日本の漁業が崩壊する本当の理由 片野歩

世界中で魚類資源が増えているのに、日本だけが減っている。
この現実を、恥ずかしいと思うべきである。

日本の漁業が崩壊する本当の理由.jpg

すべての漁協組合長、理事、参事、そして、任意の漁業団体の会長以下すべての役員たちは、この本を読むべきだ。
読みたくないならば、「日本の漁師は大バカものだ」を参照すること。
これを認識できないならば、役職に就く資格はない!

2024年07月14日

漁業法を越えて

ふたたび、こんばんは。

漁業法だけでは、うまく漁業秩序を保つことはできない。
そこに慣習の力が入り込む余地がある。
しかし、日本の海は、それで済む話ではなくなっている。

沿岸漁業の知事許可の中に、固定式の漁業がある。
たとえば、刺網漁業やかご漁業である。
固定式であるがゆえ、漁場を占有する漁業である。
これとて、地先海面に変わりはなく、古くからやっている各地区の漁業者によって、漁場をどう使うか、申し合わせている。
かご漁業などは、ある程度、市町村の境界を基準に地先を定め、操業しているように思う。
また、もっと沖合のたら延縄漁場も、やはり、古くからやっている漁業者たちが、ある程度の申し合わせ事項を決めて操業している。
そこに、「海はみんなもの」という言い分を用いて、特に漁模様がいい場合なのだが、「オレにもやらせろ!」という人が出てくると、どうなるか。
全く邪魔にならない漁場を操業するか、あるいは、先輩たちの了解をとって操業するならまだわかるが、そうでない場合は、先に「漁業法の歴史」で示したのと同じで、都合が良すぎる話となる。
勝手な漁場の使い方をするようになれば、トラブルばかり起きて、漁業秩序が保てなくなる。
したがって、慣習というのは、秩序を保つ上で、大事である。
法律で規定されていない場合、慣習が、法的意味を持つ、というのは、このことなのである。(「漁業を営む権利」参照)

漁業法は、優先順位を決める法律と端的に言い表したが、地先の海は、関係漁民が優先的に管理しながら漁業をやる、というのは、「漁業法の理解」http://platinum-room.seesaa.net/category/27909215-1.htmlシリーズを読んでわかったと思う。
この考えは、上記の固定式の漁業にも、同じように適用できる。
もちろん、具体的に優先順位を決めている法律はどこにもないが、ずっとその漁場で操業してきた人たちにとって、他所からズケズケと入ってくる人たちは、迷惑そのもの。
ここで、同じ漁場で新規にやりたい人は、どうすればいいか、ということになるが、先輩たちに相談し、うまく入れてもらうしかない。
もちろん、船が多すぎて拒否される場合が多いと思うが、それはそれで、しかたがないとあきらめるしかない。

スマホ中毒社会の現代では、漁業に就業する人は、非常に少ないだろう。
やがて、その地区の関係漁民も高齢化し、後継者がいない場合、漁場が空いてくる。
沿岸漁業や沖合漁業は、すでに、企業が操業しているから問題にはならないが、今回の漁業法改正で、企業が漁業権を取得できるような制度に改正されたらしい。

しかし、その前段階、すなわち引退する漁業者がいない段階で、漁業権を持たない、つまり独立していない有望な漁師に対して、年配の漁師が漁場を譲る、という考えがあってもいいと思う。
有望な若い人には譲り、先人の教えを、後の世代へと継いでいく、というのはどうだろうか。

ここで、「有望な」という言葉の意味は、才能だけではない。
みんなとうまくやっていけるかどうか、という基準も必要である。
もう一つある。
資源を獲り尽くすような考えを持つ人は、新規参入させてはならない、ということである。
片野さんの著書には、ノルウェーの事例として、確か、資源管理に関する試験を受験し、合格いた人のみ、漁師の資格が与えられるとか、書いてあったが、まさにそのごとくにした方がいいと思う。
そうでないと、岩手のかご漁業の許可のように、周年操業がいつまでも続く。
私は、あちこち旅をしてみて、こんな周年操業を知事許可漁業として認めているのは、岩手県だけではないか、と思っている。
恥ずべきことだ。

今後、新規に漁業をやる場合、まわりの漁業者たちとうまくやれるか、そして、魚類資源の維持を考えられるか、この2点が必須である。
この2点を、全く考えない先輩漁師もたくさんいる。
海を維持していくために、そして若者を育てていくために、そういう先輩漁師の考えを変えていかなくてはならない。


posted by T.Sasaki at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 漁業法の理解 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

うみねこ騒動ねえ

こんばんは。

東京では、うみねこで騒動している。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20240409-OYT1T50036/(「讀賣新聞オンライン」)

でも、こうなったのは、しかたないんだから。
八戸の蕪島周辺の住民たちは、「生まれた時から」なんですよ。
うみねこと仲良くしてね!

先日、夜いかで点灯したら、この通り、うみねこが船の周りにたくさん集まってきた。

うみねこだらけ.JPG

うみねことかもめは、どこにでもいる。
沖合いにもいる。
なつかしの鱒縄での経験だが、150マイルや200マイル沖にもいる。
水平線しか見えないから(親父は独航船だったから、他船は、稀にしか見なかった)、ある意味、生き物の鳴き声は、寂しさを紛らすものとなる。

写真を撮っていたら、運よく、いかが付き始めた。

うみねこだらけ2.JPG

40尾入れくらいかな。
大きいように見えても、物差しを当てれば、小さい。
宮古沖は50尾入れ主体で、尾数が揚がっても、箱数にならない。
最近ようやく、二桁の水揚げになってきた。
定置網に入るのは、各市場、数百キロから、数トンである。
まだ、岸寄りに、いかが張り付いているのかも。

点灯すると、かっかべ(蛾)もたくさん寄ってくる。
電球に衝突して、屋根の上には、たくさんのかっかべが転がっている。
嫌になるが、市場に来ると、カラスが飛んできて、全部食べてくれる。
最初の日は、数羽しか来なかったが、仲間に教えたのか、船の屋根の上は黒くなる。
おかげさまで、虫の死骸で汚くなった屋根は、毎日きれいになる。
嫌われる鳥ではあるが、こういう時には、役に立つ。

うみねこの都合もあるだろうし、からすの都合もある。
熊の都合もあるだろうし、鹿の都合もある。
みんな同じ地上の生き物だ。
うまく付き合っていくしかない。

posted by T.Sasaki at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月06日

かぜの口開け

ふたたび。

数日前から、前沖のいか釣りが、何とかなりそうな気配になってきた。
ようやく、先月の乗組員の給料をペイできて、今月分まで払える水揚げになってほしい。
私は、ただ働きが続いているが、しかたがない。

かぜ(うに)の口開けだったので、微速で帰港。

かぜの口開け.JPG

手前の島は、閉伊埼アカブ。
ベタ凪で、小船がたくさんいる。
波を立てれば、「犯人はアイツだ」と簡単に特定される(笑)。
以前、船外機が岸壁まで追いかけてきて、怒られたことがある。
おっかない人がいるんですよ、湾内にも。

おすそわけをいただいて、美味しかった。
かぜは、海苔をちりばめて、ご飯にぶっかけて食べるのが一番!
posted by T.Sasaki at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

乳化剤の入っていないと思われるチョコレート

こんにちは。

これ、乳化剤を使っていないと思われるチョコレート。

フェアトレードのチョコ.JPG

フェアトレードのチョコ2.JPG

原材料に乳化剤が入っていないから、と言って、妹が買ってきた。
フェアトレード製品とはいえ、カカオの国際価格が高くなっているので、本当にフェアトレードになっているのか、あやしい。

私は甘いのも好きだが、控えるようにしている(気持ちだけ)。
先日、血圧が高くて頭が痛いので、病院に行ってきた。
年だなあ。
血液検査では、中性脂肪とLDLコレステロールが高く、たぶん、いかやたこの食べ過ぎと甘いものの食べ過ぎだと思われる。
いかの大不漁で、運動不足もある。
おそらく、かご漁やいさだ漁ならば、こういう数値はなかっただろう。
本当に運動不足だと思う。
肝臓、腎臓とも正常で、その他も異常なし。
そのため、食事に気をつけて、様子見し、数ヶ月後に再検査して、ダメならいよいよ服薬か。

その後、何もしなくても、血圧は戻り、頭痛もなくなった。
少し、いかが釣れ始まって、ストレスが解消されたためかと思う。
いい気になって、甘い和菓子を食べるんだろうなあ。
なぜ、和菓子か、というと、ようかんなどの和菓子には、乳化剤が入っていないから。
このブログの検索窓に、「乳化剤」と打ち込めば、いろいろと出てくる。
乳化剤は、腸に悪さをして、全身炎症を促す。
だから、「乳化剤の入らないスイーツを」なんですよ。

それでも、結局、甘いものを食べ過ぎて、それを消費する運動をしないと、結局、中性脂肪がたまって、LDLコレステロールの増加につながるようだ。
血管中にそれらが付着して、血流を妨げるから、全身に血液を送ろうと心臓が頑張る。
その方法は、血圧を上げるか、脈拍を上げるか、のどちらかである。
心臓が弱ると、血圧を上げることができないので、頻脈で頑張るしかない。
高血圧と頻脈は、体内の異常のシグナルなのだ。
これは、親父を診て、わかったこと。
posted by T.Sasaki at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | うまいもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月02日

共同漁業からミチゲーションへ

ふたたび。

地先の漁業は、自由漁業を基礎として、漁業権漁業がある。
しかしながら、「漁業調整について」でも触れている通り、慣習上の権利として、地先の“従来から営んできた”漁業者は、共同漁業権があろうとなかろうと、操業できる。
「われわれの海」というのは、まさしく、地先の漁業者で管理していこうという意味から、これを、漁業法の神様、浜本幸生さんは、地先権と呼んでいる。(※1)
漁業法の目指すとろこは、本当のところ、「漁業する人間は、自ら、その漁場を管理し、守れ!」ということなのだろう。

日本の高度成長期以前の東京湾は、豊かな海であっという。
全国のノリの生産の半分を賄っていたというから、驚くに値する。
江戸前という寿司の看板があるくらいだから、魚介類の種類も多く、資源もほどほどにあったことだろう。
その後、土地造成のために海が埋め立てられ、東京湾全体の16%を失った。(※2)
埋め立て計画の終盤に、千葉県でちょっとした問題が起きた。
漁業補償金を支払ったはいいが、計画変更で、埋め立てない海域の管理をどうするか、という問題である。
海は公共用物であるから、誰でも使用できるので、千葉県企業庁の思惑ははずれた形になった。
結局のところ、他地区の人たちが操業できることになり、それなら、地元漁民の漁業権放棄を要求しないで、むしろ、地先漁民と話し合いながら、事業をやっていったほうがよかったことになる。(※3)
これは、漁業補償と漁業法を、セットで考えるからおかしくなったのであり、補償に関して、漁業法はいっさい関知しないことを肝に銘じておく必要がある。
何度も書くが、損害賠償は、いちいち漁業権を放棄しなくても、民法の規定により、やってもらえる。
だから、千葉県企業庁側とすれば、「埋め立ての漁業補償はします。残った海面は、お互いうまく使っていきましょうね!」とすれば、地先漁民と仲良くやっていけたのである。

共同漁業権は、地先の関係漁民の権利であるが、これを行使するにあたって、資源管理は必要であり、義務である。
もし、資源管理をせずに獲り尽すことになったら、関係漁民の事業は存続できなくなり、やがて廃業して、オカにあがるか、どこかへ行ってしまうだろう。
それなら、他所から「平等だろ!」と主張しながらやってくる漁業者と何ら変わりはなく、地先の関係漁民に、優先的に権利を与える必要もない。
したがって、地先を「われわれの海」と認識し、自分たちで管理をしっかりやるのだ、という考えが必要であり、義務となる。(※4)
これが、地先優先主義の思想となるだろう。
地先を漁業補償金目当てに、権利を放棄しようなどというのは、論外である。(※5)

地先の管理が明確になっている、ということは、その漁業権設定海面を企業が借りて利用する場合、その企業が有利に事業を行なうことができる。
マリンレクレーションなど、実際に全国でスポットを設けてやっている所は、地先の漁業権を利用している。(※6)

「海の『守り人』論」という本の対談形式で登場するのは、弟子の熊本一規さんと、水口憲哉さん、そして、ケビン・ショートさんである。
ケビン・ショートさんは、アメリカの事例を持ち出し、海を埋めたり、環境を破壊する行為を、漁業者だけに同意を求めるのはおかしい、と疑義を呈している。
そして、ミチゲーションという考えを紹介している。
ミチゲーションとは、環境の復元である。
埋めたり、環境を破壊した場合、周辺で影響を受ける生き物に対して、失った環境を周りに復元してやる、という考え方である。
もちろん、これには、非常にカネがかかる。
ミチゲーションを導入すれば、自ずと、環境破壊行為は少なくなるだろう。(※7)

各県には知事許可があるが、これは、地先優先主義の延長である。
したがって、沖合いであろうと、「われわれの海」と認識し、しっかりと資源管理をやっていかなければならない。
魚類資源が少なくなった現在、この考えは、ますます重要になってくる。

岩手県の乱獲の名物、2そう曳きトロールには、「われわれの海」という認識はなく、とにかく獲り尽すことしか頭にない。
過剰漁獲のみならず、海底環境を破壊した。
先ほどのミチゲーション制度により、元通りにしてほしいと私は思う。
この漁法は、本当に、史上最悪の漁法なのである。
これが、公共の福祉に反するということは明確だ。
憲法第29条2項に、違反する。
憲法違反である。



(※1)
 江戸時代以来の漁村の慣習は、共同漁業だけに生きているわけではない。いわゆる「自由漁業」や「許可漁業」についても生きている。
 浜本幸生は、入会集団としての漁協が、自由漁業や許可漁業を含めて地先水面を管理する慣習が現代にまで続いているとし、この慣習に基づく権利を「地先権」と呼び、次のように説明している。

  地先水門を「われわれの海」と呼んで、地元の漁協等がその水面の利用を管理・調整する「地先権」の慣習は、漁民は明確に自覚していない面がありますが、各地の漁村に、あまねく存在しています。
 一本釣りや刺し網漁業などの「浮魚を運用漁具で取る漁法」は、法律上、共同漁業権の内容にはなっていません。
  しかし、他の漁村の地先水面(他の漁協の共同漁業権の漁場)で、これらの一本釣りや刺し網漁業などの自由漁業や許可漁業の創業をする場合には、地元の漁協の入漁の承諾を受けてから(「庭先料」などと呼ばれる金額を支払う場合もある。)操業しているのが一般的ですが、これが、「地先権」の慣習が存在する典型的な例であります。
  また、漁協が、地先水面を利用して漁業を営む組合員から、漁場行使料、養殖筏の水面占用料、定置網の迷惑料等の水面使用料を徴収しているのも、その根拠は水協法や漁業法ではなく、「われわれの海」と呼ぶ「地先権」の慣習が、それらの金銭の徴収の法的根拠です。(なお、これらの金銭は、多くの場合、漁協を経由して漁村集落に積み立てられて、水産動植物の増殖の費用、漁村内の道路や橋の補修、整備の費用など、漁村集落全体の基盤的な事業の費用に当てられています。)
  そのほかに、漁業以外のマリン・レジャーによる地先水面の利用に関しても、例えば、漁協等が事業者との間で、ダイビング・スポットの開設場所や、マリーナに所属するヨットやモーターボートの航行区域などについての水面利用の取り決めをしている例が見られますが、これらも、その法的根拠は、「われわれの海」と呼ぶ「地先権」の慣習にあります。

 江戸時代の「海の入会」は、漁業法により、権利内容を「漁場の総有的支配」から「入会漁業を営む権利」に変えたうえで、「地先水面専用漁業権」として免許されることとなった。したがって、「漁場を支配する慣習」は、漁業法制定により消滅したものの、「漁場を管理する慣習」は漁業法制定後も存続しており、それは、法例2条に基づき、法律と同一の効力をもつというのが浜本幸生の見解である。「漁業法の神様」と呼ばれ、漁村の実態にも通じた浜本の見解であるだけに、説得力をもっている。
(「海はだれのものか」p98)

(※2)
 昭和30年代から40年代の前半にかけて、全国各地の内湾域は埋め立てられ、大規模コンビナートが建設された。東京湾においては、神奈川県から東京都をはさんで千葉県まで埋め立てにつぐ埋め立てが続けられ、昭和35年から55年の20年間に1万8000ヘクタールが埋め立てられ土地に変わった。明治初期の東京湾の水域面積が11万6000ヘクタールあったとされることから、この20年間で、実に内湾面積の16%が海から陸地に、主として工場用地に造成されたのである。
 その後は、公共用途の埋め立て等に用地造成の目的は変更されたが、海が消え続けていったことに変わりはない。いまや、東京内湾に残された自然海岸は、神奈川県では馬堀海岸北部のほんの一部、千葉県では木更津万洲干潟、小櫃川河口干潟に富津岬周辺だけになってしまった。この間に、千葉県沿岸の埋め立てにともなう用地造成で支払われた漁業補償金の総額は、1156億5883万円。その対象となった漁民の数は1万6000人にもおよび、東京湾全体では、2万人以上もの漁師が、漁業をやめ転業して「オカにあがった」のである。だれもすき好んでオカにあがったのではなかったが、こうした数字をみると、当時日本のノリ養殖のほぼ半分を生産し、江戸前の魚を供給し続けてきた豊かな海であった東京湾が、1200億円(当然他県を含めればもっと大きな金額だが)という金額で消えてしまったという計算をしてしまいたくなる。
 内湾の入り口富津岬。木更津、君津の埋め立てに続いて、富津地区にも1400ヘクタールの埋め立てが計画された。千葉県における最後の大規模埋め立てとして、公表された昭和41年以降、地元漁民のうちの絶対反対派が埋め立て反対運動を展開する。当時のジャーナリズムは、この漁民たちを「東京湾に残された最後の砦」とか「接点の海、富津漁民の闘い」と報じた。この動きも結局のところ、昭和43年から45年にかけて、関係地区4漁協(青堀、青堀南部、新井、富津漁業協同組合)1402人・186億円の漁業補償で決着している。同時に、埋め立て関係水面の区画漁業権と協同漁業権は完全放棄されることとなった。
 ここまでの漁業補償事例という点では、全国的にみても特異な事例でもなんでもない、ごく普通の事例である。しかし、その後の経済情勢の変化など、さまざまな要因が重なり、当初の埋め立て計画は半分以下に縮小され、約600ヘクタールの用地造成でストップしてしまった。
(「海の『守り人』論」p104)

(※3)
巨額の漁業補償金を漁業者に支払って漁業権の権利を放棄させた経緯があろうと、その水面が埋め立てられて土地に変わることなく、そのまま海として残ったとしても、千葉県企業庁はなんらの支配管理を行う法律的な地位を得ることにはならないのである。さらに、そればかりか、千葉県企業庁にとっては、やっかいなお荷物をかかえてしまったという点についても注意をする必要がある。
 こうした法律的なメカニズムについては、次のように書いている。

  〇・・・・漁業権等の放棄の法的効果で最も注意すべきことは、「放棄によって漁業権者などが持っていた権利が消滅することです」ということです。権利者自身の持っていた権利が消滅するだけであって、他人には、なんらの法律的影響(効果)を及ぼすことにはならないのです。
  〇・・・・漁協が漁業権を放棄すれば、その水面には以後絶対的に漁業権が存在し得なくなるように考えている人がいますが、そうではありません。従来、漁業権の外側の沖合部にあった「入会い漁場」が、放棄によって消滅した漁業権の漁場区域にまで広がってくるだけでなくて、その海域について他人が新規の漁業権の免許をうけるということがあるのです。

 千葉県企業庁が、「緩衝海域」として「なんびとにも権利を与えない」というつもりで、海面の港湾利用図面などにはっきりと線引きをし、この線から中は企業庁のものだから「だれも入ってはいけません」という旗を立てたとしても、誰かが入ってきて釣をしたり、貝を採ったりしたものを法律的に排除できないばかりか、合法的に新しく漁業をやらせてください、漁業権を設定してくださいと知事に免許申請をしてきたときには、ぴしゃりと拒否する根拠はどこにもないのである。
 つまり、漁業法は第1条の「水面の総合的高度利用によって漁業生産力を発展させること」を目的としているので、漁業法の立場は、放棄した漁協や漁民に代わって、漁業をやりたがっている人たちに対して漁業権を与えることになっているだけでなく、埋立免許にある水面について第三者に漁業を免許したのは適法という判例もあるのである。
 一方、公有水面埋立法においては、漁業権や入漁権など水面に権利を有するものに対し損害賠償をしなさいとなっているだけで、漁業権の放棄をしなさいとはどこにも書いていない。現実に、これまでの補償事例にあるように、漁業補償と漁業権など放棄がセットになって交渉が妥結するという場合が多かったのであるが、これも、漁業権放棄によって水面の「排他的な支配管理権が移管」するという思い込みによるだけのものであり、なんの法的根拠のないものである。
 浜本解説の結論部分である。

  〇・・・・すなわち、公有水面埋立法制度では漁業権の放棄を全く要求していないのです。漁業権は〈埋め立て工事の実施によって水面が陸地化するに伴って、漸次縮減し、あるいは消滅に至るもの〉なのです。
  〇・・・・民法においては、「海」の法的性質は、「海は古来より自然のままで一般公衆の共同利用に供されてきたところのいわゆる公共用物である」(最高裁昭和61年12月16日「田原湾干潟訴訟」上告審判決)としています。
  〇・・・・そして、〈海は公共用物である〉から、「国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないもの」(同判決)であり、したがって海面下の土地の存在はゆるされないものとして否定されました。
  〇・・・・このように「海」は、「特定人による排他的支配の許されないもの」であるからこそ、漁業法による漁業権も、公有水面埋立法による公有水面埋立権も、海面下の地盤の所有権が否定されたのと同様に、水面を支配し管理する権利として存在するものではありません。
  〇・・・・したがって、わが国の法制度は、「海」については、国が直接に公法的支配管理する ― すなわち、国が国民に対する優越的地位において、直接に「海」を支配管理すること ― 場合を除いて、一般私人には「海」を排他的に支配管理することを一切認めないわけですから、「発電所前面海域」について巨額の漁業補償金を出して漁業権等の権利を放棄させた経緯があった場合においても、漁業補償金を支払った発電所側には、「海」の一部分である「発電所前面海域」についてなんらの支配管理を行う「法的地位」は生じ得ないことになります。
(前掲書p115)

(※4)
熊本 いわゆる「持続的開発」という考え方があります。英語では、サスティナブル・ディベロップメント Sustainable Development といいますが、この考えかたは、かなりはやりの概念になっています。ただそれがどういう開発を意味するのか、持続的開発の条件としてどういうことが必要かといった、その内容まではあまり論議されていない。わたしは、共同漁業権を理解したものはだれしも抱くと思いますが、漁民たち自身が沿岸の漁業秩序を作っていく、そして自分たち自身が管理し利用していく、これはやはり持続的開発のかなり有力な条件ではないのかと考えています。海に生活を依存しているものたちが、自分たちで資源を管理していくということですね。それが、持続的開発にとってきわめて重要ではないのかという気がしています。
 入会権とか漁業権は、ともすれば、封建時代からの遺制であるとか、あるいは封建的な規制を持った権利である、すなわち古い権利であるというようにとらえられがちです。しかし、持続的開発という視点からみるならば、むしろ、これから重要になる概念を含んだ権利といえるのではないだろうか。とくに、アジアの地域において非常に重要な意味を帯びてくるのではないかという気がしているんです。
 いろいろなルールが設定されますけれども、それは決して封建的なルールではなく、むしろそこに住む人たちが永続的に資源を利用していくためのルール設定であるというように理解しております。この点は、浜本さんはいかがお考えでしょうか。
浜本 熊本さんの理解されたとおりです。「われわれの海」ということばを、わたしが意識して作ったのは、自分らの権利主張するときだけ「われわれの海」といって、開発なんかに対して、漁場がなくなったりとかというときに、先祖伝来の漁場とかいっておきながら、それをたくさんの補償金をもらうための理由づけにしか使っていない、それでは困るわけです。だから、「われわれの海」というのは、自分一人の海ではないということで、共同で利用し、共同で管理してきた「われわれの海」という意味があるのです。
(前掲書p219)
 義務のないところに権利なしです。地先権の義務は何かといえば、前浜の水面の管理なんですね。その管理というのは、具体的には漁場の口開け、口止めとか、採捕の輪番制とか、漁場の割り替えを決めるとかの長いあいだ決められてきた慣習がもとになってくる。漁場の維持への期待といってもいいのでしょうか。前浜の管理が、地先権の内容とその主張に対応する義務になっているのです。
(前掲書p344)


(※5)
浜本 漁業権を放棄してしまったら、それこそ、あとの海の管理をする人はだれもいなくなってしまう。埋め立てられたて海がなくなってしまうのなら放棄もやむをえないが、海が残る限り、海を管理するのは地元集落の責任なのです。それが、江戸時代以来受け継いできた漁民たちの責任なんです。いまは、漁業権という名前で受け継いできているのだから、漁業権を金をもらって放棄するのは集落としてやるべき権利をなくしてしまう。義務まで放棄してしまうことになるので、補償金をもらっても放棄するなとわたしはいっているのです。これが、わたしの考えかたの道筋、順路です。漁業権さえ残しておけば、ケビンさんがいわれた、いろいろな多様性のある沿岸域の対応が可能になるのです。
 漁民がやらなければだれが海を管理しますか。だれにもできないでしょう。
(p264)

(※6)
浜本 ある会社がダイビングスポットを設けて、そこで土地の漁協に、使用料を払ったということは、そこの水面に関する限り他の人が海を使うということは事実上ありえない。企業が安定して利用できる海面となります。昔から、漁協近くには海岸に造船所があります。そうすると、修理する船とか大きな船などを、つないで待たせている海面が必要となります。そして、この場所ならとめてもいいという了解を漁協から受けています。そうすると、造船所は自分の土地ではないが、自分のところの駐車場みたいに海の場所を利用できる。これは漁業権のおかげです。正確にいうと地先権ですが。
 だから、むしろ個人で遊びたいというのならともかく、なにかの企業的なことを海でやりたいというなら漁業権によって事業活動が安定するわけです。
 さきほどケビンさんもいわれていた、新しいジェットスキーというようなものは、新しいマリンレクリエーションですね。昔は「組合」が管理できたのは海水浴までですね。海水浴場の権利は、集落がもっているのです。集落イコール漁協ですから、砂浜における海水浴場の権利は漁協が持っているということになります。トレイとか更衣室とか一部の食堂も漁協が作っているはずです。あれも慣習なんです。砂浜は国有地ですが、慣習によってルールができている。海水浴までは一般国民とは衝突していない。
(p266)

(※7)
ケビン わたしは、一般的な国民の目から見れば、漁村にある程度の地先の権利を認めるが、他の人は水面に関してはまったく権利を認めないということがおかしいのではないかと思います。わたしは海岸を歩く権利もあるし、なにも悪いことをしないかぎりにおいては海に潜る権利もあると思う。もう一つは、海を埋め立てるか、埋め立てないかは、わたしにも言い分があるんです。漁業者だけが同意すれば埋め立てできるということは、世界の中でも時代遅れであると思います。沿岸域管理の立場からいえば30年ぐらいの立ち遅れという感じがする。
 アメリカの場合は、たとえば港湾のなかで海を埋め立てるというときには、徹底的な環境アセスメントの調査をやる。しかし、日本は残念ながら環境影響調査のシステムが笑い話のレベルです。そう、ことばだけなんですね。よくいうハンコを押すためだけの調査でお茶を濁しているという程度なんですよ。
 それに対してアメリカでは、ミチゲーション Mitigation という考えがあります。「環境の復元」というような意味ですが、これに当たることばを日本の場合に当てはめると、コンペンセイション Compensation 、つまり「補償」という意味になってしまう。
 たとえば、この場所を埋め立てる。この場所で魚が産卵して、水鳥も生息地としている。これを埋め立てると、魚の資源が少し減るし、生息していた水鳥がすみかを失ってしまう。今度はそれと同じくらいの生態的な機能を回復させることができる場所を作らなければならない。これをミチゲーションというようにいいます。
(中略)
 日本も将来はそういうミチゲーションという制度がないと、残り少ない海辺の干潟とか浅瀬とかはすべてなくなってしまう。そのなかで、漁業者が大きなウエイトを占めているが、漁業者だけが埋め立てを了解するしないというシステムが、一般的に悪い印象を与えることになっている。まるで、海を捨ててしまった漁協が、その海を開発業者に売り渡している印象を与えている。都市部ではまさにそうです。
(p270)




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漁業調整について

こんにちは。

それでは、漁業法の本題、漁業調整について。
もう一度、昭和24制定の漁業法、改正前の漁業法の第1条を見てみる。

  第1条 この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。

というように、「漁業調整」という言葉が入っている。
しかし、令和4年に改正された漁業法の第1条には、「漁業調整」という言葉は入っていない。

第一条 この法律は、漁業が国民に対して水産物を供給する使命を有し、かつ、漁業者の秩序ある生産活動がその使命の実現に不可欠であることに鑑み、水産資源の保存及び管理のための措置並びに漁業の許可及び免許に関する制度その他の漁業生産に関する基本的制度を定めることにより、水産資源の持続的な利用を確保するとともに、水面の総合的な利用を図り、もつて漁業生産力を発展させることを目的とする。

「漁業調整」は、大臣許可漁業の項の第36条で、ようやく出てきて、括弧の中で次のように説明されている。

(特定水産資源の再生産の阻害の防止若しくは特定水産資源以外の水産資源の保存及び管理又は漁場の使用に関する紛争の防止のために必要な調整をいう。」とある。以下同じ。)

第36条の前には、第14条で海区調整委員会のことが出てくるから、その前に、「漁業調整」に関する事柄を入れても良さそうなものである。
漁業法は、「漁業調整」を基本的に定める法律であるから、改正前の第1条の条文のほうが、私は適していると思う。(※1)

漁業法は、「漁業を営む権利」でも触れているとおり、「漁業調整」をどうやって行なっていくか、ということを定めた法律である。
端的にいえば、漁業を行なう場合に、優先順位をつけることになる。
その優先順位は、地先で伝統的にやってきた人が最優先であり、あとからやってきて漁業をする人は、順番に従う。
「そうではないだろ!みんなの海じゃないか!平等にやれ!」という人がいるかもしれない。
じゃあ、逆に聞くが、「どうやれば、争いをせずに、漁業をできるのか?」と。
いろいろと方法論を考えてほしい。
答えは、その地の慣習に従うのが、一番簡単で理にかなっている。

また、これ以上漁業者を増やせば、魚を獲り尽す、あるいは、密殖で養殖物が育たないという考えも当然持つであろうから、地先漁業者の意見を踏まえ、漁業者の数を制限し経営を安定させるのも漁業法の目的である。(※2)
それは、第1条の「漁業生産力を発展させる」という条文の意味するものである。

ここで、いきなり共同漁業権の話になるが、各漁協の地先には、共同漁業権が設定されていて、その区域内では、漁業権を持つ人しか操業できない。
厳密には、漁協に所属していなくても、地先の関係漁民ならば操業できるのであるが(慣習上の権利)、現在では、漁協に所属しない漁業者は皆無に近い(慣習上の権利を持っていた人は、ほとんど漁協に入ったことによる)。(※3)
しかし、その漁業権で設定されている漁法や魚種以外ならば、自由漁業であるから、操業できる。

明治漁業法から現在の漁業法に変わるとき、意図的に、浮魚を共同漁業権の内容としなかった。
理由は、浮き魚は移動しているため、その地先の資源管理に適さないから、あるいは、地区同士の紛争の原因になる、などといろいろあるが、一番の理由は、漁業調整委員会の役割の重要性を認識してもらうため、である。(※4)
漁業調整委員会は、漁民の意見を反映させる民主的な性格をもつために、その制度を大いに利用しろ、ということである。
だから、選ばれた漁業調整委員の役割は、非常に重要であり、責任が大きい。

しかし、漁業調整委員へ意見を上申する漁業者も少なくなったのか、それとも、委員にやる気がないのか、ほぼ、漁業調整機構が機能していないと言っていい。
各都道府県の行政職員たちが、代行しているようだ。
「海の『守り人』論」が発行された1996年でさえ、そのような記述があるから、現在では、もっと形骸化しているだろう。(※5)
漁業調整機構は、性格上、下意上達(ボトムアップ)である。
上意下達(トップダウン)ではない。
民主的とは、下意上達なのだ。
この下意上達の方法が、漁業調整でうまく作用していない。

漁協組織もそうだ。
先日、宮古漁協の総会に出席してきた。
するめいかの大不漁で暇を持て余してしまって、いろんな会議に出席している。
会議後、漁協職員から聞いたのだが、下意上達の方法というのが、どうやら難しいようで、漁民の不満や要望が、あまり伝わらないような雰囲気である。
一般に宮古人は静かで、会議などではっきりと意見を言わない。
こうなると、ほぼ、しゃんしゃん総会、しゃんしゃん会議なのだ。
だから、少々、定款などの変更が必要であろう、と言ってきた。
実は、もっと前に行なわれた岩手県沿岸漁船漁業組合の総代会総会に出席した時も、するめいかの大不漁のことから、「各地区の漁師の意見をくみ上げて、組合長たちは、何かやってほしい」と意見してきた。
下意上達が、あまり機能していないので、今後、この方法を考えていく必要がある。
それが、漁業調整に役に立つ。



(※1)
 ここでは、「目的」の冒頭に「漁業生産に関する基本的制度」を定める法律と書かれています。したがって、漁業法の所管事項は「漁業生産」です。すなわち、水面で魚をとったり、貝をとったり、養殖をしたりする「漁業生産」について規定されています。
 漁業という営業を「生産」と「流通」に広く分ければ「生産」部門を所管し、流通部門とは関係がありません。漁業法が所管する場所としては、水面における漁業行為に適用され、陸地においてはせいぜい「水際」程度までといえましょう。
 そして、第1条では、続いて「漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする」と書かれています。ここで規定されている「漁業調整機構」とは、「海区漁業調整委員会」などの委員会を指していますが、実際の漁業法の運用は、これらの「委員会」だけにかぎらず、遠洋漁業や沖合漁業については、所轄大臣や知事が漁業許可の権限を持ち、漁業法を運用しています。
(「海の『守り人』論」p27)

(※2)
「水面の総合的高度利用による漁業生産力の発展」を目的とする漁業法に規定された漁業許可の制度は、その漁業を営むことができる漁業者の数を制限し、また使用漁船の隻数等を制限することによって、「漁業経営の安定」を目的とすることは明治漁業法、新漁業法を通じてその解釈にまったく変更はありません。
(前掲書p53)

(※3)
 漁業法には、部落漁民が慣習に基づいて入会漁業(共同漁業)を営める旨の規定はない。部落漁民が入会漁業を営めるのは、慣習法あるいは法例2条に基づいており、漁業調整という公共目的のために、免許や許可を誰に与えるかを規定した公法たる漁業法とは何ら関係がないからである。
(「海はだれのものか」p95)
 共同漁業権とは「共同漁業を営む権利」であるから、員外者の関係漁民が慣習に基づいて入会漁業(共同漁業)を営むことができるということは、員外者の関係漁民も共同漁業権を持っていることを意味する。いいかえれば、員外者の関係漁民は、漁業法に基づいてではなく、慣習に基づいて共同漁業権をもっていることになる。
 すなわち、関係漁民は漁協に属そうと属すまいと(免許があろうとなかろうと)共同漁業権をもっている。そして、漁業法は、そのうち「漁協に属する関係漁民」、すわなち「関係組合員」の共同漁業権について規定した法律である。員外者の共同漁業権に関しては、漁業法には、「員外者の保護」の規定(14条11項)しかなく、その規律は慣習に委ねられている。
 共同漁業は免許や許可がなくても営める自由漁業であり、自由漁業であるならば、国民の誰もが自由に営めるはずであるが、実際に共同漁業を営む者が関係漁民に限定されているのは、関係漁民集団が共同漁業権を総有しており、かつ、共同漁業権が物権的権利だからである。
(前掲書p97)



(※4)
 漁業法の立法趣旨を解説した、水産庁経済課編「漁業制度の改革」(昭和25・1950年刊 以下「改革」)の「浮魚を共同漁業権の内容としなかった理由」(292頁以降)で、その理由を次のように説明している。

  @ 浮き魚(定着性でないもの)を目的とする漁業は、だいたい地先水面で待ち構えてとる漁法の場合は漁業権とするが、魚群を追い求めて漁場を自由に移動して操業する、いわゆる運用漁具(漁労学上の厳密な意味でいっているのではない)でとる場合は漁業権としなかった。
  A こういう漁業は、だいたい他村の地先にもいって操業しなければ成立しない漁業であるのに、それを権利として地元の組合に持たせることは海を部落ないし村ごとに区切って固定的な障壁を設けることになり、漁業生産力の自由な発展を妨げ、深刻な部落対立をきたすからである。
  B その典型を瀬戸内海に見る。瀬戸内海では、多数の漁民が複雑に入り会って海を利用しており、一つの漁業権に普通十数件、はなはだしきは二十件以上の入漁権が設定されている。これでは、地先を持たずに入漁させてもらう部落はきわめて不利である。
  C たとえば、岡山県の某組合では、すぐに目の前の島は香川県に属し、ほとんど海を持っていない。逆に、香川県でも部落によっては専ら入漁権によって漁業をやっている、しかも往々にして地先水面の広いのはむしろ百姓部落で、漁業が発達し専業漁民の多いところが地先が狭くてよそに進出せざるを得ず、進出せんとしてはそこの専用漁業権と衝突して深刻な漁場争いとなる。
  D かかる漁場の利用関係を、漁業権対入漁権のかたちで規律せんとしても不可能であり、別の調整方式で規律しなければならない。
(「海の『守り人』論」p135)

浮き魚を運用漁具でとる漁業を共同漁業権からはずしたわけだから、はずされた漁法は自由漁業あるいは許可漁業や遊漁としてより広域的な操業か可能になったのだが、逆に従来の小規模漁業よりもっと規模も大きく、より効率的な漁法、例えばまき網漁業などが、漁業権漁場に入ってきて操業をすることにはならないだろうかという心配である。もちろん、この点についても、「漁業制度の改革」では、ちゃんとふれてある。さきに引用した「浮き魚を共同漁業権の内容としなかった理由」のDにある「別の調整方式」という規律のことであり、「あくまで自由放任の実力競争に任せるのではない」というように書いている。
 この新しい調整方式が、「委員会指示」(漁業法第67条)と呼ばれるもので、漁業調整委員会が漁業調整上必要があると認めるときは、だれに対しても、いかなる事項でも、制限や禁止その他の必要な「指示」をすることができる。「漁業制度の解説」では、次のように調整方式について解説を加えている。

  「委員会指示が活発にうまく行われれば、もっとも機動的、具体的に漁場の利用を規律しうるが、逆に委員会が動かなければ漁場は無秩序となって実力支配の修羅場となり、さらに能率的な資本漁業の自由な侵入をきたして一層零細漁民の漁場を収奪するおそれもあり、委員会の如何によって浮き魚をはずしたことの成否が決まるのである。」

 それだけ漁業調整委員会の任務は重大なのである。浜本幸生さんは、この調整方式を、「この委員会指示によって、浮き魚を共同漁業からはずした担保をとった」という、実に分かりやすいいいかたをしている。
 浜本用語の「担保」の意味をわたしなりに考えてみたい。つまり、浮き魚を運用漁具でとる漁業が共同漁業権のわくに入っていないからといって、まき網漁船が共同漁業権漁場のなかに入って操業して、サバやアジをとっていいというような表面ヅラの理解をしてはいけないということなのである。また、さらにつっこんでいってしまうと、現行漁業法上は、共同漁業権から釣りやさし網などの、浮き魚を運用漁具でとる漁業がはずされ、そのかわりに委員会指示という「担保」をとったことになったけれども、これは戦後の漁業制度改革の過程で、いわば形式的に「はずされている」だけであって、実質的な共同漁業権の性格にはなんの変化もなかったということなのではないだろうか。
 これを浜本幸生さんに確認すると、わたしの思った疑問符つきの担保の意味ではなく、「むしろ断言すべきなんだよ。」と答えてくれたのである。
(前掲書p138)

(※5)
熊本 次に、漁業秩序は、いったいだれが決めていくのかという点に入っていきたいと思います。まず、漁場計画というものがあります。都道府県知事が漁場計画に従って免許するという制度ですが、このことから知事が漁民に漁業権を与えるんだというように錯覚している人も多いのです。知事は漁場計画にしたがって免許をしなければならないのであって、漁場計画を現実に樹立するのが海区漁業調整委員会ですから、実質的には漁場計画を樹立するのは漁民である。そういう理解でいいのでしょうか。
浜本 まず、漁業法の立法趣旨では、戦後の漁業法は第1条の目的の中で「漁業の民主化を図る」といっているように、漁場計画も漁民が作るという考え方です。そして、漁業者及び漁業従事者が半分以上を占める漁業調整機構というのが海区漁業調整委員会ですが、これが漁民の意見を聞いて漁場計画をたてるという制度です。しかし、この制度の考え方は、実際には漁場計画のときにそれほど活かされていないということがいえます。
熊本 つまり海区漁業調整委員会は実質的にあまり機能していないということですか。実際には都道府県のお役人が作ってしまうというようなことなのですか。
浜本 そのとおりです。海区漁業調整委員会が機能するには、ちゃんとした事務局が必要になります。ところが、委員会の事務局は、機能的にも、予算のうえでもだんだん縮小されているのが現実です。
(前掲書p200)




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2024年07月01日

ミスコンの多様化

ふたたび。

地球温暖化は、地球人の努力では、何にもならないことは、「気候変動の主因は、人為的なものではない」ですでに紹介した。

しかし、ヨーロッパの人たちは穏やかでないから、デンマークでは、牛のおならやげっぷに、課税するらしい。

https://nofia.net/?p=21058(「BrainDead World」)

でもね、ミス・アラバマを見ると、考え込んでしまう。

https://nofia.net/?p=20669(「BrainDead World」)

こんなになるには、きっと、いろんな美味しいものを食べたんでしょうね(笑)。
彼女の食欲を満たすために、世界中の農家が食べものを作るわけだ。
車で移動すれば、燃費は落ちる(=余計に温室効果ガスを出す)し、タイヤは減るし、道路は減るし。
真面目に温室効果ガスを減らそうとしている人たちは、どう見ているんでしょう?

さて、温室効果ガスを減らすことは、海の酸性化を減らすことになって、漁師にはいいことなのだろうが、それとは関係なしに、化学物質が脅威となりつつある。
すべての汚染物質は海へと通じるのだが、その前段階として、淡水では、悲惨な状態になっている。
コカインをはじめ、鎮痛剤、抗がん剤、抗生物質などなど、いろんな生物が摂取してしまい、性がおかしくなっている。

https://indeep.jp/perfect-extinction-way-is-going-like-this/(「In Deep」)
https://indeep.jp/anticancer-drugs-are-ecosystem-killers/(「In Deep」)
https://karapaia.com/archives/52332356.html(「カラパイア」)

昔、レーチェル・カーソンが「沈黙の春」で告発したが、それが現実になりつつあるのだ。
彼女は、農薬が生態系へ影響を及ぼすというのを告発したが、当時、知見が乏しく、彼女の主張したDDTによる影響は、それほどでもなかった。
彼女は批判されることになるが、それでも彼女の心配は、このように当たることになる。
特に、上記リンクのように、医薬品は垂れ流し状態であるといえ、淡水魚は、末期的かもしれない。

なんだか、あまり深く考えないで、ミス・アラバマのように、牛肉を食べるほうがいいような気がする。
こんな状態で、牛に税金をかけるのに意味があるのかどうか。
たぶん、そういう空気が充満していて、ヨーロッパでは誰も否定しないんだろうなあ。

200キロ超の体、大丈夫かね?

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漁業法の歴史

こんにちは。

漁業法シリーズ、3回目。

漁業法は日本独自の法律であって、世界中を探しても、このような法律はない。(※1)
慣習法を体系化したものであり、そこには、規定されていない慣習もある。
したがって、権利の解釈は、民法その他の法律と同じなのである。
漁業を営む権利」「漁業を営む権利は、財産権である」で権利の中身やその実効性がわかったと思うので、ここで、漁業法の変遷について、書いていくことにする。
昔から伝わる漁業の慣習が、どうなってきたか、ということである。

漁協経営センター発行の「水協法・漁業法の解説」の冒頭には、どの改訂版でも必ず、黎明期から明治漁業法、そして、現行漁業法について書いてある(たぶん)。
江戸時代には、すでに、「磯は地付き、沖は入会」という考えが採用されていて、これは、基本的に現在まで変わっていない。(※2)
長い間の慣習というのは、本当に重みがあるものだ。

なぜ、「磯は地付き」といって、地元の漁業者に権利があるのか?と疑問に思う人もいるだろうし、思わない人もいるだろう。
あわびは黒いダイヤとも言われた時期もあり、腕のいい人は、数回の口開けで何百万円も獲った時代もあった。
これを羨ましく思い、「オレにも獲らせろ」という人は、たくさんいると思う。
しかし、ずっと地元でやっている人たちに言わせると、「ずいぶん都合のいい奴だ」と考えるのだ。
これは、正しい!
カネになるから、いきなりやって来て、「海はみんなのものだから、みんなにとらせないのはおかしい」というようなことがまかり通りようになると、漁場利用の秩序は乱れ、資源は枯渇する。
地元でない人は、資源が枯渇すれば、サッと撤退する。
本当に都合が良すぎるのだ。
みなさん、そう思いませんか!
これを防ぐ方法として、地元漁民優先、という考えが自然と出るのである。
江戸のちょんまげの時代でさえ、みんなちゃんと考えていた。
それを、「何でも平等でなきゃ、いかん!」という人はアホなのだ。

現在の改正漁業法の目玉で、漁業権漁場への企業の進出を決めた時、反対する人たちは、この地先の権利を蔑ろにされるのを恐れた。
しかし、ちゃんと、地元の人たちと協議して免許されることが、改正漁業法には明記されているらしい。
したがって、改正漁業法でも、従来の漁業法の基本的な部分は、踏襲されているのである。

日本が欧米並みの近代的な法律を作るにあたって、漁業法は世界中探しても、どこにもなかった。
そこで、日本中の漁業の慣習を聞いて回って作られたのが、明治漁業法である。
各地の慣習を情報収集するのだけでも、20年以上もかかっている。(※3)
それを体系化してまとめたものだから、本当に苦労しただろう。
この苦労を認識し、解説書を多数書いているのが、「漁業法の神様」と呼ばれた浜本幸生さんである。

現在の漁業法は、数年前に改正されたばかりであるが、改正前の漁業法は、昭和24年に制定された。
ほとんどは明治漁業法と同じであり、ということは、基本的な事柄は、江戸時代から変わっていないということである。
GHQ主導で、漁業の民主化が計られるということだったが、改正点は、共同漁業権から、釣りなどの漁業をはずしたくらいしかなかった。(※4)
つまり、明治漁業法は、ほぼ、完成の域に近かったということである。

改正前の漁業法には、こうある。

  第1条 この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によって水面を総合的に利用し、もって漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする。

条文中にある「漁業調整」という言葉には、明治漁業法の時代から「水産動植物の繁殖保護」という意味も含まれる。(※5)
漁業生産力を発展」させる方法としても、自ずと「水産動植物の繁殖保護」は必要であるから、改正漁業法の第1条の条文中に、いちいち「水産資源の持続的な利用を確保する」といった文面は必要ない。
水産庁は、もちろん、このことを知っていただろうが、なかなか漁業者、特に、漁獲圧の高い漁業をやっている水産会社を口説くのに苦労していたことから、第1条に明記したのだと思う(と少しはよく解釈する。笑)。
つまり、私利私欲にまみれる水産会社を、ようやく規制する動きが強まる、ということではないか。

私利私欲といえば、海を埋め立てる事業があったら、漁業権放棄と引き換えに、カネをもらおう、という考えの人もいる。
こういう人は、特に、年齢の高い層に多いように感じる。
しかし、漁業権を規定する漁業法と損害賠償は、まったく別ものである。(※6)
第1条に、それはちゃんと「漁業生産力を発展させ」という言葉で明記されているから、勘違いもはなはだしい。
漁業権の放棄は、内閣法制局でさえ否定していて、各省庁間でも、事業の行われない場合、漁業権の免許を行う、という覚書も交わされている。(※7)
漁業権放棄する、ということは、「悪」なのである。



(※1)
 現在の漁業法・漁業権は、2000年以上に及ぶわが国の漁業の長い歴史と伝統のうえに根ざした、世界で日本だけにある制度です。
 日本書紀や古事記の世界には海幸彦、山幸彦の神話があるように、わが国の漁業はたいへんに古い歴史があります。海辺に人々が住むようになって、集落としてムラが生まれた古い時代から、すでに漁業についての勢力分野的な現象が生じていたと思われます。
 しかし、大化の改新(645年)でわが国はじめて成文法「大宝律令」が発布されますが、その「雑令」のなかに、「山川藪沢(サンセンソウタク)の利は、公私これを共にす」ということが記されています。簡単にいえば、山や川や海の自然の恵みを「とる」権利は万民に開放されていっる、ということを宣言しています。
(「海の『守り人』論」p19)

(※2)
 江戸時代はいろいろな産業・文化が発達しましたが、漁業も同様であり、沿岸の各地には多くの漁村がすでに成立しており、現在行われている沿岸漁業の種類のほとんどが行なわれていたようです。そして各藩ごとに、土地と同様に海面についても「漁場の領有」を前提として、現在の漁業権の免許と同じような漁業行政を実施していました。
 この藩による行政の基盤となったのが、徳川幕府が定めた「武家諸法度」であり、漁業行政の原則が「山野海川入会」(サンヤカイセンイリアイ)です。この規則の中の重要な部分が「磯は地付き、沖は入会」というところです。「磯は地付き」というのは、「磯」すなわち沿岸部では、地元の漁村または一人ないし数人の仲間に漁場の独占的利用を認めることであり、「沖は入会」とは、「磯」の沖合部分はそれぞれの漁村に住む漁民の自由な入会い漁場とするということです。現在の、漁業権や入漁権が沿岸部だけに免許されているのは、この原則を受け継いでいるわけです。
 このほか、「村並の漁場は、村境を沖へ見通し」と定められ、漁業権の横の境界は、村境とし、また、「漁猟入会い漁場には、国境の差別なし」という定めで、国境付近の沖合漁場では、国境に関係なく、両国の漁民の自由な入会操業を認めていました。
(前掲書p20)

(※3)
 明治維新の混乱の後、明治政府は近代国家の建設に着手し、国の法制をヨーロッパに学び、民法、刑法などの基幹法はフランスやドイツの法律を翻訳、模倣して制定したのです。しかし、漁業法だけは範とする漁業制度はどこにもなかったのです。そのため、当時の水産局は、20数年をかけて全国の「漁業慣行」をくまなく調査し、整理して制度化したのが「明治漁業法」なのです。ですから、ヨーロッパなどで漁業法をもっている国はありますが、海面や内水面に土地の所有権とは切り離して漁業権が存在するのは日本だけなのです。わが国の明治期に作られた基幹法のなかで、漁業法こそが、日本人の有史以来の伝統的ななりわいのなかから独自に作りあげられた唯一の法律といえます。
(前掲書p21)

(※4)
 現在の漁業法は、昭和24年(1949年)の漁業制度改革に基づき明治漁業法を廃止して新しく制定されたものです。第二次世界大戦の敗戦後、GHQの占領政策の一環として、「農地改革」、「財閥解体」に続く日本の民主化政策として漁業制度改革が実施され、その主な目的はひと言でいえば、自ら働く漁民に漁業権を与えることでした。
 確かに漁業法は新しくなったのですが、漁業制度の仕組みは、明治漁業法の仕組みをそのまま受け継いでいます。明治漁業法の制度と変わったところといえば、「浮き魚を運用漁具でとる漁業」すなわち、釣り、はえ縄などを共同漁業権のわくからはずしたことぐらいです。
(前掲書p26)

(※5)
浜本 漁業調整の意味は、法第1条の「この法律の目的」に書かれているように、「水面を漁業のために総合的に高度利用して漁業生産力を発展させることである」と説明されています。そして、この「漁業調整」ということばは、明治漁業法(第34条)において、水産動植物の「繁殖保護」と「漁業取締」という二つのことばでいい表されたものを合わせたというような経緯もあります。
 したがって、「漁業調整」はなんであるかといえば、この漁業法第1条の目的に書かれていることも、水産動植物の繁殖保護のためにいろいろな規制をすることも漁業調整に当たります。また、漁業をまったく規制せずにおくと、各種の漁業が乱立し、いろいろな紛争が起きたりするために、そうした漁業の乱立を防ぐとか、漁業全的な経営の安定を図ることも、この「漁業調整」ということばには含まれているのです。このことをしっかりご理解いただきたいと思います。
(前掲書p334)

(※6)
 そもそも、水協法・漁業法は、1条(この法律の目的)に「水産業の生産力の増進」(水協法)、あるいは「漁業生産力の発展」(漁業法)を掲げていることに示されるように、漁業を振興させ、漁業生産力を発展させることを目的とした法律である。そのような法律に、埋立やダムにより漁場が潰れる際の規定や補償に関する規定が含まれているはずはない。したがって、「埋立同意」に水協法や漁業法の規定を適用すること自体がそもそも誤りなのである。
(「海はだれのものか」p138)


(※7)
水口 私は第1条が好きで、よく学生にもいいますし、読んでも聞かせます。山口県熊毛郡の祝島漁協という組合では、原発建設計画のための環境調査に反対して、現在、組合という法人と組合員とが一体となった画期的な訴訟を起こしています。詳しくはのちほどお話しいたしますが、裁判にあたっての決意文というのがありまして、「本来漁業法というのは漁業生産を高めるためにあるのであって、埋め立てとか漁業権放棄をするために運用されるのはおかしい」といっています。
浜本 そのとおりなのです。漁業法第22条に規定した漁業権の変更免許の手続きというものは、漁業法第1条にある「水面をよりよく総合的高度利用する」目的で漁業権を変更することができるという規定なんです。埋め立てのために漁業権を一部放棄するから変更してくれというような規定は漁業法にはまったくありません。漁業生産力を発展させるために見直しをするのが変更免許ですから、漁業権放棄のように漁場を小さくする変更免許は、内閣法制局でも「できない」と回答しています。
(中略)
浜本 漁業権の変更免許の話をしましたが、実は新規免許については第11条にちゃんと書いてあります。「漁業上の総合利用を図り、漁業生産力を維持発展させるためには漁業権の内容たる漁業の免許をする必要」がある、という規定です。そして、変更免許というのは、当初の免許の内容がちがったとか、天変地異が起こった時により良く利用するために漁業権の内容を変更する手続きなのです。まさに、第1条の目的を、漁業権の免許というところで実践しているわけです。
 この点では、建設省とか農林水産省の干拓事業との関係で、水産庁との間に覚書ができています。それは、法律のうえでは土地収用法とか農地法で漁業権を収容することができることになっています。ところが水産庁長官と建設省と、農林水産省構造改善局との覚書というのは、土地収用法とか、農地法で漁業権を消滅させた水面で、もし埋め立て事業や干拓事業が行われない場合は、「水面の総合的利用のために漁業権を免許する」という約束になっている。これは漁業法の目的からいってあたりまえです。ところが、漁民は自分が放棄したから、未来永劫にわたって漁業権は免許されないんだと思い込んでる。というのは土地を売ったのと同じだと思っている。
(「海の『守り人』論」p296)




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2024年06月30日

車の基本は、走って、曲がって、止まる

4回目。

トヨタも不正か!というニュースが賑わっているが、ダイハツにしろ、トヨタにしろ、同じ系列会社が不正に関わった。
しかし、私は、トヨタの車はいいと思うし、ダイハツの車もいいと思っている。
何より、壊れない。
今まで乗ってきた中で、一番安定しているのが、トヨタ系列だと思う。

日産には悪いが、塗装が良くない。
ちゃんと洗っていないと、錆びやすい。
以前、日産アトラスというトラックを買った時には、後悔した。
中古でも、いすずの方が丈夫だった。

ホンダには悪いが、細かい部分がいかれやすい。
この前など、止まっていた私の中古プレオに、N-BOXがぶつかってきて、プレオはバンパーに傷のみ。
相手はパンパーが凹んで、あれは交換するしかない。
私のは、どうでもいい傷だったので、「何もしなくていいから」と言ったが、相手は車両保険を使いたいためか、事故証明を取るためにおまわりさんが呼ぶという。
時間がもったいなかった。
ホンダ車には、追突されたくない。
ほかに、車が動かなくなった、というのもある(笑)。

車は、走って曲がって止る。
この確実さが一番じゃないのかなあ、と思う。
私のは、かなり前のプレオだが、これが、何も付いてないので、車体が非常に軽い。
手回しの原始的な窓で、窓を閉めなくても、エンジンを止められる(笑)。
付属品は、原始的なエアコンのみ。
軽いせいか、平地は勝手に走っていくし、下り坂は、加速する一方。
おかげさまで、おまわりさんに捕まった(笑)。
軽くて車高も低いから、カーブも簡単に回れるし、ブレーキを踏めば、すぐに止まる(意外にも、アンチロックがついている。笑)
軽量プレオとCVTは非常に相性がよく、三陸道を走れば非常に快適で、プリウスユーザーに貸したら、「外見はカッコよくないが、走りはいいし、燃費も悪くない」と褒められた(プレオは、ダイハツミラのOEM車だから、ミラを同列と考えていい)。

今は、過剰な安全装置で、車体が重くなっている。
いくら安全装置が優れていても、事故はなくならない。
運転手が、無謀運転したりしたら、事故は起きる。
だから、そういう運転をしないように、更新時講習をみんなが受ける。
最近、流行っているらしいが、気を失ったり、突然死したら、もっと重大な事故は起きる。
今や、曲がれない車はないし、止まれない車は、100%ないだろう。
運転手の問題ね。

トヨタの認証不正について、まあ、国に従わなかった、というのが、見つかったというだけで、そんなに悪いことをしたわけではなかった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2be699694f28a4e15bfe79c2dffa928165dbb216(「Yahoo!ニュース」)

国に従わない、ということは、国に背いて、そして、国の認証試験より厳しくしているのだから、トヨタはエライ!
これが、不正かね。
アホらし。

もっとアホらしいのは、EVバカである。
EVは、環境汚染車である。
EVに使われているリチウムイオンバッテリーで、リチウムは、リサイクルできていない。

https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2201/26/news018.html(「MONOist」)

だから、回収したリチウムは、ただのゴミにしかならず、それも、ちゃんと隔離しなければならない。
しかも、EVのタイヤは、非常に減りやすい。

http://platinum-room.seesaa.net/(「Merkmal」)

EVが重量が重いためタイヤが減りやすく、加速や制動も強いため、ますます減りやすい。
軽量プレオとは、大違い!
そのため、タイヤの粉塵量も、非常に多くなるようだ。(※1)
充電する電源に関しても、電力会社の系統なら、化石燃料エネルギーだから、何も環境にやさしくない。
ソーラー自家発電からの充電ならば、まだわかる。

なぜ、ヨーロッパがEVバカになったか、というと、どうやら、ガソリンエンジンやハイブリッドで、日本にぜんぜん太刀打ちできないから。
それで、日本をいじめてやれ、というので、EVバカになったらしい。

https://president.jp/articles/-/45580(「プレジデントオンライン

しかし、頼みのEVも、ヨーロッパの思惑からはずれ、中国のBYDに占領されつつある。(※2)
欧米は、白人優越主義から、アジアやアフリカを鬼畜のように扱っていじめようとするから、こんなことになるのだ。
彼らは支配することだけを考え、モノづくりに向いていないのかもしれない。

BYDは、もともと、バッテリーメーカーだ。
だから、仮に車でこけても、やっていける。
これが強みだという。(※3)

トヨタの全固体バッテリーとBYDの競争になってきた。
EVの購入は、全固体バッテリーが開発されてからがいいだろう。
まあ、私には買えませんけどね。
30万円で買ったプレオで十分です。
ちゃんと、走って、曲がって、止まりますから。




(※1)
現在のEVは、「環境破壊車」として、まっとうなエコロジストがブチ切れるようなシロモノなんです。
 まず現在のEVが抱える最大の問題点は「バッテリー」です。高出力のリチウム電池の普及に伴いEVの性能も大幅に上がりましたが、このリチウム電池、充電・放電を繰り返すと急速に劣化します。スマホすら3年程度で衰えるでしょ。当然、高出力の電気自動車はそれ以上に短期間で交換しなければなりません。
 ここで重要なのは、廃棄となったリチウム電池の処理。実は依然として「リサイクル技術」の完成の目処が立っていなんですよ。
 レアメタルのリチウムは基本「劇物」です。リチウム鉱山の採掘では激しい環境基準が設けられるほどで、液化(イオン化)している以上、適当に廃棄すれば液漏れで環境を破壊しかねない。スマホなどのバッテリーは小さい分、処理もマシですけど、これが普通車クラスのEVとなれば、1台でスマホ千台分の量となります。そんなものを「主力車両」にすれば、「20年もかからずEV廃棄物汚染による深刻な環境破壊が起こるのでは」と予想するリケダン(理系男子)の意見は傾聴に値します。
 あと、バッテリーって寒暖に弱いでしょ。スマホでも寒い日は電池切れが早くなりますし、逆に真夏日ではバッテリーを冷却するために、やはり電力を消費します。冷却しないとリチウム電池は爆発しちゃいますからね。
 自動車は人の命を乗せて走ります。大雪の日、バッテリーが切れたら凍死しますし、夏場もクーラーが止まれば命に関わります。EV車両を長期間、野外に放置した場合、条件によってはバッテリーが爆発する懸念も強いのです。
 また普通車クラスのEVは通常のガソリン車やハイブリッド車に比べて大量のバッテリーを積む分、だいたい300キロ以上に重量が増します。現在のタイヤはガソリン車を基準に製造されていますから、重いEV車に装着するとタイヤ溝がガリガリ削れて、この大量のタイヤカスの粉塵被害は、すでに深刻な社会問題になっているぐらいです。
 つまりバッテリーの問題が解決しないかぎり、EVの本格導入は時期尚早なんですね。最もスターターや電動アシストの自転車、二人用のミニ車両に使う分にはEVは有能です。モーター駆動で静かなうえ自宅で気軽に充電できるのもメリットです。
 EVの本格導入は現在トヨタがリードする「全固体バッテリー」の実用化を気長に待ち、またリサイクル技術を含めた技術的なブレイクスルーが起こらないかぎり、普通車レベルの導入は「しないほうがいい」というのがEVに対する正しい認識となるわけです。
(「紙の爆弾」2024年7月号p36)

(※2)
なぜ、EUがこんな「狂気の沙汰」を強行しようとしてきたのかといえば、もちろん理由があります。このゼロエミッション車計画、実は内燃機関(エンジン)とハイブリッド技術で日本のメーカーに太刀打ちできなくなった欧州メーカーが泣きついたことで始まった、といわれているんです。
 実は欧米の自動車メーカーは、ガソリンエンジンを「完成された技術」として、1990年代以降、研究開発をおざなりにしてきました。結果、ガソリンの次は「グリーンディーゼル」と言い出したものの、盛大に失敗して電気自動車に飛びつくしかなかったわけです。
 当然、地道にエンジン開発を続けてきた日本のメーカーとの差は開くばかり。いまのF1はホンダエンジンを積んだレッドブルチームの勝率がこの3年、9割を超え、90年代のホンダ黄金期以上の格差を見せつけており、ここからも現在の欧州自動車メーカーが「新型エンジン」の開発競争に脱落している実情が読み取れるのです。
 そんなわけでスタートした「EU内から日本車(ガソリン車・ハイブリッド車)を排除、欧州メーカーが先行しているEVにバンバン補助金付けて売りまくる計画」。しかし、これまた盛大に失敗しております。
 その失敗の要因が今回、採り上げたBYDでございます。「比亜迪」と書いて中国の発音は「ビーヤーディ」。英語の略語じゃないんですね。
 さて、このBYDですが、現時点で「世界一の電気自動車メーカー」です。ついに化けの皮が剥がれて大規模リストラとリコールと環境破壊の訴訟の嵐が吹き荒れているテスラ(米)を尻目に、年間生産台数950万台、とくにEV補助金をばらまくEU内で荒稼ぎしております。
(前掲書p37)

(※3)
見た目は自動車メーカーでも中身はバッテリー会社。ここに、この会社の「強み」と「将来性」があると思うのです。以前、NHKが「激流中国」(07年)という経済発展する中国の大型ドキュメンタリーを放送したんですが「中国の自動車メーカーはエンジンが作れない」と、特許(パテント)の切れた70年代のカローラのエンジンをそのまま作って乗っけていると商会していて、けっこう、驚いたものです。
 自動車はエンジンをベースにして車体を開発します。そしてエンジンの開発は莫大な研究予算がかかります。つまり自動車メーカーは、金のかかるエンジン開発を行なうために、自動車を売って稼いでいるわけでして、いまだに新型エンジンを自主開発できない(金がかかるからやらない)中国や韓国のメーカーは「もどき」と言わざるを得ないのですよ。
 その点でBYDは違います。ベースがバッテリー会社だけに、最初からエンジン開発など眼中にないでしょうし、開発もバッテリーとモーター、その制御装置といったPU(パワーユニット)に集約できます。リサイクル技術も会社の存亡がかかっている以上、莫大な研究費を注ぎ込んでいるでしょうし、EUで荒稼ぎできたおかげで全固体バッテリーの開発ではトヨタと真っ向勝負できる体力をついています。
(前掲書p39)



posted by T.Sasaki at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする