船は、大漁だった頃と比べれば、非常に楽であり、過労死というのは、まずありえない(前述の友が乗った頃の昔は、過労死がかなりあったそうだ)。
彼らは、それでも辞める。
理由は、スマホができないから。

大型凍結船ともなると(中型も同じだが)、ケータイの電波など届くはずもなく、通信できない。
それに我慢がならなかったらしい。
新卒で1000万円ももらえる業界がほかにあるのだろうか。
辞めるなら、景気が悪くなってもいいと思うのだが、彼らは、きっと、年をとってから後悔すると思う。

今日の夕方のニュースで、日本に定住する外国人が増えているそうだ。
私は、賛成である。
武士道を捨てた不真面目な日本人より、真面目な外国人のほうがいいのではないか。

「日本を売る気か?」

と言われそうだが、そうではない。
良く解釈すれば、彼らは、日本を尊敬していて、日本を好きなのである。
そういう人たちが、日本で仕事をするなら、大歓迎である。
実際に仕事をしている外国人たちは、それなりにちゃんとやっている。

日本を売っているのは、むしろ、スマホ中毒の人間たちであり、スマホ中毒を促している人間たちなのだ。
posted by T.Sasaki at 20:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする